戦時統制のなかで

第2次世界大戦と経済統制
 1939年(昭和14)9月1日、ドイツがポーランドに進撃開始して、第2次世界大戦が始まった。日本はそのころアジアにおいて孤立しつつあった。日中戦争が長期化するなかで上海を占領した日本は、1941年(昭和16)にインドシナ半島に侵攻、そのことがアメリカ、イギリス、オランダの反感を買うかたちになった。
 太平洋戦争は1941年(昭和16)12月8日に始まっている。日本がアメリカ、イギリス、オランダを相手にして開戦におよんだのだが、その遠因のひとつに「ABCD包囲陣」といわれるアメリカ・イギリスの経済封鎖があった。その年の7月、日本がサイゴン(現・ホーチミン市)に進駐したとき、アメリカはその報復措置として対日石油輸出を禁止、アメリカ国内にある日本の資産を凍結する命令を発した。
 イギリスとオランダはこれにならって、日本に対するゴム、くず鉄、燃料油の信用取引を停止するとともに輸入源を断った。3国はさらに中国の抗日戦線に物資を補給、日本を圧迫する作戦をとったのである。アメリカ、イギリス、中国、オランダの頭文字をつらねて、「ABCD包囲陣」と呼ばれた。4カ国共同戦線による経済封鎖で、日本は石油、鉱石、鉄、機械などの供給をストップされてしまったのである。
 太平洋戦争の始まりとともに戦時統制が強化され、すべての産業、労働力が国家の統制下におかれた。この時期に制定(改定)された法令をならべてみると、主なものだけでも次のようになる。「国家総動員法」「電力管理法」(1938年)、「国民徴用令」「米穀配給統制法」「賃金統制令」「地代家賃統制令」(1939年)、「生活必需物資統制令」「農業生産統制令」(1941年)、「食糧管理法」「日本銀行法」(1942年)。
 統制を合理化するために、軍需省が設置され、民需産業の整理統合が進められた。さらに軍需会社法によって、民営企業の統制が強化され、国家優先の時代がやってくるのである。
 太平洋戦争への突入は平時産業にも壊滅的な打撃を与えた。日本クロスの関連業界である繊維産業や出版産業も、きびしい統制のもとにおかれた。
 出版業界は資材不足で崩壊の危機に追いこまれる。パルプの輸入がストップしただけでなく、国内のパルプは弾丸をはじめとする軍需用にまわされ、書籍用には供給されなくなった。紙価は高騰、印刷インキも製本材料も不足して、印刷価格の高騰をもたらしてゆく。資材の合理的な割り当てのために企業整備が進められ、1941年(昭和16)には1,957社あった出版社が、1945年(昭和20)には566社にまで減少した。
 繊維産業はもっと深刻だった。たとえば綿糸は金属やゴムとともに重要物資に指定されたため民需にはまわってこなくなる。原材料が調達できずに生産は低下の一途をたどった。1944年(昭和19)になると国内衣料供給量は1937年(昭和12)の7.4%にまで落ちこんでしまう。このような背景から、一定の規模に達しない業者は、1940年(昭和15)から企業整備の名のもとに強制的に整理・統合を強いられた。


坂部三次、社長に就任

 日本クロスでは創立時から社長職がおかれていなかった。それは常勤の実務代表者を専務、常務とし、会長、社長をおかないという当時の社会的風潮からだった。ところが1939年(昭和14)になると、諸企業のトップはこぞって社長を名のり始めた。そこで日本クロスでも、1925年(大正14)から専務をつとめ、実質的には社長であった坂部三次が名実ともに経営陣のトップとして社長職につくことになっ
た。
 坂部三次が代表取締役社長についたのは1940年(昭和15)6月24日である。取締役常務には、生え抜きの石丸憲次郎と渡部一郎が就任したが、社内で育った人間が常務以上についたのは、このときが初めてであった。

取締役社長   坂部 三次
取締役常務 石丸憲次郎
渡部 一郎
取 締 役 井村健次郎
山田留治郎
須佐  敢
大島 久吉
監 査 役 山本 留次
亀井亮治郎
磯村 増雄

