震災需要と円本ブーム

復興需要と教科書用クロス
 1923年(大正12)9月1日、関東地方の南部をおそった大地震、いわゆる関東大震災は莫大な被害をもたらした。地震による家屋の被害は倒壊より出火によるものが大きく、東京・横浜は焦土と化すほどであった。家屋の倒壊・焼失は約70万戸、死者は9万9,000人、行方不明者は約4万3,000人におよんだ。経済的損失は当時の貨幣価値で60億円にのぼった。この大震災によって経済活動はもちろん、国民の日常生活も完全に麻痺、街にはデマや風説がとびかい、社会的にも大混乱をもたらした。
 震災は出版・印刷業界にも深刻な打撃をあたえた。神田の書店街を焼きつくした火勢は、駿河台、小川町、淡路町までひろがり、大小の出版社や製本業者をのみこんだ。印刷業者も壊滅的な打撃を受けた。東京印刷同業組合に加盟する約300社の552工場が焼失、14工場が倒壊したのである。大蔵省印刷局をはじめ凸版印刷や秀英社、東洋印刷など大手も雁災した。日本インキ、東洋インキなどインキ会社も例外ではなく、出版・印刷の関連企業はこぞって被災した。印刷会社は生産設備を失っただけでなく、在庫品さえも焼失した。商工業者向けの伝票・帳簿類もほとんどが焼けてしまった。出版業界も大打撃を受けた。とくに深刻だつたのは、1924年(大正13)の新学期から使用されることになっていた小学校用教科書で、その焼失部数は1,460万部にのぼつた。
 出版・印刷業は壊滅的な被害を受けたものの、意外に立ち上がりが速かった。政府が積極的な復興政策を展開、官庁や学校が巨額の図書予算を組んだせいもあるが、何よりも業界が一敦して復興に力をつくしたことが大きかった。
 教科書の出版・印刷は9月半ばから始まっている。教科書や書籍の復興を背景にして、日本クロスのクロス製品は思いがけなく脚光をあびる。9月下旬からにわかに東京市場からの注文が激増したのである。
 復興需要によって、それまで染・再整工場の繁忙ぶりを横目に眺めていたクロス工場は操業以来初めての熱気につつまれた。昼夜兼行24時間のフル操業が翌年いっぱいつづいた。量産によって輸入品に負けない品質を確立、価格的にも輸入品に対抗できるようになっていった。
 教科書用クロスの大量供給によって、国産クロスの品質が輸入品と同レベルに達していることがひろく認知されるようになり、それまでほとんど販売実績のなかった東京市場開拓のきっかけもつかんだ。震災の復興需要に応えることによって、教科書クロスの分野にのびる足がかりを築いたのである。
 日本クロスの企業目標は、ヨーロッパからの輸入製品を質量ともに上回って、ブッククロスの専業メーカーとしての地位を確立することにあった。創業後4年間は品質的にも価格的にも輸入品のレベルに達せず、苦難の連続であった。生産量こそ少しずつ増加していたものの、外部要因に左右されることが多かった。たとえば為替相場の変動で輸入数量が減少したときなどに一時的に恩恵を受けるというように、国産品はあくまで補完的存在でしかなかった。
 日本クロスの生産高が輸入高に迫るのは、1923年(大正12)ごろからである。1922年(大正11)の生産数量は、105万2,000平方ヤード(輸入、232万1,000平方ヤード)と輸入量の半分にも満たなかった。ところが1923年(大正12)には、131万1,000平方ヤード(輸入、184万3,000平方ヤード)と急接近、1924年(大正13) には、208万8,000平方ヤード(輸入、229万8,000平方ヤード)となり、ついにヨーロッパ製品と肩をならべるまでになる。そして1925年(大正14)には、輸入量118万7,000平方ヤードに対して、日本クロスの生産量は192万4,000平方ヤードである。生産数量で見るかぎり、一社単独で輸入製品を上回ったのである。
 飛躍の転機は1923年(大正12) にあった。つまり震災需要によって、日本クロスはヨーロッパ製品を撃退するきっかけをつかんだとみることができる。1925年(大正14)当時、ブッククロスの国内市場規模は約450万平方ヤードである。日本クロスは総市場の45%を占め、創業7年目にして国内市場で主導的地位を確立したのである。


