「大正生まれのベンチャー」

京都とベンチャー
 京都には個性豊かな優良ベンチャー企業が多い。バブル経済崩壊後にやってきた戦後最悪の不況といわれるなかにあっても、それらの企業は高収益をあげつづけている。いずれもハイテクを中心とした得意分野で高いシェアを占め、世界市場を相手にグローバルな成長・発展をつづけている。多くの企業が業績不振にあえいでいるときだけに、これら躍進企業の元気さがいっそう際立つものとなった。
「伝統」と「革新」が共存する稀有な都市として知られる京都には、すでにして明治のころからユニークなベンチャー・ビジネスが数多く生まれている。
 京都はもともと資源が豊かでなく、産業立地上ふさわしい環境にもめぐまれていない。世界を相手に戦える創造性、優れた技術力がなければ、とても京都で産業を成功させることはむずかしい。それゆえに京都の成長企業は、いずれも特定の業種に経営のターゲットを絞りこみ、その分野で高度の技術力によってシェアを確保している。「総合……」ではなくて「専門」型の企業が高収益をおさめているのが特徴だといえる。
 織物や陶磁器について日本の中心だった京都には、昔から「モノづくり」を大切にする伝統がある。人まねを軽蔑し、創意工夫を貴ぶという気風が脈づいている。そういう風土が背景にあって、伝統産業からアイディアを得て、〈新しいモノづくり〉をめざす、あるいは未開拓の〈新しい分野〉を手がけようとする進取の気質が生まれてくるのだといわれている。
 現実に絹織物や陶磁器に代表されるように、長年の伝統に培われ、蓄積されてきた精巧な加工技術をハイテク分野に応用、ベンチャーとして出発した企業も少なくない。ダイニックの前身である日本クロス工業も、まさにそういう京都の産業風土に育まれて誕生したのである。
 日本クロス工業は、1919年(大正8)8月、京都・西陣で創立されている。西陣といえば400年の伝統を誇る染織の街、そのどまんなかで日本クロスはスタートしたのである。
 創業者の坂部三次は、絹織物の染色という繊細な伝統技術をコーティングという新しい技術に応用、国産クロスの研究・開発から会社を興した。現在、グループを含めてダイニックの総体を見るとき、その業容はきわめて広範におよんでいるが、創業時にさかのぼれば、一般にはあまりなじみのない「ブック・バインディング・クロス」の製造をもって産声をあげた弱小ベンチャーのひとつにすぎなかったのである。