 当時の日本クロスには組織表などというものものはなかった。工場と事務所に区分されているだけで、業務執行体制はきわめて単純であった。工場はクロス部、加工部、油布部の3部制、事務所は本社と東京出張所で構成されていた。1940年(昭和15)当時のクロス部長は篠原真喜男、油布部長は村中晃、染・再整部長は渡部一郎、支配人は石丸憲次郎であった。
 〈課〉という組織単位もなく、課長や係長という職制すらなかった。工場のラインは部長―職長―職工、事務所は支配人のもとに庶務、経理、営業などの各担当者がいるという体制であった。
 人事制度は社員コースと職工コースに分かれていた。旧制中学卒以上は社員コースを進み、小見習、見習、準社員を経ておよそ5年で社員になる。小学校卒は職工コースを歩んだ。準社員以上は月給制、職工は日給制であった。両者はタイムカードでも区分され、社員コースは赤、職工コースは黒であった。
 勤務時間は実質9時間あまりであった。工場は午前7時から午後5時、事務所は午前八時から午後5時まで、昼休みは45分間だった。時間にきびしいというのが当時の社風で、始業合図のサイレンを朝6時30分、7時10分前、8時10分前と、3回ならした。


埼玉、九州に工場進出

 戦時統制がますますきびしくなる1941年(昭和16)から翌年にかけて、日本クロスは埼玉と福岡に進出を果たしている。別会社の生産部門として九州クロス工業株式会社と大和クロス工業株式会社を設立したのである。
 九州クロス工業株式会社は、1941年(昭和16)12月、福岡市比恵本町83番地に設立された。資本金は19万5,000円であった。同社の前身である株式会社八州製作所は、もともとオイルクロスを生産していたが、統制のため経営に行き詰まり、日本クロスに技術面を含めて支援を求めてきた。
 当時はすでに石炭の入手がむずかしくなりつつあった。炭鉱を背後にひかえている福岡なら燃料供給が期待できそうである。さらにオイルクロスを生産していた京都工場油布部は生産能力の限界に達していた。そこで燃料の入手が期待できる福岡にオイルクロス工場の増設を決定、八州製作所を買収して九州クロス工業株式会社を設立したのである。社長は坂部三次、専務は村中晃、従業員は26人であった。設立当初はオイルクロスの好調がつづいたが、やがて太平洋戦争の進展とともに防空用暗幕の生産に転換していった。
 大和クロス工業株式会社は1942年(昭和17)2月、埼玉県入間郡入間川町に設立されている。同社の前身は1939年(昭和14)に資本金10万円で設立された大和クロース工業株式会社である。
 大和クロスは発足当初、日本クロスと提携しながらブラインドクロスを生産していたが、やはり八州製作所と同じように戦時統制が厳しくなるとともに事業継続がむずかしくなった。1941年(昭和16)5月ごろからは、ほとんど事業休止の状態というありさまであった。合併問題も検討されたが、経済環境が正常になるまで待ち、あくまで業務提携を強化する道が採択された。日本クロスが出資、役員派遣、技術者派遣、機械設備の譲渡・貸与、特許権の無償提供を行うことで合意、資本金17万5,000円の新会社として発足することになったのである。常務取締役には大和クロスの伊藤東一郎が就任、日本クロスからクロス部次長の尾崎勇、博進社から植村正彦が派遣され、それぞれ取締役に就任した。
 同社はもともとブラインドクロスの製造で出発したが、戦時中は防空用暗幕、風船爆弾用ベース製造に転換せざるをえなかった。


