最初の苦難

世界的な経済危機
 本書を執筆している平成の世、バブル経済が崩壊した後にやってきた長期にわたる不況は、デフレスパイラル(悪循環型のデフレ)によるものであった。
 デフレはインフレの反意語である。かんたんにいえば物価下落を意味するが、それには2種類ある。ひとつは景気後退とともに物価が下落するとき、それにともなって原料や賃金も下落するケースである。この場合は自然に市場の調整機能がバランスよく働いて、投資条件が改善されるから、比較的短期間に回復に向かう。もうひとつは、景気後退にともなって物価が下落しても、投資条件が改善されないで、むしろ悪化するケースである。この場合は逆に投資が縮小し、さらに需要の減少、物価の下落を促進するという悪循環に陥ってゆく。
 スパイラル型のデフレは、1929年(昭和4)のアメリカ大恐慌で初めて現れたパターンである。当時のアメリカはイギリスに代わって世界経済の中心になっていた。国内は異常な消費景気につつまれ、株式ブームに沸き立っていた。過熱ともいえる投資が金融逼迫をもたらしたせいか、1929年10月24日の木曜日、ニューヨーク株式市場は大暴落したのである。このとき市場機能は均衡破壊的に作用しつづけた。デフレが進めば進むほど投資は縮小し、ほとんどゼロに近づいたのである。その結果、銀行の破産も失業も、史上最高の水準に増大した。アメリカの経済活動を大幅に縮小させただけでなく、ドイツ、イギリス、フランスをはじめ世界各国を巻きこんでいった。工業生産高の激減、農産物価格の暴落、貿易の停滞などが重なり、史上最大の世界恐慌に発展していった。
 4年間つづいた世界的な大パニックが日本経済に影響をおよぼすのは、1930年(昭和5)からである。前年7月に成立した浜口雄幸を首相とする民政党内閣は、諸外国の圧力に屈して、1月11日付で金解禁に踏みきった。もともと金本位制は第1次世界大戦時から停止されていたが、欧米の主要26カ国は経済復興にともない金解禁に向かっていた。世界の大勢にとりのこされていた日本は、慢性的な不況から脱するために、金解禁に活路を見出そうとした。当時の日本は大幅な輸入超過がつづき、貿易収支が悪化していた。国際収支を改善するために金本位制移行に踏みきったのだが、これが裏目に出てしまうのである。
 開放体制をとったばかりの日本経済は、体質の脆弱さからアメリカ発の世界恐慌にまるごと呑みこまれてしまった。当時の2大産業といえば絹紡・綿紡だが、絹と綿の価格が暴落したのである。不況のアメリカでは、絹の消費がいちじるしく減退、たちまち生糸輸出が激減した。綿製品も同じ運命をたどった。主な輸出先である中国、インドでは農産物価格と銀価格が暴落して購買力が大きく減退した。さらにインドは綿布輸入関税の引き上げたから、綿布の価格はたちまち40%も低下してしまったのである。輸出の主役である2大産業の悪化は、日本経済に大きな打撃をあたえ、昭和恐慌という大不況に突入していったのである。昭和恐慌の大きな特徴は、生産スケールはほとんどそのままで、製品価格だけが大幅に低下したところにある。
 不況の進行とともに大企業はカルテルを強化して生産制限に向かった。繊維産業では1930年(昭和5)に綿紡が約30%、絹、人絹、生糸なども10〜20%の操業短縮を実施している。生産物の価格は自然と割高となり、これらを原材料として使用する繊維の2次メーカーは原料高・製品安に悩まされることになった。
 金解禁をきっかけに日本経済を呑みこんだ大不況は企業収益だけでなく、国民生活をも圧迫した。民間企業では賃金、俸給が大幅にカットされ、国や地方公共団体でも税収の低下により、公務員の俸給未払いが相次いだ。日本クロスでも一時的に賃金カットや減俸を実施した。