創業者・坂部三次

 坂部三次は1879年(明治12)3月19日、京都府亀岡市に生まれている。父・坂部確、母・モトの3番目の子であった。兄と姉がいて3人目に生まれた次男……。それが「三次」という名の由来である。
 三次の父・坂部確は元亀岡藩士、明治維新まで馬廻役をつとめた。坂部家は亀岡藩の家老の家柄だったが、次男だった確は分家、禄高は200石であった。
 家禄200石といえば中級藩士の部類だが、廃藩置県後は苛酷な運命が待ち受けていた。藩家の俸禄をはなれた士族たちの暮らし向きは、きわめてきびしく、坂部家も例外ではなかった。
 三次の生まれた1879年(明治12)は、西南戦争後の不況のまっただなかであった。さらに1881年(明治14)、1884年(明治17)、1891年(明治24)と大不況が相次いでやってきて、市民生活を慢性的な苦境に陥れた。
 急速な時代の移りに翻弄され、さらに生活の窮迫が追い打ちをかけた。1890年(明治23)、三次の父・確は、長年の心労によって急死してしまう。三次が尋常小学校4年のときである。その当時、兄は京都府立商業学校に在学中だったが、次男の三次は経済的な理由から、上級学校への進学をあきらめるほかなかった。
 尋常小学校卒業後、三次はしばらく家事を手伝ったあと京都市の商家へ奉公に出たといわれているが、京都織物会社に入社する14歳までのおよそ2年間の足どりは定かではない。本人が後年語るところによれば、織物問屋の老舗「千総」をはじめ、いくつかの商家を渡り歩き、東京にも足をのばしたという。
 三次が京都織物会社に入社するのは1893年(明治26)7月21日、満14歳のときである。
 京都織物会社(1887年設立)は、ヨーロッパの最新技術による日本最大の近代織物工場であった。浜岡光哲や田中源太郎など京都の財界人だけでなく、渋沢栄一や益田孝、大倉喜八郎など当時の日本を代表する実業家が発起人に名を連ね、経営にも参画している。いわば中央の財界と京都府とが一体となって創設したモデル工場である。
 超一流の経営陣、ヨーロッパ帰りの技術スタッフ、最先端の設備をもって創業した京都織物会社は、明治から大正期にかけて、名実ともに織物・染色業のトップメーカーになってゆく。
 従業員も全国各地から選りすぐられ、技術者は蔵前高等工業(現・東京工業大)、事務担当は京都第一商業など商業学校出の成績優秀者で占められていた。とても尋常小学校出の三次が、かんたんに入社できる会社ではなかった。何軒もの商家を渡り歩いた三次の身元引受人となり、温かい眼をそそいだのは郷里の先輩・田中源太郎だった。
 田中は幕末の亀岡藩にあって、最も年若な家老だった。維新後は実業界に進んで成功をおさめていた。山陰本線の母体となる京都鉄道を設立するなど、三次が京都市に出てきたころは、京都経済界のリーダー的存在だった。坂部本家も田中家もともに亀岡藩家老の家柄だった。そうした縁もあって、三次の兄は田中の援助を受けて、府立京都商業学校に通っていた。三次が入社したころの経営陣を見ると、取締役会長の渋沢栄一を頂点にして取締役は4人という構成だが、そのなかに田中が名を連ねている。
 坂部三次は郷里の名士・田中源太郎に眼をかけられ、「事務見習」として、新しくスタートをきるのである。