輸出で伸びる染・再整

 染色・再整の加工部門は、天然繊維の絹織物や綿織物を中心にしていたが、1923年(大正12) ごろから人絹染色に進出した。
 人絹が初めてわが国に登場したのは、帝国人絹株式会社が創立された1918年(大正7) である。人絹織物は1921年(大正10) ごろから、綿織物、綿織物に代わって、次第に勢力を伸ばしてゆく。
 日本クロスは人絹の将来性に注目、1923年(大正21) から人絹織物の染色加工に乗りだしている。人絹織物では、わが国最初の加工メーカである。これをきっかけに染色・再整部門は、長繊維織物を中心にした染色加工をつづけ、中国・朝鮮向けの輸出の増大とともに飛躍的な発展をとげてゆく。絹織物と綿織物を中心にして、室町や西陣産地を相手にしていたら、副業のままで終わっていただろう。その結果、京都の地場産業に埋没、第2次世界大戦中の企業整備で消滅していたかもしれない。人絹染色への進出によって、染色・再整部門はある意味で副業の域を脱し、個性ある染色加工場として自立したということができる。
 日本クロスの染色加工は、〈人絹の日本クロス〉といわれるほど注目された。特殊な織物製品に着目して、加工技術を開発するのが日本クロスの一貫した姿勢であった。それゆえ染色業界に過当競争の時代が訪れても、ほとんど影響を受けることがなかった。小規模ながら独自の技術力で勝負する。それが日本クロスの染色・再整部門の経営方針であった。
 大正末期から昭和初期にかけて、中国・朝鮮向けの輸出、さらにはオーストラリア・インド向けの輸出が活発となり、加工部門は第2期黄金時代を迎えるのである。
 地場産業から脱皮するきっかけは、東洋加工棉業との取引によるものであった。中国向け輸出の大手商社・東洋加工綿業との取引によって、京都中心から大阪へと商圏がひろがり、さらに輸出向け人絹織物の染色によって発展の道がひらけたのである。


円本ブーム

 国産のクロス製品は震災需要によって、とりあえず国内市場で認知されたが、名実ともにヨーロッパ製品と肩をならべるのは、大正末期から昭和の初めにかけてであった。おりからやってきた「円本ブーム」が、一般書籍の装帳用クロスの開発を促したのである。教科書用クロスで活路をひらいた日本クロスは、この円本ブームで飛躍の第2ステップを迎える。
 円本ブームは1926年(大正15)ごろから、1929年(昭和4)後半まで、およそ4年間もつづいた。先頭をきったのは改造社の『現代日本文学全集』である。
 改造社が『現代日本文学全集』の刊行を決めたのは、ひとえに不況対策のためであった。当時の出版界は1920年(大正9)から慢性不況に陥っていた。わずかに雑誌の好調に支えられていたが、大正末期にはとうとう行き詰まってしまった。「中央公論」とならぶ総合誌として人気のあった改造社の「改造」も売れ行きがにぶり、さらに単行本も不振に陥ってしまった。改造社はこの苦難を乗りきるために、廉価版の全集刊行に社運をかけたのである。
『現代日本文学全集』の企画は、大正から昭和へと改元される直前の1926年(大正15)11月に発表されている。当初の企画内容は全38巻(のち63巻に増刊)、菊判約500ページ、稔ルビつき6号活字(写植11級に相当)3段組で、並製本(厚表紙装)は定価1円、特製本〈天金、総クロス製、金文字入り〉は1円40銭であった。
 新聞広告により予約金1円で予約会員を募集、毎月1回配本するというのは、新しい販売方式であった。当時の流行語〈円タク〉に因んで〈円本ブーム〉と呼ばれた。
 円本の特徴は、それまで1冊70銭から80銭ぐらいだった単行本10冊分を1冊に収録して超廉価版にしたことである。いわば文芸書1冊にひとしい価格で全集1冊が購入できたわけである。改造社は当初3万部ぐらいを想定していたらしいが、最終的に予約部数はおよそ40〜50万部にもおよんだという。
 改造社の『現代日本文学全集』の成功は、出版各社に大きな影響をおよぼした。1927年(昭和2)3月には、新潮社の『世界文学全集』(全38巻、のち57巻に増刊)がスタート、予約申し込みは48万にも達した。さらに平凡社の『現代大衆文学全集』(全36巻)は、100万の読者を獲得するという人気だった。ほかにも岩波書店、春秋社、春陽堂、研究社、中央公論社、小学館、講談社などでも円本企画が続出、1930年(昭和5)ごろまでに、約300あまりにのぼった。