試練の5年間

 昭和恐慌は創立10周年を迎えた日本クロスの業績にも大きな影響をおよぼした。創業期の苦しみを乗り越え、ようやく企業の基礎を確立したと思う間もなく、大きな試練に直面したのである。
 業績への影響は、すでに1929年(昭和4年)の後半期(7〜12月)から具体的に現れ、利益高が前期の半分にまで落ち込んだ。1930年(昭和5)前半の第22期(1〜6月)にはさらに悪化、生産高こそ現状を維持したが、売上高は前期比17%減、利益高は48%も減少し、およそ1年で利益率が4分の1になってしまったのである。事実、1930年(昭和5)前半期は、同じ売上高の1928年(昭和3)前半期と比較すると、利益高は26%にまで落ちこんでいる。
 結論からいうと、深刻な繊維不況の影響をまともに喰ってしまったのである。当時、繊維製品は総じて価格低下がいちじるしかった。さらに綿製品や雑貨の主要輸出先国であった中国やアジア諸国にも世界恐慌の影響が現れ、アジア輸出が停滞したため輸出向け製品が国内市場にダブつきはじめた。さらに日本の為替相場の暴騰によって、輸出品、輸入品ともに価格が下落したのである。輸出の場合は値下げしないと売れない。一方、輸入品はいっそう安値で流入、国内市場を大混乱に陥れる結果になったのである。
 市場環境の悪化からクロス製品は売価の引き下げを強いられた。さらに日本クロスのような繊維の2次メーカーは〈原料高・製品安〉の影響をもろに受けてしまったのである。昭和恐慌による不況の特徴は、生産水準はそのままで価格だけが大幅にダウンしたところにあると述べたが、たとえば全売上高の80%を占めるクロス部門は、生産・販売数量に見るかぎり大幅な変動はない。最も落ちこんだ1932(昭和7)年ですら、ピーク時の1929年(昭和4)にくらべて、わずか14%しか減少していないのである。売上高の減少は平均単価の低下によるものであり、利益率の低下は原料高によるものだった。
 日本クロスの業績不振はおよそ5年間つづいた。1931年(昭和6)は為替暴落による輸出の不振、さらには満州事変勃発による世情不安などが加わってゆく。1932年(昭和7)は金輸出再禁止(前年12月)の影響もあって為替相場が暴落、「金よりモノへ」という混乱状態がつづき、原料価格が暴騰した。このような背景から、売上高は2年連続で減少傾向をたどった。それまでのピークだった1929年(昭和4)を100とすれば、1931年(昭和6)は62、1932年(昭和7)は58と大幅に落ちこんでいる。そのうえ対米輸出の不振によって染色加工部門の業績悪化が大きく足をひっぱる結果になった。
 創業以来初めての危機を乗りきるために、長期にわたって合理化の諸策が展開されている。1930年(昭和5)後半の第23期から、役員報酬の半減、余剰人員の整理、経費の大幅2削減をはじめとする不況対策を次つぎに実施した。4年連続で1割2分を維持していた株式配当も6分に減配した。
 資金面では安田信託銀行から資金20万円を低利で借入して債務整理にあて、什器や手持原料の一部を処分して資金の円滑化を図るなど、ひたすら内部体質の強化につとめた。
 大幅な経費節減を実施するとともに、老朽設備を順次に新鋭設備に更新するなど品質と生産性の向上、さらにはコストダウンにも全力をそそいだ。コストダウンの大きなポイントは原材料の手当てにあった。当時は綿布をはじめとする原材料の相場がめまぐるしく乱高下を繰り返していた。現実にそれらの効果的な入手方法が企業の業績さえも左右したのである。金解禁下のインフレ時代には、思惑買いから生ずる手持品の評価損、資金の固定化をさけるために消極方針を貫き、ひたすら資産内容の健全化につとめた。その結果、相場が反落した昭和6年(1931)4月にも、ほとんど影響を受けることがなかった。逆にそのときに割安な原材料を大量に手当てして、もっぱら価格競争力の蓄積につとめるなど、効率的な資材手当てに全力をあげた。
 ようやく景気回復の兆しが見えてくるのは1933年(昭和8)ごろからである。クロス部門の新製品が新市場を開拓、染・再整部門では輸出向け人絹織物の加工が活発になり、危機を脱するきっかけをつかむのである。


