「日本クロスの創立」

第1次世界大戦と企業ブーム
 日本クロス工業が創立された1915年(大正8)前後は、第1次世界大戦後の余光景気のまっただなかにあり、日本経済は企業ブームに沸き立っていた。
 第1次世界大戦は、わが国の産業構造に大変革をもたらした。大戦勃発と同時にヨーロッパ諸国からの輸入は完全にストップ、わが国の産業は新しい展開を迎えることになる。たとえば化学製品などはドイツからの輸入が断たれてしまい、政府の保護を受けて化学薬品工業が活発化してくる。出遅れていた重工業部門でも、新しい企業が次つぎに設立されてゆくのである。戦中の企業ブームの中心は造船、機械、化学、海運、鉱山だったが、戦後は電力、電灯、紡績、織物、などが中心となった。
 大戦の勃発でヨーロッパ企業が世界市場から撤退している間に、わが国の企業は東南アジアに進出した。貿易の拡大にともなう好景気は、インフレと物価騰貴をもたらしたが、株価が上昇して企業利潤はふくれあがり、これがまた新しい企業の誕生をもたらした。1915年(大正4)から6年間というもの、日本経済はかつて経験したことがないほど好況のさなかにあった。産業部門への投資も活発になり、新しい事業を興すには絶好の環境が整っていた。
 京都の産業界も、1915年(大正4)から1920年(大正9)にかけて大発展をとげてゆく。大戦後の異常な好況のなかで、企業形態として新しく台頭してきた「株式会社」への組織変更が流行、とくに新設の企業は初めから株式会社でスタートするケースが多くなった。京都の産業界にも企業ブームがやってきたのである。
 京都の企業ブームの主役は、化学・精密機械工業だった。多くの企業がこの時期に新設され、工場を増設する既存の企業も多かった。主なものだけをひろっても、1917年(大正6)には日本電池、奥村電機商会、日本機械精工、島津製作所、1918年(大正7)には第一工業製薬、1919年(大正8)には大沢商会、日本クロス工業、日本新薬などが設立されている。府下の企業数は6年間に400から900あまりに増え、なかでも工業関係の企業は約3倍にふくれあがった。
 ダイニックの前身である日本クロス工業も、こうした京都産業界の飛躍的な発展、企業新設・増設ブームのなかで誕生したのである。


京都・西陣で創業

 日本クロス工業株式会社(以下、日本クロスと略称する)は、1919年(大正8)8月1日、京都・西陣(京都市上京区一条通油小路西入ル西川端町一番戸)に設立された。新会社の設立について、1918年(大正7)夏ごろから1919年(大正8)4月ごろまで、およそ8カ月にわたって検討・協議が繰り返されている。協議には京都織物会社の染・再整部長の坂部三次と染色加工業のかたわらクロス製造を試みていた亀井染再整合名会社の亀井徳次郎、さらには関西実業界のなかでも識見ある資本家といわれた井村健次郎が加わっている。井村は坂部三次と亀井の間に立ち、いわばコーディネーターとして新事業をめぐる両者の意見調整につとめている。最終的に亀井染再整合名会社を買収して、クロス製造の株式会社を新しく設立することに決まったが、その経緯のあらましについては、すでに前章で述べた。
 設立発起人は次の15人である。
 亀井徳次郎、井村健次郎、夫馬勘次郎、熊沢甚太郎、坂部三次、谷節太郎、上村九兵衛、多田長治、北村留吉、渡辺定次郎、八木千之助、山川幸三郎、小原富太郎、春日井庄次郎、田中利七
 創立総会は1919年(大正8)8月1日、亀井染再整合名会社で開かれている。
当日選任された役員は次のとおりである。

専務取締役   亀井徳次郎
常務取締役   坂部 三次
取 締  役 夫馬勘次郎
上村九兵衛
井村健次郎
谷 節太郎
監 査 役 熊沢甚太郎
多田 長治

 創立時の資本金は100万円とあるが、これはあくまで公称資本金(授権資本)で、発足時に払い込まれた資本金は35万円であった。払込資本金のうち25万円は亀井染再整合名会社の財産一切を買収する費用にあてられた。
 参考までに記すと、公称資本金は、1920年(大正9)に50万円に減額されている。実質資本金は、1923年(大正12)の第2回払込で37万5,000円、1928年(昭和3)の第3回払込で42万5,000円となった。以降は株式配当の約半額を払込金にあてる方法を採り、創業12年目の1931年(昭和6)に50万円になっている。
 日本クロスは、設立にともなう諸手続きがすべて完了した1919年(大正8)8月18日をもって本格的に営業を開始、この日を創立記念日としている。
 日本クロスの商号は、和文表示では〈日本クロス工業株式会社〉、英文表示では〈NIPPON CLOTH INDUSTRY CO., LTD.〉である。この命名には創業者の明確な意図がこめられていた。
 頭に付した〈日本〉には、日本にただひとつしかないクロス専門会社であるという自己主張がこめられていた。単に〈日本クロス株式会社〉では製造会社なのか商事会社なのか判別がつかない。〈モノをつくる〉会社であり、あくまでクロス製造が本業であるという姿勢を明らかにするために、あえて〈工業〉の2文字を付したのである。


家族主義的な町工場

 創立当初の日本クロスは規模からいっても、組織からいっても、西陣の片隅にある町工場というイメージであった。社内の責任役員は常務取締役の坂部三次ひとりで、常務の三次が自ら作業服姿で陣頭に立っていた。まる一日を作業場で過ごすことも少なくなかった。毎日トップ自ら工場に入って、塗料の研究や製品開発に取り組んでいたのである。
 日本クロスは、あくまで坂部三次という技術者を中心にして誕生、日常の業務も三次を中心に執行されていた。実質的には三次が社長で、他の役員はいわば社外重役というかたちであった。それぞれ繊維、織物、貿易、化学工業のエキスパートであった社外役員は、いわば三次を取り巻くブレーン集団として機能していた。業務執行役員が常務の三次ひとりという体制は、社内の人材が育ってくる1935年(昭和10)ごろまでつづいた。
 発足当初の日本クロス、つまり一条工場時代の従業員は約100人、工場敷地は約150坪だった。工場はクロス部、再整部、染部の3部門に分かれ、各工場の現場をクロス場、再整場、染場と呼んでいた。
 組織のうえでは事務所と工場に分かれてはいたが、会社の運営はあくまでも製造部門が中心で、従業員のほとんどは工場要員にあてられていた。工場は各部長と職長によって運営されていたが、坂部三次が京都織物会社をはじめ外部からスカウトしてきた人材が多かった。
 事務所は支配人と5〜6人の事務担当と外交員で構成されていたが、ほとんどが染部・再整部の要員であった。新事業のクロスについては専任の担当はおかれていなかった。発足して2〜3年あまりは、販売活動についても常務の坂部三次が自ら担当していたらしい。
 始業時間は工場が午前7時、事務所は午前8時だったが、終業時間はともに午後5時であった。定休日は第1・第3日曜日だけ。祭日は年によって変動があったが、正月3が日と紀元節、天長節は休日とされていた。

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