経済大国『日本』

変貌する国民生活
 1958年(昭和33)の後半から始まった「岩戸景気」は1961年(昭和36)までつづいたが、3年におよぶ好況時代を支えたのは技術革新と投資ブームであった。株式市場は大型相場に熱狂、企業の設備投資もにわかに活況となった。1959年(昭和34)の設備投資は前年比31%増、1960年(昭和35)は同41%増というきわめて高水準を記録している。
 1959年(昭和34)の国民総生産(GNP)は前年比17.5%増と戦後最高を記録、さらに翌年の1960年(昭和35)も14.0%と高水準を持続、かくして日本経済は高度成長時代に突入してゆくのである。
 好景気によって若年サラリーマンや労働者の収入が急激に増加、国民の間に「中流意識」がひろがっていった。各企業はこのころから技術・管理・販売部門の拡大に乗りだしたが、いわゆるホワイトカラー層の増加と賃金の大幅な上昇が大企業のサラリーマンを新しい中産層に押しあげていった。
 新しい中産層は大量消費社会=消費革命のリード役を果たすようになってゆく。たとえば当時「3種の神器」といわれたテレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫の普及率も、この層ではきわめて高く、すでにしてマイカーやクーラーにも食指を伸ばし始めていた。
 新中産層の増大と消費ブームの到来は〈生産〉と〈消費〉に介在する流通システムにも大きな変革を促した。大量生産・大量消費の時代には、生産者、卸問屋、2次問屋、小売商という従来の伝統的な流通チャネルだけでは、もはや適応できなくなったのである。
 食料品、繊維製品、台所用品、化粧品、医薬品などの小売市場に、スーパーマーケット、スーパーストア、SSDDS(Self Service Discount Department Store)などの大型店舗が出現、豊富な品ぞろえと大幅な値引き販売で顧客を集め始めた。スーパーを代表とする大型量販店の出現は、生産者―問屋―小売という従来の流通経路に革命的な変化をもたらしたという意味で`流通革命aと呼ばれた。
 泰平ムードに酔いしれるなか、1960年(昭和35)には、国民を騒然とさせる社会的事件が相次いだ。年初から日米安保条約をめぐる反安保闘争が激化、6月には米大統領の訪日中止、安保阻止の580万人デモ、全学連と警官隊の衝突、東大生・樺美智子の死亡事件がつづき、10月には社会党委員長・浅沼稲次郎刺殺事件が起こっている。そのほか三井三池争議が激化するなど、全国的に労働争議が活発になっていったのも、このころからである。
 自然承認された新安保条約の発効を待つかたちで岸信介首相が退陣、代わって池田勇人内閣が発足した。物情騒然とした状況がつづき、一国の総理大臣が代わっても、日本経済はそんなこととは関わりなしに右肩上がりに突っ走っていった。


