「創業時の経営方針」

本業はクロス
 日本クロスはクロスの生産・販売と染色加工をもって出発しているが、経営方針はあくまで〈クロス本業〉を貫くことにあった。
 発足したばかりのころ、本業のクロス事業は本格的に動き出していなかった。クロスそのものの品質も完全でなく、販路も整備されていなかった。だが、あくまでクロス事業を本業、染色・再整事業を副業とする位置づけには変わりがなかった。クロス事業は製品販売であり、染色・再整は委託による賃加工である。クロス製造が事業として確立するまで、加工業の染色・再整で経営を支えてゆこうというのが創業時の基本的な経営姿勢だった。
 経営基盤を確立するために、いくつもの事業構想が浮上しては消えていった。副業の強化という観点からの新事業だから、それはおのずと染色・再整に関連した分野であった。
 最初に検討されたのは絹糸・絹布の増量加工である。増量は高度の加工技術ゆえに多額の設備投資が必要であった。当時フランスのリヨンでさえ失敗して倒産する企業が続出していた。事業としてはあまりにもリスクが大きく、技術的な課題も解決できないまま、最終的には試験・研究の段階で終わってしまった。
 綿布の捺染加工は研究段階にとどまらなかった。事業化計画は、1921年(大正10)3月の取締役会で決定、9月には予算4万円を計上して設備導入が具体化している。10月には、クロス工場の一部を移転して捺染工場の建設スペースを確保した。さらに綿布捺染の中心地・和歌山から渡辺綱五郎(和歌山染工社長)を取締役に迎え、事業進出について細かく検討を進めている。けれども捺染は装置産業であった。中途半端な参入では先発の和歌山産地に勝つことはできない。設備投資も当初の予定を上回りそうな情勢であった。
 捺染事業への参入は2年間にわたって検討されたが、1923年(大正12)3月に断念することになった。日本クロスは、あくまでクロス製造が本業である。苦しまぎれに捺染業に進出すれば、どちらも中途半端になってしまい、経営上苦境に立つばかりでなく、創立精神にも背く結果になるという理由からだった。事業展開をめぐる創業時の苦しみは、およそ四年ばかりつづいたのである。


教科書用クロスで出発

 日本クロスが創業したころ、ブッククロスの主な用途といえば小学校国定教科書、中学校教科書が中心で、そのほかは帳簿・ノート類などが対象であった。市場規模は年間約300万円といわれた。国産品が登場するまではヨーロッパからの輸入製品が市場を独占していた。最初はイギリスのウィンターボトム社の製品がほとんどを占めていたが、大正期になってドイツのヤコビ社の製品も参入してきた。岩井産業が輸入製品の国内窓口となり、総代理店は大倉洋紙店であった。
 大型出版というものがなかった時代である。ブッククロス最大のマーケットといえば、教科書市場であった。日本クロスの製品開発、販売活動も、教科書市場を意識して展開した。
 創業当初に製品化されたクロスは「黒一色」「型なし」タイプである。日本クロスは、この〈黒クロス〉と〈裏貼りクロス〉をもって教科書出版市場への参入を果たした。坂部三次が自ら文部省当局と折衝を繰り返し、ようやく国定教科書の一部に採用されるようになったのである。
 国産化に成功したものの、品質的にも製品の種類からみても、まだまだヨーロッパ製品に遠くおよばなかった。創業まもないころは、一部の教科書と雑記帳などの背貼りに使用されたにすぎなかった。そのため量産によるコストダウンも期待できず、ヨーロッパ製品に太刀打ちできなかったのである。国産のクロスが自立するまでには、まだまだ時間的な経過が必要であった。


