まるふの生産

「ふ号作戦」
 太平洋戦争の末期、日本陸軍によって試みられた極秘の「ふ号作戦」なるものがある。いわゆる風船爆弾によるアメリカ大陸への直接攻撃である。かんたんにいえば爆弾を気球にぶらさげ、偏西風にのせてアメリカ本土まで運び、落下させるというものであった。
 和紙でつくった大きな気球に水素ガスをつめて焼夷弾をぶらさげたもの……。それが風船爆弾の正体である。日本上空1万メートルには時速200〜300キロの偏西風が吹きぬけている。偏西風を動力として利用すれば、およそ50時間ぐらいでアメリカ大陸に達するのである。
 作戦に使われた気球状の風船は、直径10メートルぐらいであったが、そのベースには手漉きの薄い和紙をコンニャク糊で4〜5層に貼り合わせたものが使われた。風船のベースになる和紙の貼り合わせは全国の染織業者に委託され、日本クロスも加工を請け負ったが、塗料づくりを担当した坂部三次郎(元会長・社長)は次のように語っている。

 風船爆弾はもともと海軍のアイディアだったと聴いている。海軍はコンニャク糊ではなく、羽二重にゴムを塗ったものを考えていた。羽二重にゴムでは、重くなるので、直径がだいたい7〜8メートルぐらいなもの。だから本土から飛ばすというのではなくて、潜水艦でアメリカの近く、100キロくらいのところまで持ってゆく。そこから夜のうちに陸地に向かって飛ばそうというのが海軍の作戦だったようである。ところが昭和17年にガタルカナル海戦などで海軍が大きな痛手をうけてしまった。それまでの研究資料は陸軍に引き継がれ、あの風船爆弾による作戦が具体化されたようである。

 風船は勤労動員された女子挺身隊の手によってつくり上げられた。直径10メートルもある巨大な風船は、コンプレッサーで空気を入れ、漏洩テストをする必要があったため、広くて高い天井のあるホールが必要だった。そこで閉鎖されていた東京の日本劇場、宝塚劇場、国際劇場、国技館などのドーム型の建物が選ばれた。動員された女学生や女店員はハチマキ姿で作業にあたり、その作業内容については秘密保持を厳命され、たとえ家族であってももらしてはならなかった。
 風船の下部、約16メートルに緩衝撃コードで高度保持装置をぶらさげ、15キログラム爆弾1個と5キログラム焼夷弾4個、あるいは12キログラム焼夷弾2個がセットされた。
 1万メートルの上空は夜になると気温が零下50〜60度、昼間は30度ぐらいになる。気温の変化によって高度が上がりすぎると、気球部の水素ガスを少しずつ外に排出する。夜に気圧が下がって重くなれば、重さを調節するために装填された砂袋が落ちて浮力をつける。2日間でアメリカ上空に到達することを想定した制御装置によって、高度を上げたり下げたりしながら、風船は約1万キロのかなたへ飛んでいったのである。爆弾、焼夷弾は砂袋の落ちる距離で自動的に投下され、その残骸や痕跡をのこさないように風船は導火線で着火し、完全に燃やしてしまう仕組みになっていた。
 ふ号作戦なるものが具体的に展開されたのは、1944年(昭和19)秋から翌1950年(昭和20)春までである。福島県の勿来、茨城県大津、千葉県一宮の3地点の海岸基地から約9,000個が順次に放たれている。最初に放球されたのは1944年の11月3日であった。「晴れる」確率が高いという統計的な根拠からこの日が選ばれたようだが、勿来まで出向いた坂部三次郎によると、あいにくその日は土砂降りだったという。
 陸軍が〈まるふ〉と符号で呼んでいた風船爆弾の大部分は、太平洋を越えることができなかったようである。スミソニアン博物館の調査記録によるとアメリカ本土に到達したことが確認されたのは280個あまりで、空中で爆発したものが約100個あったという。到達地域は西海岸を中心に北はアラスカ、カナダ、南はカリフォルニア半島、メキシコ、東は5大湖周辺とひろい範囲におよんでいる。
 搭載されていたのは焼夷弾だったので物的被害はほとんどなかったが、オレゴン州では不発弾の爆発により6人の犠牲者が出た。同地には「アメリカ大陸で死者を出した唯一の場所」と記した記念碑が残されている。
 風船爆弾によって山火事が発生したり、あるいは上空で正体不明の閃光が発生した。それが風船爆弾によるものであると判明すると、アメリカ政府は箝口令を発するとともに、細菌爆弾ではないかと懸念して、約4,000人の科学者を動員して防疫態勢を整え、風船爆弾を迎撃する航空隊も配備するほどだった。
 ふ号作戦は確かにユニークな作戦ではあった。後にアメリカの調査団は「神秘的である」と賞賛したというが、しょせんはモノ不足の日本を象徴するむなしい徒花であった。


まるふの模範工場

 風船爆弾は終戦間近の窮余の一策ではなくて、1942年(昭和17)ごろからすでに研究が始まっていた。翌1943年(昭和18)ごろには京都の友禅染の工場でコンニャク糊による和紙の貼り合わせのテストが行われていた。
 日本クロスが〈まるふ〉の紙ベースの生産に取り組んだのは、1944年(昭和19)の8月からだった。そのころ神奈川県の登戸にあった陸軍科学研究所に特殊クロスを納入していた縁で、風船爆弾の生地となる和紙の貼り合わせ加工を依頼されることになったのである。
 日本クロスに依頼するまえに、陸軍兵器行政本部は福井、和歌山、名古屋の産地で試作させていた。機械貼りを試みさせたがすべて失敗した。やむなく全国の手捺染業者に手貼りで製作させたが、乾燥に時間がかかり量産できなかった。紆余曲折の末、日本クロスにやってきたのである。風船爆弾のベースの生産研究は、クロス製造部長の尾崎勇が中心となって進めた。コンニャクの塗料研究を担当した坂部三次郎は次のように書いている。