染色加工部門を分離

 戦時統制は全業種にわたって企業整備を促した。京都の中心産業である繊維工業が受けた影響は深刻であった。企業整備は1940年(昭和15)から始まっている。10月の「織物業者の合同に関する要綱」によって、手織機100台以下の業者は強制的に統合させられた。1941年(昭和16)6月、11団体あった繊維工業組合は、丹後縮緬、西陣着尺、西陣織物の3組合に統合された。染色加工業も19組合から4組合に整理・統合された。11月には企業整備令にもとづいて、第1次企業整備が進められ、織物卸商同業組合員は10分の1にまで減少した。さらに1942年(昭和17)5月の企業整備令(第2次)の公布によって、再編は強化されてゆく。室町問屋は275店から21店になり、西陣機業も織機200台以下の業者が統合対象になった。
 日本クロスもこの一連の企業整備の嵐に巻きこまれていった。染色加工部門が「織物加工業者の整理統合令」の対象になった。加工部は1社では存立できなくなって、日本クロスから分離、山西染工(綿染色)、近吉精練(絹の精練)、晒八(晒工場)の事業を統合して新会社設立に向かうのである。
 新会社は開南染工化学株式会社と命名され、1942年(昭和17)8月に設立された。それぞれ現有の工場と設備を現物出資、経営者は新会社の役員に就任した。出資比率の53%を占めた日本クロスの染色工場(東工場)が本社工場となり、統合された他社工場はそれぞれ分工場となった。創立当初の役員構成は、次のとおりである。
 社長 坂部三次 副社長 山西利吉(山西染工) 常務取締役 渡部一郎 取締役 山本菊一(晒八) 森田正三郎(近吉精練) 
 日本クロスが新会社設立を主導し、経営のイニシャティブをとることができたのは、染色加工部門が単独工場として一定水準以上の規模に達していたからである。
 開南染工が発足してまもなく太平洋戦争が勃発し、輸出はストップ、民需もなくなり、生産活動はおのずと軍需用途が中心になっていった。陸軍から受注した軍服用裏地、人絹暗幕の染色がほとんどであっ
たが、広幅織物の染色ができる工場が少なかったせいもあって、戦時中とはいえ操業度は高かった。


業界のリーダー

 戦時統制によって、1941年(昭和16)ごろから産業部門別に各種の統制団体が組織されていった。統制会、統制会社、統制組合、営団と形態こそさまざまっただが、いずれも生産の割り当て、資材の配分、価格の決定から労務や利潤配分まで決定する権限をもつ組織であった。
 日本クロス統制会社は1942年(昭和17)3月、京都に設立されている。日本クロス工業組合を母体にして、有本染工、東洋クロス、大平用紙店、共和レザー、関東レザー、日本加工紙、日本クロスの7社で構成されていた。社長には坂部三次、専務には石丸憲次郎が就任している。つまり日本クロスからは社長と常務が参画、その中心的役割を果たしたのである。
 同社は商工省の下部組織として運営され、原材料物資の配給、生産の割り当てのほかクロス公定価格の決定、商品検査を主な業務内容としていた。京都で発足した日本クロス統制会社は、1942年(昭和17)になると、東京日本橋小舟町1丁目の地に移されるのだが、はからずもそれが東京市場開拓のきっかけになってゆくのである。
 統制団体は各種の統制法令によって設立されたが、クロスやレザーなど塗装布の分野でも、さまざまな団体が誕生して全国に乱立していたため、商工省は整理・統合を目的に行政指導に乗りだした。各団体の横断的な組織として「クロス統制協議会」なるものが結成されているが、それは一元化に向かう布石であった。国策によって統制団体の統合は急速に進められ、1942年(昭和17)末には日本クロス統制会社と日本擬革統制会社の2社のみになった。クロス統制会社は日本クロスをはじめとするクロスメーカー、日本擬革統制会社は共和レザーを中心とするレザーメーカーで構成されていた。
 さらに1943年(昭和18)4月、商工省の行政指導を受けて両社は統合され、中央塗装布統制会社として新しく出発している。同社は全国54社の出資で誕生した塗装布の統制会社であった。事務所は東京大手町の日清紡ビルに設けられ、専務理事に石丸憲次郎が就任した。さらに日本クロスから7、8人の社員が派遣され、それぞれ主要なポストを占めていた。
 中央塗装布統制会社の業務内容は、物資・資材の配分と生産割り当てであった。具体的には資材配給について商工省と折衝したり、生産の割り当て、製品検査などであった。所属する各社からの総売上賦課金、資材配給手数料が同社の営業収入になっていた。同社は商工省化学局化学課が管轄する組織として出発したが、1944年(昭和19)からは軍需省の所轄になった。
 戦時統制はこのように製品の販売システムまでも大きく変えてしまった。統制品であるクロス製品はすべて配給である。製品の販売は、従来の販売ルートによらず、国策によって設立された販売会社を通じて行われた。クロス類は日本塗布製品株式会社、トレーシングクロスは日本透写布株式会社、暗幕類は日本遮光株式会社が、それぞれ販売窓口になった。

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