京都織物会社

 三次が入社した京都織物会社は創立6年目を迎え、社業は躍進期にさしかかっていた。織物生産、染色加工、再整のほかに撚糸事業にも進出、企業規模はさらに拡大されてゆく。
 「事務見習」を3年勤めて、三次はようやく染色部の工場員となるのだが、どうして技術者を志したのだろうか。それは明治の京都という時代的雰囲気と無縁ではないだろう。三次が亀岡から出てきたころ、つまり明治中期の京都は日本一の近代産業都市だった。
 京都市は明治維新のころから官主導で近代的な都市づくりに取り組んでいる。第1ステップでは勧業場や舎蜜局を中心にして、もっぱらヨーロッパの先進工業技術の導入につとめた。
 明治10年代から20年代になると、京都改造の大事業は、さらに大規模なひろがりを見せてゆく。とくに注目すべきは3代目知事・北垣国道による琵琶湖疎水の建設計画である。若い土木学者・田辺朔郎を思いきって起用、この画期的な大事業を1890年(明治23)に完成させた。琵琶湖疎水は、染色工業の用水を確保、水運による運輸・物流をスムーズにしただけでなく、その恩恵は計りしれないものがあった。たとえば蹴上水力発電所による電力の供給は、1895年(明治28)に日本最初の市街電車を走らせ、市街に電灯をともした。一時的に世界最大の規模を誇った発電所のもたらす豊富な電力は、やがて京都に本格的な近代工場を誘引するきっかけになってゆくのである。
 明治30年代になると「京都市百年の大計」にもとづいて、産業立地条件の整備が進み、鐘紡など他府県からの工場進出が始まる。そういう活気にみちた明治京都の息吹を皮膚で察知して、三次は自分の進むべき道を選択したのだろう。
 1896年(明治29)春、三次は「染物部見習」となり、技術者としての道を歩み始める。事務畑の三次を工場勤務にしたのは、染物部長の舟坂八郎(後の会長)である。
 舟坂は海外経験も豊富で、ヨーロッパやアメリカの技術動向にも通じた視野のひろい人物であった。数多くの特許製品を開発するなど、すぐれたアイディア・マンで、新しい機械の導入はすべて一任されるほど経営トップからも信頼されていた。舟坂は優秀な機械だと見ると独断で購入したが、会社のマイナスになると思う技術導入には頑なに反対する信念の人だった。京都織物会社で最も先進的な技術者である舟坂に素質を見こまれたのは幸運だった。三次のパイオニア精神と技術者魂は、この舟坂のきびしい指導によって生まれたにちがいない。
 努力次第では社員にしてやる……。
 舟坂に励まされて三次は染色工場の工場員となったが、見習社員の出勤は朝5時、終業時間は午後6時、さらに残業がある。帰宅は毎日午後8時をまわっていた。
 工業学校出身の逸材ばかりのなかで、学歴のない三次が技術者として頭角を現すには、他人よりも何倍も努力するほかない。下宿の部屋は研究室になり、フラスコや試験管だらけになってしまった。帰社してからも三次は深夜まで化学染料の用法研究に取り組み、寝食をわすれるほど没頭した。
 三次が技術者としていかに素質にめぐまれ、いかにもてる才能を発揮したか。京都織物会社の昇給記録がはっきりとそれを証明している。
 染物部に転属した1896年(明治29)1月の月俸は5円だったが10月には7円に昇給している。年2回の昇給は異例で、よほど抜群の働きがあったときのみであった1897年(明治30)1月には10円、10月には13円と、またしても年2回の昇給である。1899年(明治32)には16円、1900年(明治33)は3月に20円、7月に25円とやはり年2回である。そして1901年(明治34)には30円……。まさに異例ずくめの昇進ぶりだった。
『染物部長申付俸金参拾五円給与候事』
 三次がこの辞令をもらったのは1903年(明治36)1月である。入社して10年目、23歳の三次は染物部の部長に任じられた。当時、会長は田中源太郎、技師のトップは舟坂であった。そういう幸運な背景があったとはいえ、尋常小学校出の三次を染色部門のトップにするという人事は異例の大抜擢である。本人の実力に加えて、よほどの功績があったものと情勢判断される。


