苦心のモノづくり

配給資材とクロス
 終戦直後から1950年(昭和25)前後までは、いぜんとして物資統制の時代がつづいていた。出版業界もまだその機能を停止したままであった。そのためクロスの生産も限定されていた。ブッククロスのほとんどが教科書用、駐留軍用、官需用で占められ、輸出用のみ国有綿を使用して製造することができた。品種でいえば、ツバメクロス、ダイヤモンドクロス、SP、特上クロスぐらいなものであった。トレーシングクロス、ブラインドクロスも駐留軍用と輸出用がほとんどであった。
 戦後の京都工場は教科書用クロス、輸出用のブッククロスとブラインドクロス中心の製造で幕をあけた。終戦直後の教科書用背貼りクロスは人絹ベースだったが、その後は商工省の配給切符を入手して綿布を使用している。薄織五号と呼ばれる品種がそれである。
 輸出用の資材については、GHQの指示によって特別に綿布が割り当てられた。輸出用の中心品種になったのは、国有綿金巾2004番をベースに水性塗料をコーティング、エンボス加工したダイヤモンドクロスと特上クロスであった。これらの仕向地と用途は、タイの国民手帳、パキスタンのコーラン、キリスト教のバイブル、インドの経典などであった。
 香港やアメリカに輸出されていた布帛造花の素材となるクロスも、1949年(昭和24)ごろから優先的に資材配給を受けて生産している。
 造花用クロスには花弁に使用する白クロスと枝・葉・茎に使用するグリーンのクロスとがあった。葉に用いるクロスは目のあらい生地に両面コーティングし、表と裏の色を変えて葉のイメージを出すようにした。硬い風合いのものは綿をベースに使用、ソフトな風合いを出すためには人絹を使用した。さらに艶のあるもの、艶消しのものなど、花の種類によって素材と加工を組み合わせて、さまざまな工夫を加えた。
 輸出向けクロスの生産は、いずれも連結塗装機による24時間フル操業であった。石炭がなく亜炭を使用したため蒸気温度が不安定で気圧が上がらず、キュアーに十分な圧力を与えるには夜間操業しか方法がなかったのである。


代用新製品・楽器用皮

 戦後の物資欠乏時代はブッククロスでさえ、国内需要品は人絹ベースであった。このように代用品資材による生産技術によって、いくつかの代用新製品が誕生している。そのひとつに楽器用シルクスキン(絹皮)がある。
 1947年(昭和22)、全国の小学校の音楽教科にリズム教育が導入され、リズム楽器として大量のタンバリン、ドラムなどの打楽器が必要になったが、資材の皮革があるわけもなかった。代用品とし注目されたのが、日本クロスのシルクスキン(絹皮)だった。
 絹地に繊維素塗料をコーティングした絹皮は、もともと三味線の胴皮の代用品として、1940年(昭和15)ごろに開発されていた。当時は長唄や浄瑠璃用の三味線に使用されたが、音質に問題があって、あくまで代用品でしかなかった。それでも戦時中は陸海軍の軍楽隊や学校・工場の音楽隊、鼓笛隊のドラムに使用されていた。このシルクスキン(絹皮)が学校教育用のタンバリンやドラムに使用されることになったのである。
 シルクスキン(絹皮)による楽器は文部省の検定にも合格、原料生糸の特別放出を受けて、1947年(昭和22)12月から生産を開始し、1950年(昭和25)ごろまでつづいた。
 1948年(昭和23)5月に設立したサカブライト楽器株式会社(資本金100万円)は、シルクスキン使用のタンバリンやドラムの生産・販売会社であった。京都市右京区西ノ京の坂部三次宅の研究室で発足、7月には京都市市京区松原通り烏丸東入ルの地に移転して、本格的な業務を開始している。
 そのほか和紙に油性塗料をコーティングした油紙は、ゴム引き布の代用品として注目された。学童用雨合羽やレインコートに使用されて、一時代を画す流行商品になった。技術的には風船爆弾のベースづくりの応用である。和紙をグリセリンでやわらかくして、油性塗料を塗った製品であった。
 代用品時代の製品として、エンパイアチューブなるものもあった。パラシュートのヒモの溶剤を含浸させたもので、用途はラジオの絶縁用クロスだった。このような単純な製品でも1947・48年(昭和22・23)ごろは、かなりの受注があった。


ノート用背貼りクロス

 戦後まもなくの大和クロス(東京工場の前身)は、仙花紙、桑の皮を抄いた紙などの貼り合わせ加工を始め、セメントや澱粉などの袋用原紙を生産していた。同時に、 これらをベースにして、クロスの代用品を生産していた。ノートの背貼りや学習帳、伝票類の耳とじ部分に使用されたが、物資不足のおりから好評であった。
 正式に用紙の配給を受けて、ノート用背貼りクロスの生産を始めたのは、1949年(昭和24)ごろからだった。ノートの背貼りには、もともと布クロスを使用していたが、綿布不足で紙ベースによるクロスの開発が急がれたのである。
 大昭和製紙の製袋用クラフト紙にコーティング、3A雲型を使った紙クロスを開発し、文部省を通じて通産省から正式に紙の割り当てを受けて、本格生産を開始した。紙クロスに関しては日本クロスは後発だったが、やがて業界で確固たる地位を占めるようになる。
 基布となる紙、顔料についての研究をこの時期に集中的に行い、独自の品質設計を完成させている。
ベースになる紙についていえば、同業他社は丸網のものを使用していたが、大和クロスでは強度にすぐれる長網のものを採用した。顔料は日光堅牢度に問題がある染付顔料ではなく、無機、有機の不溶性アドカラーを導入した。このようにして完成したノート背貼り用クロスは、品質的にも高く評価され、もはや代用品の域を超えていた。

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