輸出に活路

創業以来の好業績
 1941年(昭和16)といえば、民需産業の多くは崩壊の危機に瀕していたが、日本クロスは創業以来最高の生産・販売高を記録している。クロス部門、油布部門、加工部門ともに工場はフル操業であった。戦時統制のさなかにもかかわらず、業績を伸ばすことができたのは、輸出の増大によるものであった。教科書用クロス、トレーシングクロスなどに代表される軍・官需製品の安定した需要、新事業として展開した油布製品の貢献も大きかったが、とくに輸出の拡大が躍進の原動力になった。
 だが、太平洋戦争に突入すると同時に情勢は一変した。貿易禁止令により輸出は減退、オイルシルク、オイルクロスなどの油布製品も贅沢品と見なされ生産中止になった。油布工場は操業をつづけるために、防空用暗幕の製造に転換しなければならなかった。
 企業整備の影響も大きかった。1942(昭和17)、油布部で生産していた硝化綿レーザーは、一定の規模に達していなかったため製造中止を強いられた。加工部門も企業整備令により、開南染工化学株式会社として分離独立した。
 クロス部門と油布部門だけになった日本クロスは、官需のクロス製品や代用品の生産、軍需の風船爆弾のベースの生産などで戦時下を生きのびなければならなかった。メーカーとして生きのこるために、ひたすら操業度の保持につとめたのが1942年(昭和17)から終戦までの実態である。戦局が不利になってゆく1944年(昭和19)初めに第2次企業整備が進められたが、日本クロスは操業工場として生きのこった。ひたすら操業度の維持に全力をあげた結果であろう。
 生産・販売高から見れば、1941年(昭和16)をピークにして少しずつ下降線をたどっている。同年を100とすれば、1945年(昭和20)は70である。だが、それは加工部門をのぞいた実績であることを考えれば、実質的にはそれほど大きな落ちこみはなかった。この期間を通じて、1割2分の株式配当を継続しており、利益面はきわめて安定していた。物資不足の統制時代にあって高い業績を維持できたのは、代用資材の研究とそれを製品化する高度の生産技術によるものだが、販売競争とは無縁の官需・軍需中心に推移していたという背景もある。


大戦勃発で輸出が伸びる

 1939年(昭和14)から1941年(昭和16)の前半まで、クロス部門、染色加工部門とも輸出中心に生産活動を展開していた。売上高・利益高とも輸出によって大幅に伸びた。
 当時、輸出振興は重要な国策のひとつだったが、第2次世界大戦勃発による世界貿易の構造変化によって、ある種の恩恵を受けたという側面もあった。
 ヨーロッパで大戦が勃発すると同時にドイツ製品の輸出がストップ、イギリス製品の輸出量も激減した。両国が世界の貿易市場から一時的に撤退した間隙をぬって、日本クロスの輸出が活発になった。裏を返せば、クロス製品に関していえば、当時すでにイギリスとドイツの製品に匹敵する品質的な裏付けがあったということになる。
 ブッククロス、トレーシングクロス、ブラインドクロスなどのクロス製品は、スエズ以東に販売網をもっていた総代理店博進社を通じて、大量に輸出された。アジア地区だけでなくヨーロッパ、中南米、中近東、アフリカ、オセアニアも新市場になりつつあった。
 思わぬ国から大量の受注がとびこんでくるケースもまれではなかった。たとえば1940年(昭和15)初め、エジプトからクロスの大量の引き合いがあった。エジプトがイギリス側について第2次世界大戦に参戦したため、軍人用手帳に使うクロスが必要となって、日本クロスに発注してきたのである。当時、日本郵船はヨーロッパ方面への積み出しを停止していたため輸送手段がなかった。受注を受けたものの、〈輸送する船がないのだから……〉と半信半疑だったが、横浜正金銀行(現・東京三菱銀行)に現金が送金されてきた。
 同色同型のクロス(ダイヤモンドW17……グリーン)を3万ロール(54万ヤード)生産しなければならなくなったが、顔料をはじめとする資材が不足していた。さらに同型の製品は同一機械で生産しなければならない。戦時ゆえの制約にしばられながらも、連日夜の12時ごろまで機械を稼動させ、ようやく納期に間に合わせた。エジプト側はみずから2隻の輸送船を派遣してきて製品を持ち帰ったという。
 同時期にノールウェーからブラインドクロスを大量受注している。これをきっかけに北欧へのブラインドクロスの輸出が活発化したが、それもイギリスとドイツの製品が輸入できなくなったためだった。
 当時は戦時統制の時代で綿布や顔料などの資材、さらには燃料不足も深刻だったが、輸出奨励の国策にもとづき、輸出用にかぎって特別に割り当てを受けることができたのである。
 ブッククロスは綿製品禁止令以降、国内需要向けはスフベースになっていた。同じ輸出向けでも製品は2つに区分されていた。満州、中国、朝鮮などの円ブロック圏への輸出は、国内製品と同品質の製品があてられ、そのほかの国への輸出にかぎり綿布の使用が許可されたため、輸出用クロスとして特別生産がゆるされた。
 染色加工部門も、1940年(昭和15)ごろまでは輸出を中心に業績を伸ばした。ケープタウン、ダーバン向けのものが多く、ピーク時は月間30万ヤード(広幅54インチ)に達した。
 戦時体制になって輸出染色業界は総じて不況に陥ったが、日本クロスは特殊加工に活路を求めていたせいで、市場環境に左右されることはなく、太平洋戦争が勃発するまで好況がつづいた。とくに広幅織物に関しては120〜130万ヤード/月という加工能力をもっていた。広幅織物の染色でこれほどの能力をもつ加工工場は少なかったのである。