ライバルの出現

 坂部三次が「ブック・バインディング・クロス」に眼を向けたのは、染物部長に就任してまもなくのころだった。京都織物会社に招かれたフランス人技師が残していった一冊の書物が三次にクロスの国産化を促すのだが、わが国の製本事情について、かんたんにふれておきたい。
 クロスは洋本の装幀材料である。わが国に初めて洋本が登場したのは、1877年(明治10)前後である。政府は印書局(現・大蔵省印刷局)にカナダ人の製本技師W・F・パターソンを招いて、養成工に製本技術を学ばせている。このときは本文用紙、板紙、クロス、革類にいたるまで、輸入品が用いられた。
 政府は印書局の出版物をすべて洋式製本にして、ひたすら新技術の普及につとめたが、装幀材料はすべて輸入にたよらなければならなかった。それゆえに洋式装幀の本格的な普及は、表紙用の板紙が国産化される1887年(明治20)ごろまで待たねばならなかった。
 板紙の国産化を促したのは、スマイルズ著『西国立志篇』(中村正直訳)の大ヒットであった。同書の普及版の刊行によって国産の板紙が安定供給されるようになったのである。板紙の登場によって洋式製本は急速に普及したが、装幀材(クロス)はいぜんとして輸入にたよっていた。
 日本クロスが国産化するまで、イギリスのウィンターボトム社の製品が日本市場のほとんどを占めていたが、輸入品には大きな弱点があった。それは欧米と日本との気候風土のちがいによるものであった。イギリス製品をそのまま湿度の高い日本にもってくること自体に無理があった。ウィンターボトム社も日本向けに耐湿性にすぐれたクロスの開発をめざしたが、採算上の問題もあって、満足な結果が得られなかったようである。
 国産クロスの開発が具体的に始まったのは明治後期である。1898年(明治31)、東京で外国人技師を顧問にまねいて製造研究が始められた。試作品によるテスト販売も行われたらしいが、品質が安定せず事業化には結びつかなかったようである。
 三次が日本クロス工業を創立するのは、それから21年後だが、同時期にもう一人、クロス国産化をめざす進取の技術者がいた。東洋クロスを興した大角卯之助である。
 日本クロスと東洋クロスは同じ時期に京都で発足している。創業者の三次と大角がともに京都織物会社出身であるという偶然も重なっている。大角は三次より2年遅れて、1895年(明治28)、京都織物会社に入社している。同社には幹部コースと職長コースがあって、大角は職長コースをあゆんだ。染・再整の一職工からやがて職長になったが、在職期間はわずか5年であった。
 1900年(明治33)春、年季切れと同時に京都織物会社を退社した大角は、同年9月に染工場を買収、独力で染色・再整業に乗りだしている。ブッククロスの生産に着目したのもそのころで、洋式帳簿の表紙クロスを見たのがきっかけになったという。
 大角は1902年(明治35)1月、京都染再整所(資本金1万円)を設立、染・再整の事業をつづけながら、本格的なクロスの製造・研究に着手している。テスト生産を開始したが、輸入品にはとうていおよばなかった。1905年(明治38)には、大角のクロス事業に興味をもった染色業者・亀井徳次郎が援助の手をさしのべている。やがて大角と亀井は共同事業のかたちでクロス事業を展開することに合意、同年12月に京都染再整合名会社を発足させた。亀井という理解者を得て、大角はクロスの研究・開発に専心できる環境を手に入れたのである。1910年(明治43)ごろになると、大角はクロス製造機を考案、ただちに黒クロスの生産を始めている。だが、いぜんとし輸入品のレベルに達せず、研究段階の域を脱することができなかった。


パリ生まれの『デピエ』

 大角卯之助をブッククロスの開発に駆り立てたのは、帳簿用に使われていた一片のクロスだったが、坂部三次にとっては、京都織物会社の御雇い外国人が残した一冊の書物だった。
 京都織物会社には多くのフランス人技師が招かれているが、そのなかにリヨンからやってきたビクトル・メニールという染色技師がいた。メニールは1888年(明治21)から1991年(明治24)まで在籍しているが、ひそかにクロスの製法研究を進めていた。フランス製の染色仕上機を改良して、ブッククロスの試作を繰り返していたというが、その研究活動のよりどころになったのが、Depierre著『Traite des Apprets』(以後は単に『デピエ』と呼ぶ)だった。『デピエ』はパリで出版された「ブッククロス」の製法技術書であった。メニールが京都織物を去った後、同書は誰にもかえりみられないまま、研究室の本棚に放置されていた。
 何年も誰ひとり手にとるものもなかった一冊の洋書に三次が出合ったのは、染物部長になってまもなくの1903年(明治36)ごろだった。メニールが京都織物を去って12年間も埃をかぶっていた『デピエ』は、三次によって眠りから覚め、やがて「日本クロス工業」を発足させることになる。当時、三次も国定教科書などに使用されているクロスを見て、舶来品に負けない製品を開発したいと、ひそかに夢見ていた。『デピエ』との出合いは、その夢を現実のものにしていった。
 『デピエ』はフランス語の原書である。学歴のない三次にとって訳読は困難をきわめた。不完全な当時の仏和辞典では、とても専門書を読み解くことはできなかった。ひとつの単語の意味を理解するのに何カ月もかかった。
 大角と同じく三次もパイオニアゆえの苦闘をつづけたが、かれには科学的な研究ができる環境が整っていた。京都織物会社は業界では最先端をゆく巨大企業である。染色加工に関するかぎり最新の設備がそろっていた。フランス製の型出機や艶出機もあった。
 クロスの開発に必要な特殊な原材料も入手することができた。
 大角は自分の研究が進まなかった原因のひとつに原材料が高価であったことと入手難をあげている。クロスの開発には特別に設計した綿布が必要だったが、少量では機屋の生産ロットに合わなかった。さらに塗料に使用する顔料や薬剤も高価なものが多かった。
 1911年(明治44)6月、農商務省工業試験所で、クロス製造に関する講習会がひらかれている。ヨーロッパ留学から帰国した技師を講師にしたいわゆる技術研修会であった。参加者の一人であった大角によると、受講生は最初は56人いたが、最後まで聴講したのはごく少数だった。クロス製造のむずかしさ、原料のコスト高に畏れをなして、次つぎに脱落していったというのである。
 超一流企業・京都織物会社の染色部門のトップにあった三次は、出入りの機屋をつかってクロスのベースになる綿布も入手することができた。研究室には顔料の研究に必要な薬剤などもそろっていた。めぐまれた環境を利用して、三次は科学的な研究を重ね、着実に成果をあげていった。