安定した収益――染・再整部門

 染色・再整事業はあくまで副業という位置づけだったが、新規事業のクロス部門にくらべるときわめて順調に立ち上がっている。現実に工場敷地の半分以上は染・再整部門が占めていた。坂部三次はもともとクロスについては一研究者にすぎなかったが、染色・再整については専門家であった。京都織物会社時代の経験と人脈が商売に結びついたのである。
 当時は天然繊維中心の時代で、染色も絹と綿が主流であった。日本クロスも絹織物、綿織物の染・再整加工に進出している。創業まもないころ、再整が最も利益率の高い部門であった。綿布再整の黄金時代といわれた当時にあって、新規参入の日本クロスでさえ、順調に業績を伸ばすことができたのである。加工業という性格から、業績は年度ごとに変動があったが、染色・再整部門が会社の屋台骨を支えていた。
 クロス部門の業績は、糸や綿布などの原材料の相場に左右された。為替相場の変動が輸入量に影響をおよぼし、それが売上高を微妙に左右した。たとえば創業3年目の反動不況時には、紙業界の不況の影響をもろに受けている。第1次世界大戦中、輸入品のストップを想定して国内にストックしていたクロス製品が投げ売りされ、それが生産にブレーキをかけた。創業2年目のクロス生産量は約940万平方ヤードだったが、翌年の1921年(大正10)には、約800万平方ヤードにまで落ちこんでいる。
 染・再整部門も市場環境に左右されたが、クロス部門にくらべれば安定していた。1920年(大正9)は生糸・綿糸相場の暴落で織物業界はパニックに見舞われたが、日本クロスの業績そのものには大きな影響はなかった。
 創業当初は、地味なクロス部門にくらべて、荷動きのはげしかった染・再整部門のほうが華やかであった。本業のクロス部門が自立するまでのおよそ5年間は、染・再整部門が日本クロスの経営を支えていたのである。


総代理店・博進社

 創業時代のクロス製品の販売には、特約店システムを採っていた。販売ルートづくりは先ず大阪から始まっている。1920年(大正9)に(株)博進社大阪支店との間で関西地区一手販売契約を結んでいる。主な納入先は岡本大阪店や大阪書籍、ノート・帳票業者、教科書出版社であった。
 関西市場にくらべて、東京市場の販路整備はかなり遅れている。1921年(大正10)に川島用紙店、国島洋紙店と特約契約を結んだのが、東京進出の始まりである。
1923年(大正12)の初めには(株)亀井商店が加わったが、せいぜい1ケース(23ヤード巻50本)単位の取引で、商売にはならなかった。
 東京市場の販売拠点づくりに転機が訪れたのは関東大震災後である。震災の被害で3社とも特約代理店として機能しなくなってしまった。けれども震災需要によって、東京からクロス製品の注文が殺到した。物流拠点という性格をもった強力な代理店がにわかに必要になり、すでに関西で一手販売契約を結んでいた博進社の本社を東京地区の特約代理店とした。
 博進社は神田駿河台に本社を構える大手洋紙店であった。明治後期に出版王国をきずいた博文館の子会社として、1897年(明治30)に創業、王子製紙の製品を独占的にあつかっていた。とくに同社の教科書ルートは強力であった。当時、小学校の国定教科書は、日本書籍、東京書籍、大阪書籍の3社が出版していた。その用紙の70%に王子製紙の製品が使用されていたが、代理店の博進社がそのすべてを納入していた。
 日本クロスは1926年(大正15)4月、博進社本社と東京地区における一手販売契約を結んでいる。博進社を国内の総代理店に選んだ時点で、日本クロス初期の販売網は確立された。教科書用クロスを中心に販売を展開しようとする日本クロスにとって、博進社は強力なパートナーになってゆくのである。総代理店というよりも、日本クロスの経営上のパートナーであった。同社の創業者である山本留吉が日本クロスの監査役に就任したのを手始めに、その後も山本博、大島久吉、須佐敢の3名が取締役として経営陣に名を連ねている。同社との親密な関係は1954年(昭和29)までつづいた。
 博進社と総代理店契約を結ぶと同時に、京都から東京駐在員を派遣した。東京出張所は博進社本社内におかれた。同社営業部の一角に机ひとつが与えられ、駐在員はそこで執務した。初代駐在員は細田信一であった。駐在員の主な業務はクロス類の販売と染色加工の受注活動であった。担当者ひとりの東京出張所は、第2次世界大戦後、東京事務所が開設されるまで、およそ20年つづいた。
 海外市場への進出を前提にした販売網づくりも1923年(大正12)から始まった。同年5月には、土佐紙業(株)京城支店と特約契約を結び、朝鮮市場でブッククロスの販売を開始している。
 中国輸出の特約代理店は文進洋行であった。同社は上海で紙製品をはじめ帳簿、ノート、鉛筆などの文具をあつかっていた。文進洋行経由で1924年(大正13)から、上海、天津への輸出が始まっている。ブッククロスの見本帳を初めてつくったのは、このころだった。
 輸出は1926年(昭和元)から、さらに活発になっていった。博進社の販売網はアジア全域におよんでいて、日本クロスの製品は朝鮮、中国、さらには東南アジア諸国、インドあたりまで輸出されてゆくのである。

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