『激変』のはじまり

東西冷戦構造の終結
 「平成」の時代が始まる1989年は、世界も日本も「激変」の始まりを告げる1年であった。
 1月7日に昭和天皇が崩御、元号が昭和から平成に変わった。2月15日、アフガンからソ連軍の撤退が完了。4月1日、消費税を柱とする税制が施行された。4月25日、リクルート事件にはじまる政治不信の責任をとって竹下登首相が退陣を表明。6月2日、宇野宗佑が首相に就任した。
 6月4日、中国・北京の天安門広場に人民解放軍の戦車や装甲車が突入、広場を占拠していた市民や学生に発砲した。いわゆる天安門事件では319人が死亡、中国政府はさらに「反革命分子」狩りを強行して国際的な非難をあびた。中国が開放政策を推し進め、自由化のうねりが最高潮に達したところに起った、揺りもどしともいうべき事件であった。
 7月23日の参議院選挙で自民党は歴史的な大敗北、宇野首相は女性スキャンダルも露呈して辞任、海部俊樹が新首相に就任した。
 秋からは東欧が激変の舞台となる。ポーランドでは自主労組「連帯」主導の内閣が発足、チェコスロバキアでは、「プラハの春」の立役者ドプチェクが復権するなど、東欧の民主化は急ピッチで進展した。10月1日には東ドイツの市民6,000人が西ドイツへ合法的に入国。10月18日には東ドイツのホーネッカ国家評議会議長が辞任。そして11月9日から10日にかけて、東西緊張のシンボルともいうべきベルリンの壁が崩壊した。さらに12月になって、ルーマニアで、チャウシェスク政権が市民と軍によって倒され、その3日後にチャウシェスク夫妻は銃殺刑に処せられた。
 ソ連も分解現象が進んでいた。1990年3月にバルト3国のうちリトアニア、エストニアがソ連からの独立を宣言。ゴルバチョフのペレストロイカは、文字通りの「立て直し」策だったが、解体にいたる流れを押しとどめることはできなかった。1991年8月、保守派のクーデターをきっかけにソ連邦はついに消滅、12月26日、11の独立共和国からなる独立国家共同体(CIS)が誕生した。1990年10月3日には、東西ドイツの統一が実現した。第2次世界大戦後、半世紀近くもつづいた東西冷戦がついに終結、世界は政治的にも経済的にも新しい秩序をもとめて動き出してゆく。
 ポスト冷戦期の間隙をつくようにして勃発したのが湾岸戦争である。1990年8月2日、イラク軍はクエートを武力制圧して湾岸危機が高まった。アメリカを中心とする多国籍軍がペルシャ湾岸に軍事介入、翌91年1月17日から空爆を開始した。戦争は2月24日の地上戦を経て2月27日に停戦となる。湾岸危機への貢献をもとめられたわが国では、自衛隊の海外派遣をめぐって激しい論議がもちあがった。


バブルの崩壊

 1991年(平成3)度の『経済白書』は、当時の景気状況について、「目下の好況が、その持続期間において、〈いざなぎ景気〉を抜くか否か」と熱っぽく論じている。日本経済は好景気に浮かれていたが、政府の見解とは裏腹に、現実には1991年(平成3)ごろから地殻変動がはじまっていた。1990年にはいると、異常な高値を示していた株価と地価がにわかに下落し始めたのである。いわゆるバブルの崩壊である。バブルとは何か。本来の市場価格以上に、資産価格が上昇したとき、「バブルが発生した」というのである。
 1986年(昭和61)から1990年(平成2)にかけての5年間、土地、株式、ゴルフの会員権、絵画などの「資産」価格が異常なまでに急騰している。東証1部の平均株価(月平均)で見ると、1986年(昭和61)1月は1万2,983円21銭だったが、右肩上がりに急騰して、1989年(平成元)1月には3万1,170円76銭、12月には3万8,130円と、4年間に3倍になっている。
 株価は1990年(平成2)にはいって下落の局面を迎えるが、土地をはじめとする資産価格は1990年(平成2)になっても堅調をきわめた。たとえば6大都市圏の地価は1986年(昭和61)からピーク時の1991年(平成3)までの5年間で約2.7倍にまでハネあがっている。
 株価は1990年(平成2)にはいると急速に低落した。10月1日には瞬間的に2万円台を割り込み、12月には2万3,740円50銭となり、下げ率、下落速度とも1965年(昭和40)の証券不況を上回った。夏ごろからは都心部の地価も下落傾向をたどり始めた。かくして土地と株価の高値に支えられていた日本経済のバブル現象は急速に終息に向かうのである。株価はその後も下げ止まらず、1991年(平成3)12月には、2万2,304円11銭、1992年(平成4)12月には1万7,390円44銭と下落の一途をたどっていった。
 バブルが弾けると、金融・証券業界の不祥事が露呈してきた。証券各社は大手企業が株価下落によって受けた損失を補していたが、その事実が次つぎに明らかになった。1991年(平成3)6月には160億円の野村を筆頭に、大和、日興、山一の損失補填事件が発覚、社会的非難が集中した。7月には富士銀行をはじめ、東海銀行、協和埼玉銀行でも不正融資事件が明らかになった。企業も個人もなりふりかまわずにマネーゲームに狂奔していた実態が、だんだんと明らかになってきた。