パイオニアの苦闘

 明治末期から大正の初めにかけて、クロス国産化の機運は高まったが、工業化への道はまだまだ遠かった。坂部三次は一冊の洋書を読み解きながら、自ら糊を引くなど独自の研究をつづけ、大角卯之助も孤独な闘いをつづけていた。塗料の研究には毒物を使用することもある。そのため咽喉を痛めて吐血、研究室で倒れることもあったという。
 クロス国産化がにわかにクローズアップされたのは、第1次世界大戦の始まった1914年(大正3)ごろからだった。イギリスからの輸入は完全にストップ、在庫が何倍も値上がりした。そのため品質的には輸入品におよばなかったが、代用品として大角の開発した京都染再整合名会社の製品が求められるようになってゆく。それでもなんとか採算ベースにのるほどクロスは品薄状態になっていたのである。
 代用品として紙クロスの開発をめざす動きも活発になってきた。1915年(大正4)前後になると篠田商店の篠田信作、谷野商店の谷野峰三、戸塚・大久保商店の大久保善一らが、いずれも京都で紙クロスの製造に着手している。さらに森島商店の森島善一、伴野商店の伴野音次郎が共同で紙クロス製造の事業化に乗りだしている。
 工業生産という観点から科学的にクロス製造の研究に取り組んでいた坂部三次は、1916年(大正5)には染物部長のほか再整部長もつとめるようになっていた。
 そのころ三次はすでに独自の研究によって日本の気候風土に耐えるクロスを完成、いつでも特許の出願ができる状況にあった。クロス製造をぜひとも京都織物会社の新規事業として展開したい。設備投資はざっと20万円……。三次は専務の舟坂八郎に事業化を提案した。京都織物会社にあって最も先見性のある技術者であった舟坂は、三次の提案を「将来性のある事業」と認め、さっそく役員会にかけたが、思いがけない結末が待ち受けていた。技術部門を統括する舟坂が何度もねばり強く提案したが、「クロス製造の事業化」は、圧倒的多数で否決されてしまったのである。
 京都織物会社は宮内庁御用達の高級絹織物をつくる会社である。綿布にドロを塗るような汚れた仕事など手がけられない……というのであった。
 三次は重大な岐路に直面した。会社の方針にしたがって、あきらめるべきか、それとも独立して事業を興すべきか。苦渋の選択をまえにして、およそ一年あまり迷いに迷った。最終的には京都織物会社という企業よりも、技術者として忠実に生きる道を選びとるのだが、その伏線になったのが2人の新しいパートナーの出現である。
 京都織物会社の役員会でクロス生産の事業化を否決され、はげしい衝撃を受けていた三次に亀井徳次郎が接近してきた。亀井は三次とともに新しいクロス製造会社をつくりたい……と思いがけない提案を持ち出してきたのである。後年になって三次自身が次にように述懐している。