本づくりに大革命

 円本も末期になると金融恐慌のため売れ行きが悪化、返品が急増して、安値で買いたたかれた。残本処理のありかたは残酷そのものだったが、円本が出版界にもたらした功績は計りしれないものがあった。出版部数が1,000部から2,000部という時代に、何十万という発行部数を記録したことは、出版史上画期的な現象だつた。
 量産による低価格化を実現、書籍の民主化、大型全集、叢書といった新分野の開拓など、円本の意義はさまざまに指摘されているが、円本の出現は印刷・製本など一連の関連業界にも一大革命をもたらした。
 円本ブームは造本技術を飛躍的に進歩させた。1万部も出れば大ベストセラートといわれた当時、何十万という単位の仕事が4〜5年もつづいたのである。印刷・製本工場は、発想を転換して大量生産に対応できるよう設備改善に取り組まねばならなくなった。製版・印刷技術の改良が急速に進み、高速輪転機が導入された。製本関係も機械化が進んだ。紙折機が導入され、糸かがり、丸味出し、パッキングなどの工程も機械化されるなど、合理化が促進された。『東京製本組合五十年』は、円本ブームについて次のように記載している。


 安かろう悪かろうだが、それでも印刷も製本も最初思ったほど悪くなく、数が多くて定期的に出るので、立派に採算がとれるようになり、少しでも手をはぷいて機械でやる、能率を上げる工夫をする。何だかやで此の間に、機械も進歩したし、製本技術上の改善も行われた。
 このためにクロースなどの装板材科の国産的優良化と製本機械化の今日の素地は、そのころ出来たと云えるし、表紙貼や箔押しの分業化がはじまったのである。
 とにかく、製本界は、このときに画期的変革がもたらされたものであり、普通版と高級版的な製本分化も、このときからであったと云えよう。


朱色のクロス

 円本の元祖ともいうべき改造社の『現代日本文学全集』の表紙は朱色の布クロス貼りだったが、これには日本クロスのブッククロスが使用されている。
 同全集には並製と特製の2種類があった。当初の企画では、特製にかぎつて日本クロスのブッククロスを使用する予定だったらしい。事実、刊行が始まったころ、並製は「紙装」、特製のみ「布クロス装」だったのである。並製は第6巻まで紙装であった。7巻以降は、並製も布クロス装になり、すべてに日本クロス製品が採用されるようになった。
 同全集は当初の計画では38巻だったが、最終的には63巻まで増刊されている。そのうち57巻の装頓に、日本クロスのブッククロスが使われたことになる。
 日本クロスにとっては、創業以来経験したことのない大量受注であった。工場は昼夜連続の24時間フル操業であった。工場内がクロスの塗料で真っ赤になってしまった……というエピソードが現在も語り継がれている。
 改造社の『現代日本文学全集』のほかでは、やはり第1弾の円本である春陽堂の『明治大正文学全集』など数種の全集にも日本クロスの布クロスが採用された。
 円本ブームによって、日本クロスのブッククロスは出版業界で高く評価され、全集をはじめ一般書籍にも幅広く使用されるようになってゆくのである。
 出版・印刷業界を巻きこみ、造本技術のすべてを改革した円本ブームは、当然のように日本クロスの生産システムにも大きな影響をおよぼし、工場の生産システムそのものを根本的に変えてしまった。社内で〈連結〉と呼ばれている日本クロス独自の連続塗装システムは、円本ブームがきっかけとなつて開発されたのである。
 円本ブームで日本クロスの生産量は急伸した。1927年(昭和2)には、302万9,000平方ヤードと、前年にくらべて55%も増加している。200万を上下していたレベルから一気に300万を突破したのである。ようやく創業当初からの目標であった〈本業クロス〉が確立したということができる。

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