平成不況

 大型景気は〈いざなぎ景気〉を抜くか抜かないか……の論議がもちあがるなかで、1990年(平成2)10月1日、株価が2万円の大台を割りこみバブルは弾けた。政府も国民もまだ実感はなかったが、翌1991年(平成3)2月ごろから、日本経済は長期におよぶ深刻な不況に突入してゆく。政府も経済界も不況に対する認識が甘く、楽観的な見通しを立てていたから、ますます深刻になっていった。1992年(平成4)になると、大手家電メーカーでは、ボーナスの一部を現物支給するケースもあって、12月には4年5カ月ぶりに求職が求人を上回るという事態となった。
 バブル不況あるいは平成不況と呼ばれた出口のない長期不況は、日本経済がかつて経験したことのない「複合不況」といわれた。当時、流行語にもなった「複合不況」は、宮崎義一のベストセラー『複合不況』(1992年6月刊 中公新書)によるものである。著者は同書のなかで、平成不況は、実体経済と金融経済とが複雑にからみあった新型の不況であると指摘したが、なぜか政府もエコノミストも事実として認めようとはしなかった。不況はますます深刻化して、1993年(平成5)になっても回復の兆しも見せていない。消費は落ち込み、ゼネコン(総合建設会社)汚職、円高、冷夏が追い打ちかけた。ゼネコン汚職の捜査では、建設業界の談合体質が初めて追及され、自治体の首長や大手ゼネコンの幹部が逮捕されている。
 1993年(平成5)は世界的な規模で異常気象がつづいた。日本では梅雨期に集中豪雨があり、さらに冷夏、台風の相次ぐ上陸とつづいて、農産物に深刻な被害をもたらした。とくにコメは戦後最悪の凶作となり、政府は9年ぶりにコメの緊急輸入に踏みきった。
 不況がますます長期化するなかで、経営者は自信を喪失、政府の景気回復策も後手にまわった。各地で行われていた開発事業も棚上げ状態となり、地価の低迷と相まって、金融機関の経営基盤すらも揺るがし始めた。株価はいぜん低迷、倒産も増加、完全失業率は2.8%となり、終身雇用制も自然に崩れていった。ともかく1991年(平成5)2月に始まる平成不況によつて、日本経済は「第3の転換点」を迎えるのである。


政治の混迷深まる

 1993年(平成5)は、政治の世界も大きな転換点を迎えた年である。38年つづいた自民党の一党支配がくずれ、8月に非自民8党派による連立政権が発足している。いわゆる55年体制に終止符が打たれた。政治の混迷は翌1994年(平成6)になってもつづいた。細川護煕首相の佐川急便グループからの借入金をめぐり、衆院予算委員会は1カ月も空転、4月8日になって細川首相はとつぜん辞意を表明した。後継をめぐって政局が混乱するなかで、4月28日に羽田孜(新生党党首)内閣が発足するが、6月25日に総辞職してしまう。
 連立与党と社会党との政策協議が決裂すると、待っていたかのように自民党は社会党に手をさしのべる。そして自民、社会、さきがけの3党で村山富市(社会党党首)を担いで、連立政権を発足させた。かくして長年にわたって仇敵同士だった自民党と社会党が手を組むという無節操政治が始まるのである。
 景気の停滞、政治の混乱が深まるなかで、社会的にも暗い事件が頻発した。いじめによる自殺、凶悪事件が続発している。愛犬家連続殺人事件、東京・九州・大阪の死体バラバラ事件、松本サリン事件、医師の殺人事件、品川の医師射殺事件……。とくに銃による殺人、死体バラバラ事件が国民を震撼させ、そういう意味では殺伐とした1年でもあった。

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