 研究室に配属されて10日後だった。当時の製造部長から呼ばれて、「お国のための重要な仕事だが、若手の技術者は残ってない。そこで、あなたに研究してもらいたいのだが……」と告げられた。秘密をまもれるか……と、クギを刺したうえで明らかにされたのは、風船爆弾の基布づくりであった。(東京理科大学刊行「SUT」)

 薄い和紙をコンニャク糊で貼り合わせるには高度の技術を必要とした。コンニャクの被膜は水は通すけれども空気は通さない。そういう特質をうまく利用したのが風船爆弾だったのである。和紙の強度と気密性をあげるために3、4層貼り合わせなければならなかったが、コンニャクの化学的な特性については海外の文献にも記載はなく、ほとんど手探り状態での出発だった。

 コンニャクを固めるのに一般的には炭酸カルシウムを使っていた。カルシウムは水に溶けないから、ぼこぼこと穴があいてしまう。他の業者が失敗したのもカルシウムを使っていたからである。私はいろいろと実験を繰り返したが、そのうちに重炭酸ソーダーを使えばうまくゆくことが分かった。(坂部三次郎談)

 貼り合わせ加工テストは8月から開始されたが、製造工程はおよそ3つに分かれていた。第1工程は幅90センチの機械抄き和紙3枚を多量のコンニャク糊で貼り合わせ、層間にコンニャクフィルムをつくって乾燥させる。第2工程は貼り合わせ紙のコンニャクをアルカリで処理して不溶性にする。第3工程で、多量のグリセリンとボイル油を含んだコンニャク糊を表に、裏側にコンニャク糊を塗って仕上げる、という手順だった。
 第1工程の貼り合わせはクロス部(旧京都西工場製造1課)の1号テンター(塗布・乾燥・幅出しの3連結)で行われた。第2工程のアルカリ処理は開南染工(旧京都東工場染工部)の精練機で行われた。第3工程はクロス部の2号連結テンターを使用した。
 日本クロスの量産化システムは、一連の貼合機で手貼りにして1万人分に相当する生産性をあげた。そこで陸軍省は日本クロスのシステムをモデルにして、全国54の機械染色工場に〈まるふ〉の生産を命じた。
 9月から貼合機にするためクロス部の3号連結テンターの改造に着手し、10月には2連目の貼合機を完成させた。当時は鉄材不足のうえに、鉄工所は人材も不足していた。たとえば1号連結テンターの改造は設計から部品の調達・組み立てまで、すべて社内の従業員の指揮によらねばならなかった。
 戦時下の技術者不足のなかで、機械設備の改良を重ね、苦心のすえ連結機による量産システムを完成させることができた。軍需目的ゆえに機械部品も優先的に供給された。本来なら機械・設備もろともに解体させられるところ、改造や更新がゆるされ、その生産設備と技術力をそっくり戦後まで温存することができたのである。


終戦まで生産を継続

 風船爆弾の基布づくりは1944年(昭和19)10月から本格生産を開始、10月下旬からは昼夜2交替制のフル生産に突入している。月間の生産数量は約10万メートル、京都の東・西工場とも貼り合わせた和紙であふれかえった。中学生を勤労動員して労働力を確保、翌年の3月末まで生産を継続した。

 昭和20年の3月末だったと思うが、とつぜん牛込区若松の陸軍兵器行政本部から呼び出しがあった。あわてて駆けつけると、「風船爆弾の仕事はもうお終いだ」とおっしゃる。よく聞いてみると、風船に入れる水素を生産する昭和電工の川崎工場がアメリカの空襲でダメになった……という。もっとも後で考えてみると、それだけの理由でもなかった。3月末になると風船爆弾の動力であった偏西風が弱まってしまうのである。けれども私たちにしてみれば、当時の会社は風船爆弾の基布づくりがすべてだったから、突然の打ち切りは重大事だった。「それは困ります。原料もまだたくさんありますから……」と頭をかかえていると、「海軍にいってみないか」と言われた。海軍で別用途に使う計画があるらしい……と聞いて、私はただちに平塚の海軍工廠に走った。(坂部三次郎談)

 海軍の用途は防毒衣の素材であった。アメリカ軍の本土上陸に際して水際殲滅作戦のために使用する防毒衣に和紙の貼り合わせ製品を使用するというのであった。製品の仕様は風船爆弾のベースとまったく変わるところがなく、カーキー色の着色が加わるだけであった。京都工場だけでは受注量が消化できず、このときは大和クロス工業の設備も動員した。6月から再び24時間のフル生産が始まり、8月15日の玉音放送で終戦が告げられるまでつづいた。
 風船爆弾は軍部の極秘事項であったため、1945年(昭和20)3月に生産が打ち切られると、陸軍関係の書類はすべて翌4月に焼却してしまったため、当時の資料はまったく残っていないが、整理に関与した関係者によると、加工費として染織業者に支払われた費用総額は約360万円だった。そのうち約155万円が日本クロスに配分されたというから、総加工費の約43%を占めていた。

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