新工場の建設

不況下で好業績
 昭和(1926年12月25日改元)という時代は、日本経済が一転して失速するなかで始まった。1927年(昭和2)3月に始まる世界に類を見ない金融恐慌は、ひとえに経済体質の脆弱さによるものであった。原因のひとつに、震災手形の処理問題がからんでいた。1923年(大正12)の関東大震災で壊滅的な打撃を受けた日本の産業界を救うため、政府が最終的に責任を負うとされる〈震災手形〉が大量に出回っていた。いわば日銀が保証した融通手形である。1924年(大正13)3月には4億3,000万円、昭和元年になっても約2億円が未決済のまま残っていたのである。国会で震災手形をかかえた銀行の経営内容が明らかにされて、社会不安が一気に高まった。
 1927年(昭和2)になって政府は、きびしい法規制に乗りだし、3月に新しい銀行法を公布した。法に定めた基準をクリアできない銀行は、5年以内に増資、合併しなければならないという内容であった。こういう一連の動きのなかで、震災手形をかかえて、経営上問題があると思われる銀行に預金者が殺到したのである。預金を引き出そうとする〈取り付け騒ぎ〉が頻発、休業・閉店する銀行が続出したのである。
 三井、三菱をしのぐとまでいわれていた新興財閥の鈴木商店は、そのあおりを喰って倒産に追いこまれた。大口の震災手形を抱えていたメインバンクの台湾銀行に融資を打ち切られたからである。貿易業から出発して製糖、製油、製鋼、人絹などにも手をひろげ、重化学工業を中心に多方面の産業分野に進出していただけに、鈴木商店の倒産は経済界に大きな衝撃をあたえた。 
 昭和の金融恐慌は、モラトリアムの実施と応急立法によって終息に向かったが、中小企業に大きな打撃をあたえた。中小企業は休業や操業短縮を強いられたうえ、銀行の貸出引き締めで融資が規制されるというダブルパンチを受けたのである。
 紡績業をはじめとする繊維産業は、大幅な操業短縮に向かった。絹糸、人絹などは不況カルテルを結成して、生産の制限と価格の維持につとめた。こうしたなかで中小企業の倒産が相次ぎ、社会問題にまで発展した。
 日本クロスも繊維関連の産業であったが、不況の影響はほとんどなかった。社会一般が不景気にあえいでいるなかで、むしろ創業以来の好況がつづいていた。円本ブームでクロス部門は増収増益、染色・再整部門も人絹織物の染色・再整の好調がつづいていた。本業、副業とも工場ではフル操業がつづいていた。
 1928年(昭和3)ごろになると、日本クロスの従業員は200人を超えていた。クロス工場、染色・再整工場とも生産規模が増大、もはや西陣の片隅にある一条工場では対応できなくなっていた。工場の増設が急がれたが、一条油小路のあたりは住宅密集地である。増設や拡張はほとんど望めなかった。そのため新工場の用地探しを、1928年(昭和3)の年頭から進めることになった。


天神川工場

 京都市・西京極(当時は京都府葛野郡西京極村字川勝寺小字宮ノ東)の土地約3,000坪を工場用地として買収したのは1928年(昭和3)4月であった。価格は19万5,000円である。京都工場のあった〈宮ノ東町〉や〈大門町〉のあたりは、当時は広大な農地で、1931年(昭和6)までは京都市に編入されることもなく京都府下に属していた。
 工場用地として最終的に西京極宮ノ東を選んだのは、その一帯の水質がすぐれていたからだった。当時、京都市の主な晒工場7社のうち6社までが、その付近に集中していたのも、すぐれた水質の地下水にめぐまれていたからだった。
 天神川工場と名付けて新設する工場はあくまで染色・再整工場にあてる予定だった。工場完成後、染・再整部門を全面移転して分工場とする。一条工場は改築してクロス工場にするというのが当初の構想だった。
 工場建設は用地買収と同時に始まり、1928年(昭和3)11月に500坪の新工場が完成した。ただちに染色・再整部門を移転したが、一条工場をクロス専用工場にするという構想は、まもなく再検討しなければならなくなった。同年12月6日、一条工場で原因不明の火災が発生したためである。午後11時ごろ、生地倉庫あたりから火の手があがり、生地倉庫と本社事務所を全焼、翌朝の午前3時になってようやく鎮火した。
 工場の一部も焼失し、設備の被害が心配されたが、幸いにしてほとんど損害はなかった。焼失した工場は移転のすんだ旧染色・再整工場で、クロス工場はほとんど無傷のままだったから、操業にはあまり影響がなかった。
 火災を契機にして、一条と天神川の両工場、本社事務所を含めて会社の機能を集中することが検討され、その結果、天神川工場に700坪のクロス工場を建築して、事務所も含めて全面移転することになった。


新工場で創立10周年

 クロス工場の建設は1927年(昭和4)2月に着手した。5月8日に上棟式をあげ、7月に落成すると同時に一部操業を開始している。機械設備の移転は3ヶ月かけて行い、10月に完了した。工場の移転と同時に本社事務所も天神川工場に移した。
 天神川工場への移転によって、日本クロスは創業期の企業基盤を確固たるものにして、飛躍の第2ステップを迎えるのである。日本クロスは円本ブームによって業績は好調であったが、日本経済はまだまだ金融恐慌による不景気がつづいていた。結果的に見て、そうした状況にもかかわらず新工場を建設したことはきわめて時宜を得た経営判断であった。建設計画が1年おくれていたら、全面移転は大幅におくれていただろうと推測される。1930年(昭和5)からの昭和恐慌によって、日本クロスも業績の低迷がつづき、工場建設どころではなくなっていたにちがいないからである。
 天神川工場の敷地総面積は、一条工場の約2.2倍に相当する3,257坪、第1工場(染・再整工場)は550坪、第2工場(クロス工場)は700坪であった。
 クロス工場の建設に着手した1929年(昭和4)は、創立10周年にあたる記念の年であった。8月18日が創立記念日だったが、祝賀式は11月まで延期した。社運をかけたクロス工場は完成したものの、設備移転が完了していなかったからである。設備移転がすべて終わって、新工場が全面操業を開始したのは11月になってからである。
 創立記念式典は天神川工場竣工祝賀式をかねて、11月12日に開いたが、この時の従業員数は230人であった。

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