日本経済『第2の転換期』

産業公害と反企業ムード
 日本経済は1958年(昭和33)から1973年(昭和48)まで、15年間にわたり平均年率9.5%にのぼる高い成長率を持続した。「10%成長があたりまえ、5%なら不景気……」という風潮のなかで、経済中心主義で突っ走ったツケが少しずつ顕在化してきた。
 1970年(昭和45)は、いわゆる産業公害、環境汚染が社会的事件として大きくクローズアップされた年であった。すでに1960年代に顕在化していた4大公害事件(四日市ぜんそく、水俣病、イタイタイ病、阿賀野川水銀中毒)の訴訟が進むなかで、市民生活を脅かす新しい公害が現れてきた。東京牛込区の自動車排気ガスによる鉛中毒、東京杉並区の光化学スモッグ、静岡県田子の浦のヘドロ公害などが、この年に相次いで表面化したのである。
 これより先、公害問題が顕在化するなかで、1967年(昭和42)に「公害対策基本法」が制定されている。だが同法はあくまで公害防止の基本的の方向を定めるにとどまり、環境基準の設定など具体的な公害対策は先送りされていた。国の公害対策の遅れがきびしく糾弾され、企業の社会的責任が問われるなど、高まる公害批判を受けて、遅ればせながら政府の取り組みも始まった。
 1970年(昭和45)11月からの臨時国会で、公害基本法が改正され、公害防止事業費事業者負担法など公害関連の14法案が成立した。公害基本法の改正によって、公害対策の範囲は自然環境保護や廃棄物処理にもひろげられた。翌1971年(昭和46)には環境庁が発足、関係各省で個別に展開されてきた公害行政が集中化されるようになった。世界有数の公害規制国への転身である。そのお陰で日本は、大気汚染や水質汚濁の環境基準に関して、世界の優等生といわれるレベルにまで達したのである。


ニクソン・ショック

 1971年(昭和46)のニクソン・ショックから1973年(昭和48)の第1次石油ショックまでの3年間は、日本経済が戦後最大の波乱にみまわれた時期であった。6ドル不安によるIMF体制の動揺、変動相場制への移行、日本列島改造論による投機の盛況、インフレの加速、公害問題による反企業ムードの高まりなど、かつて経験したことのない問題がこの時期に集中したのである。
 ニクソン米大統領がドル防衛の緊急対策を発表したのは1971年(昭和46)8月15日であった。「ドルと金の交換停止」「10%の輸入課徴金実施」「賃金・物価の90日間凍結」を内容とする〈ニクソン・ショック〉は、世界経済をゆるがした。先進諸国は為替レートをいっせいにフロート(実質的切り上げ)させ、日本も360円の対ドル為替レートを308円に切り上げた。そして1973年(昭和48)2月、各国とともに変動相場制に移行していった。
 国内景気は1970年(昭和45)後半から停滞、さらに円の大幅なフロートアップで、「輸出の減少による国際収支の悪化」と「デフレ・ショック」が懸念されたが、円切り上げの影響はほとんど現れてこなかった。それどころか1972年(昭和47)の国際収支は前年を上回る60億ドルあまりの黒字となり、実質GNPも前年の2倍にあたる8%台の伸び率を示し、企業収益も急速に回復した。
 日本経済がニクソン・ショックを乗りきって、上昇機運に入った1972年(昭和47)7月、佐藤栄作内閣に代わって田中角栄内閣が発足した。田中内閣が新政策の柱にすえたのが「日本列島改造論」であった。日本列島改造論はおりからの金融緩和のもとで進行していた企業の土地投機に油を注ぎ、土地転がし、マンション投機などへとエスカレートしていった。地価の高騰につれて卸売物価が急上昇して、日本経済はかつて経験したこともない複雑なインフレ現象にみまわれた。


第1次石油危機の勃発

 1973年(昭和48)10月6日に勃発した第4次中東戦争は、中東産油国に石油供給の削減という世界戦略を行使させてしまった。OAPEC(アラブ石油輸出国機構)10カ国は月5%ずつ石油生産を削減、アメリカなど非友好国には全面禁輸、日本など中立国には輸出量の削減を通告、さらに原油公示価格の70%引き上げを実施したのである。1974年(昭和49)1月にかけて原油価格は4倍高となり、原油の99%を輸入に頼る日本経済にとって大きな打撃となった。現実に1974年(昭和49)の経済成長率はマイナス0.8%となり、戦後初めてのマイナス成長に陥った。
 石油・電力の使用削減によってエネルギー多消費型の重化学工業の低迷はさけられない状況となった。その結果いわゆる〈モノ不足〉が喧伝され、たとえばトイレット・ペーパーの買いだめ騒動のように、ケガ人が出るほどのパニック現象がおこった。さらに石油価格の上昇は、おりから進行していた物価高騰に追い打ちをかけた。インフレは1973年(昭和48)秋から急速に進行、翌1974年(昭和49)2月には卸売物価が37%、消費者物価が26%も高騰して、いわゆる〈狂乱物価〉をもたらした。
 石油危機による狂乱物価は政府の引締政策の強化によって、1975年(昭和50)に入ると落ち着きをとりもどした。原油の高騰で大幅赤字となった国際収支も同年秋から黒字に転じた。だが1975年(昭和50)9月期になっても企業の業績は好転しなかった。内需の減退と燃料価格高騰の影響を受けて、鉄鋼、化学、紙パルプなどの素材産業、海運、工作機械などは大幅な赤字だった。そのため産業界は高度成長時代の贅肉落としのため、いっせいに減量5経営に向かった。企業活動の路線変更は深刻な雇用不安に発展、この年の完全失業者は100万人の大台を突破した。
 国内需要の回復感は乏しかったが、マクロで見ると1973年(昭和48)11月に始まった景気後退は、1975年(昭和50)3月に底入れしている。同年の経済成長率は2.9%、1976年(昭和51)は4.2%と順調な回復ぶりを記録している。家電、自動車、精密機械などの輸出が内需の落ち込みをカバーして、日本経済の救世主になったのである。
 日本経済は1990年(平成3)に「第3の転換期」を迎えるが、それまでの15年間の実質経済成長率は年平均4.3%で推移している。高度成長から減速経済へ……。その転換点がオイルショックだったのである。


円高に揺れる

 1977-78年(昭和52-53)の日本経済を特徴づけたのは円相場の急騰であった。国際収支の大幅黒字で円高が進み、1978年(昭和53)10月には1ドル=175円59銭と新高値を記録した。それでも国際収支の不均衡は解消されることなく、むしろ黒字は拡大されていった。1978年(昭和53)の国際収支は206億ドルと史上空前の黒字を計上している。日本製品はそれほどまでに国際競争力をつけていた。石油危機以降、企業は積極的に省エネルギー投資を行い、生産設備にME技術を活用するなど、徹底した合理化、省力化で競争力を飛躍的に向上させていたのである。
 円高は内外に大きな波紋をもたらした。先進諸国の日本に対する批判が高まり、日本製品に対する輸入規制が行われる一方、農産物などについて日本市場の開放を迫られるなど、国際的な圧力を受けることになる。さらに円レートの高騰は、国内輸出業者の経営悪化を招き、日本経済の先行きに暗い影を落とした。
 1978年(昭和53)の実質成長率は5.5%、高度成長時代にくらべれば、景気の回復感に乏しかったが、企業収益は大幅に回復している。上半期は前年比27.5%、下半期は9.3%と増益がつづき、公共投資の伸長、堅調な消費動向に支えられて経済全体が着実な回復ぶりを示した。

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