 わしは京都織物を退職するに先立ち、井村(健次郎)さんに相談した。それは亀井さんから同氏の所有する工場を提供するから坂部の手腕力量を発揮して、クロスの製造を始めてもらいたいとの勧誘に応じ、将来とも自分の会社経営の指針の相談相手とするために井村さんを選んだのである。

 亀井は大角卯之助とともに京都染再整合名会社を設立、クロスの生産に着手していた。おりしも第1次世界大戦が勃発、イギリスからのクロスの輸入がストップするなかで、需要も増大し始めていた。亀井と大角のクロス事業はようやく13年目にして軌道に乗りかかったが、そのころから両者の間に重大な亀裂が生まれていた。
 亀井から思いがけない提案をうけた三次は、ただちに師友・井村に相談している。神戸の貿易商から出発した井村は関西で著名な資本家のひとりであった。
 三次は亀井徳次郎の共同事業の提案について基本的に合意したが、具体的な事業展開については思惑を異にしていた。亀井は大角の代わりに三次を迎えて、京都染再整合名会社を継続しようと考えていた。三次はクロス国産化という新しい事業を始めるのだから、新会社の設立がのぞましいと主張していた。両者ともに自説をまげないまま、最終的に井村にゆだねられるかたちになった。


創意の技術者とベンチャー

 坂部三次は1918年(大正7)7月6日付で京都織物会社を退職している。雇用期間満了による円満退社である。
 技術者として忠実に生きる道を選んだ三次は、京都織物を去るとただちにアメリカに渡っている。アメリカはイギリス、ドイツとともにクロス工業の先進国のひとつである。三次がおよそ半年あまりをすごしたのはニューヨーク市の北西22キロにあるバターソンであった。当時のパターソンは合衆国第一の染織工業都市であった。新しい事業を興すにあたって、先進国の実情を見ておきたい……という三次の希望をかなえたのは、京都織物会社の舟坂八郎であった。海外の事情に明るい舟坂は三次が京都織物を去ってからも、背後からの支援を惜しまなかった。
 新会社にすべきか、それとも合名会社のままで事業を継続すべきか……。 三次の遊学中も井村健次郎と亀井徳次郎によって協議がつづけられたが、1919年(大正8)が明けても決着がつかなかった。そんななかで大角卯之助が動いた。同年1月に亀井との共同経営を解消、独立して新会社を設立することにしたのである。京都染再整合名会社は解散、工場設備のすべてを亀井染再整会社に譲渡することに合意した大角は、新しく京都電灯株式会社の所有地(下京区四条大宮西入ル)を買収して、独力でクロス製造会社を設立することにしたのである。
 井村と亀井の協議に決着がついたのは同年3月ごろだった。最終的には三次が主張していたように新会社設立というかたちで合意に達した。企業形態を株式会社にしたのは、おりからの企業ブームのなかで設立されたほとんどの会社が、「株式会社」のかたちをとっていたからだった。
 《おおかたの構想は井村さんの考えを中心に決定をみた》と、後年になって三次が語っているように、新会社誕生の演出者は井村であった。
 アメリカ遊学を終えて三次が帰国したのは、1919年(大正8)の3月末ごろだったが、そのころには新会社設立の準備はすべて整っていた。こうして、この年の春から夏にかけて、京都市に二つのクロス・メーカーが誕生する。大角の京都染再整株式会社と坂部三次の日本クロス工業株式会社である。日本クロス工業は8月の創立と同時に操業を開始した。京都染再整は5月に創立されたが、本格的な操業は工場が完成した9月からだった。
 日本クロス工業は坂部三次という創意に富む技術者が核となって創業したベンチャーであった。追われるように故郷の亀岡をとびだしてきた三次には、独力で会社を設立する資力はなかったが、独創的な技術力と京都織物会社時代に培った経営センスを有していた。つまり三次が技術と経営的手腕、亀井は工場、井村が資本をそれぞれ個別に提供することにより、日本クロス工業という新会社はできあがったのである。

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