「40年不況」と「いざなぎ景気」

 1964年(昭和39)秋、アジアで初めてのオリンピックが東京で開かれた。競技場などのオリンピック施設、高速道路の建設、道路網や地下鉄などの拡張が進められた。オリンピック関連の建設事業に1兆円が投じられ、`オリンピック景気aなる現象をもたらした。実質成長率は前年比11.2%、国民所得も同12.4%増となったが、その裏側で民間企業の利益率は大幅に低下していた。
 企業経営の悪化が懸念されるなか、民間企業の設備投資意欲は衰えることなく、1964年(昭和39)度は前年の3倍にもふくれ上がった。過剰設備・過剰生産がしだいに深刻になり、収益率の低下、資産内容の悪化、借入金過多をもたらした。
 1964年(昭和39)秋から1年間つづいた「40年不況」の内実は過剰生産不況であった。「40年不況」の特徴を一口でいえば、マクロとミクロの乖離現象である。このときの不況はマクロ経済よりもミクロ経済に深刻な打撃をあたえたのである。経済成長率(マクロ)は、前年の半分に減速したものの5%を維持、鉱工業生産の落ち込みも過去の不況にくらべて軽微なものであった。ところが上場企業の業績は1964年(昭和39)度下期から翌年の下期まで、戦後初めて3期連続の減益決算となり、企業倒産も戦後最高を記録した。中小企業だけでなく、大手上場企業の日本特殊鋼、サンウエーブ工業(1964年12月)、山陽特殊製鋼(1965年3月)までもが会社更生法の適用を申請して事実上の倒産に追いこまれた。
 さらに経済界に大きな衝撃をあたえたのは1965年(昭和40)5月の山一証券の経営破綻であった。山一の経営危機が明らかになると、顧客が店頭に押しかけて大混乱となった。4大証券のひとつ山一の経営危機によって証券界の構造的な問題が露呈、混乱はその後もエスカレートするばかりで、いわゆる証券恐慌に発展した。このとき政府・日銀は金融システムそのものの信頼失墜の懸念から、緊急特別融資という非常手段をもって山一を救済した。
 「40年不況」は3度にわたる公定歩合の引き下げによっても食い止められず、とうとうタブーを破って国債発行に踏みきった。1966年(昭和41)になると一転して景気は上向きになり、「いざなぎ景気」と呼ばれる大型景気がやってくる。
 日本経済は1970年(昭和45)半ばまでの4年間、この「いざなぎ景気」と呼ばれる景気拡大によって、経済大国への道を突き進んだ。
 毎年10%を上回る高度成長を記録、1968年(昭和43)には、西ドイツをぬいて自由主義国に限ればGNPは世界第2位に躍進した。1960年代前半までは貿易赤字国だったが、国際収支は一気に好転、1960年代後半からは黒字国になった。
 生産活動に基調の変化が現れたのもこのころからであった。自動車産業と電子工業がめざましい発展をとげ、わが国輸出産業の中心になってゆく。その結果、経済成長の主役は設備投資から、技術力を背景にした輸出へとシフトチェンジが進んだのである。
 大型合併がつづいたのも、この時代の特徴であった。1966年(昭和41)には東洋紡が呉羽紡を、日産自動車がプリンス自動車を吸収合併した。1968年(昭和43)には日商岩井が発足(日商と岩井が合併)、1969年(昭和43)にはニチボーと日本レイヨンが合併してユニチカが発足、そして1970年(昭和45)には八幡製鉄と富士製鉄が合併して、超巨大企業〈新日本製鉄〉が発足した。いずれも資本自由化に対応するため、規模拡大による国際競争力の強化をめざしての選択であった。


産業社会に新しい波

 1960年代の後半になると、日本の産業社会にニューウェーブが現れる。「モータリゼーション」の急速な進展と、コンピュータの普及による「情報化社会」到来の予兆である。
 1966年(昭和41)は“マイカー元年”といわれた年であった。1960年代から乗用車市場は主にブルーバード、コロナなど小型車中心に需要拡大が図られてきたが、1966年(昭和41)ごろからカローラ、サニーなど低価格の大衆車が発売され、新中産層を中心にしてマイカー族が増え始めた。
 1967年(昭和42)ごろになると日本はすでに自動車の生産台数で世界第3位、保有台数でも5位の自動車王国になっていた。世帯当たりの普及率も都市部では10%に達していた。自動車産業の生産額も製造業全体の8%と鉄鋼に次ぐ地位を占めた。関連産業を加えるとすでにして鉄鋼に次ぐ巨大産業に成長しており、経済成長のリーダーになりつつあった。
 モータリゼーションは日本経済に量的な側面から大きな影響をもたらしたが、質的な面から変革をもたらしたのはコンピュータによる「情報革命」の進展であった。当時の日本は西ドイツとともにアメリカに次ぐコンピュータ保有国であった。すでに上場企業の70%はコンピュータを経営に活用していた。国民の日常生活のうえでも、「みどりの窓口」や郵便局、銀行の窓口のオンラインシステムなど、コンピュータは浸透しつつあった。
 コンピュータの登場は「情報」というものに新しい光をあて、その社会的な価値を再認識させた。そして〈第1次〉〈第2次〉〈第3次〉という従来の産業概念に風穴をあけ、やがて情報産業という新しい産業をもたらしてゆくのである。
 「情報」というものが国民経済のなかで大きな地位を占め、政治、経済のみならず社会、文化までもリードしてゆく。当時の国民の大多数にしてみれば、それはまだSF小説の世界にすぎなかったが、20年もたたないうちに現実のものになるのである。

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