新製品で販路拡大

 出版は「不況に強い」といわれたが、昭和恐慌のころに関していえば、円本ブームもピークを過ぎて反動不況に陥っていた。しかし、出版業界にかげりが見えても、教科書用クロスは景気にさほど影響されなかったようである。
 昭和5〜6年ごろの小学校児童生徒数は約920万人である。1人当たり年間15冊の教科書を使用するとして、小学校用教科書だけでも1億3,800万冊になる。当時は古本が利用されるケースもあったとはいえ、巨大なマーケットであった。
 このころになると、小学校の国定教科書をはじめ、中学校・師範学校などの教科書の背貼りクロスには、ほとんど日本クロス製品が使用されるようになっていた。教科書用クロスの出荷量は月平均20万ヤード、年間では2,400万ヤードであった。クロス製品の総販売量のうち60〜70%を教科書が占めていた。長期にわたる不況にもかかわらず、工場の稼動率があまり低下しなかったのは、教科書用クロスの固定需要があったからである。
 新製品による新しい市場開拓も1929年(昭和4)ごろから活発化している。同年12月に設計製図素材・トレーシングクロスにより海軍指定工場として登録された。トレーシングクロスは1927年(昭和2)に完成していたが、海軍に採用されたのがきっかけで主力商品のひとつになっていった。それまで海軍が使用する艦艇建設用のトレーシングクロスはイギリス製かフランス製であったが、日本クロスは輸入品に対して20%のコストダウンを実現して採用された。
 トレーシングクロスにつづいて、1930年(昭和5)にはブラインドクロス、1932年(昭和7)にはタイプライターリボン、ウォールクロスなどの新製品を開発した。
 とくにブラインドクロスはトレーシングクロスとともに1930年(昭和5)8月に商工省から優良国産品に選定されて、当時の主力商品のひとつになった。優良国産品の指定というのは、当時の政府が国民運動として推進した国産品奨励政策から生まれたものである。金解禁によって為替相場が暴落、国内は輸出不振による滞留品に加えて超安価な輸入品があふれ、国内産業はさらにいっそう不況色を強めた。そこで政府は輸入制限と国産品の使用奨励を組織的に展開したのである。
 政府の国産品奨励政策という規制によって、1934年(昭和9)以降、クロスの輸入製品は完全に日本のマーケットから姿を消してゆく。さらに朝鮮、中国、インドネシアをはじめとする東南アジア諸国にまで日本クロス製品が輸出されるようになった。1933年(昭和8)ごろからは、インド輸出も始まっている。当時インドではイギリス製品を排斥する動きがにわかに活発になり、代わって日本製品が求めらるようになった。インドの経典、教科書用に日本クロスの製品が大量に輸出されている。
 アジア地域への輸出が活発化するにともない、海外への工場進出も具体的に検討されている。坂部三次は1933年(昭和8)6月から3カ月にわたって東南アジアを視察しているが、それはジャワのバンドンに工場を建設しようという計画があったからだった。


染色加工に転機

 人絹織物の好調な輸出で業績を伸ばしていた染・再整部門は、昭和恐慌で深い打撃をこうむった。為替相場の不安定、満州事変勃発による政情不安によって輸出が低迷、たちまち業績は悪化した。さらに1929(昭和4)以降になると、人絹原糸が大暴落して加工賃が値崩れし、アメリカ、インド向け輸出の不振などがあって、業績悪化は1932年(昭和7)ごろまでつづいた。
 国内の業界の構造変化も無縁ではなかった。輸出向け人絹織物の染色は、もともと京都が中心だったが、昭和になると大阪、横浜、さらには神戸、福井の産地が台頭してきた。なかでも福井の新規参入業者は、大工場システムでコストダウンに成功し、専業メーカーとして力をつけていた。専業でない京都の業者とでは、加工賃に大幅なギャップが生じてきたのである。国内の競争激化によって採算性がにわかに悪化した。そのうえ業界の急激な膨張のせいで一時的に品質も低下してしまった。
 1932年(昭和7)2月、商工省はやむなく人絹織物の染色業界にも「重要産業統制法」の適用に踏みきった。品質の向上、加工賃の統一などを内容とした国家による法的な規制措置である。
 統制機関として日本人絹染色連合株式会社が設立された。同社はいわば工業組合で、各産地ごとに加工数量を割り当て、さらに各産地の工業組合連合会が、それぞれのメーカーに加工数量を割り当てるというシステムであった。業者は割り当てられた数量のほか1反も自由に加工することはできなかった。
 京都の輸出染色業界は、このような国家統制システムの恩恵でようやく生きのびることができた。過渡期を迎えた染色加工業界にあって、日本クロスは大きな転機に直面していた。専業メーカーをめざすべきか、それとも特殊分野にのびる道を選ぶべきか……である。最終的には、付加価値の高い特殊加工に生きる道を選択するのだが、過渡期の経営的な岐路に立ってのとまどいが業績のうえにも微妙な影を落とすことになった。

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