代用資材で生産を継続

 太平洋戦争が始まるとともに生活物資はきびしい統制下におかれ、国民生活はいちじるしく圧迫された。とくに衣料品不足は深刻だった。1938年(昭和13)6月に始まる綿製品製造禁止以降、国内はスフ代用時代に突入してゆく。
 繊維産業にはさまざまな規制が加えられた。生産規模の縮小を強いられたうえ製品自体も軍需や輸出が優先されたため、民需にはほとんど供給されなくなった。
 太平洋戦争が始まって3カ月後の1942年(昭和17)2月には衣料点数切符制が実施され、翌年1月には衣料切符点数引き上げが実施されている。
 クロス製品のなかでは、ブラインドクロスが衣料切符配給制度の対象になった。他のクロス類については、繊維製品なのか雑貨なのかをめぐって論議が繰り返された。日本クロスはメーカー側の利益代表として、当然のことながら雑貨説を主張した。ブッククロスの主な用途は教科書であり、教科書用の雑貨であるという主張を終始貫いたのである。結論は長引いたが、最終的に商工省は日本クロスの主張を全面的に受け入れ、クロス類は雑貨扱い、ベース生地についても自由購入が認められた。
 だが現実に綿布はほとんど入手できなかった。当時すでにブッククロスやブラインドクロスの一部にスフを使用していたが、やがてスフさえも入手困難となり、製造会社としては大きなピンチに直面した。資材不足は生産活動の全面停止を意味していた。
 綿布の代用資材について検討した結果、最終的に人絹を使用することに決まった。人絹は染色加工部門で扱いなれた資材である。衣料切符配給制度の対象にならないということも大きな決め手になった。
 クロス用の人絹織物は福井県大野市の機屋39軒に製織を依頼した。人絹寒冷紗第1号、第2号である。契約数量は月間1万5000〜2万疋(1疋=60ヤード)であった。
 人絹を代用資材にしたクロスの生産は終戦までつづいたが、品質的にはとても満足できるものではなかった。当時、製本会社はすでに膠を使用し始めていた。機械化も進んで、自動貼合機も導入されていた。人絹クロスは綿布のクロスにくらべて、製本工程で型くずれが発生したり、貼り合わせがうまくゆかず苦情が絶えなかった。使用澱粉の品種を変更したり、さまざまな技術改良を加え、かろうじて製品としての命脈を保っていた。旧京都工場の製造1課で戦後も活躍した連結機は、この時に設置されたものであった。


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