国産第1号クロスの完成

ブック・バインディング・クロス
 ブッククロスあるいは単にクロスと呼ばれる「クロス」とは書籍装幀用の一素材である。正式にはブック・バインディング・クロス(Book Binding Cloth)といい、もとは「布」ベースのものから始まっている。現在ではクロスといえば「紙」「ビニール」をベースにしたものも含まれるが、もともとは「Cloth」とあるように「布」が主流だったのである。
 ブッククロスは19世紀の初め、書籍出版の先進国イギリスで発明されている。クロスが登場するまで、書籍の表紙は山羊革(モロッコ革)、羊革、仔牛革(カーフ)などをなめしたものでくるんでいた。ビロードや絹布、帆布なども一部で使用されていたが、あくまで革の代用であった。
 ブッククロスの発明を促進したのは、18世紀の半ばから始まった産業革命である。蒸気機関の登場は、あらゆる分野で機械の発明を促した。紙もパルプの機械すきによって大量生産できるようになり、印刷、製本も機械化されてゆく。書籍のコストダウンと大量生産によって需要もますます増大傾向をたどった。もはや革装幀では対応できなくなって、革に代わる新しい素材が求められるようになった。
 麻や木綿の布地に澱粉を塗って着色したクロスが生まれたのは1820年代である。ベースに織物が使われたのは、当時イギリスで紡績、織布の機械化が進み、量産が可能になっていたからである。クロスで表紙全体をくるみ、金の箔押しをする方式が生まれたのは1830年ごろだといわれている。
 クロスは装幀用の素材だから強度にもすぐれていなければならない。そのために麻織物、厚手の綿織物が使用された。たとえばカンバス、バクラム、カンブリック、ベラムなどという呼び名も、もともとはイギリスで使用されていた織物、あるいは織物仕上法の名称だったのである。
 日本クロスが創立されたころ、イギリスのウィンターボトム社、ドイツのヤコビ社、アメリカのバンクロフト社が世界の3大メーカーにあげられていた。なかでもイギリスのウィンターボトム社は世界各国にブッククロスを輸出、トップメーカーの地位にあった。日本市場も同社の製品がほとんどを占めていた。


国産第1号・梅クロス

 輸入品の最大の弱点は、欧米諸国と日本の気候風土のちがいに根ざしていた。湿度の高い日本では、製本の糊付けの剥脱、表紙の膨張・弛緩、あるいはカビの発生など多くの欠点があった。耐湿性の問題は原材料に原因があった。現在、クロスに使用される塗料は合成樹脂が中心だが、当時は澱粉、蛋白が主流だったためである。
 クロスの国産化の実現は耐湿性にすぐれた製品づくりを意味していた。塗料の改善、塗装機の開発が最大の技術的テーマであった。創立されたばかりの日本クロスでは、創業者の坂部三次を中心に、汗と油にまみれ、顔や手を塗料で染めながら研究をつづけたのである。
 欧米の製造法では、すぐにカビたり虫がついたりする。原因は澱粉の量に関係がある。防止には蝋を添加すればいい。しかし、適量でなければ、装幀作業時にクロスがくっつかない。塗料の改善工夫、精練、漂白、布染の加工研究、諸原料の選定、糊付け、幅出し、艶出し、乾燥、とあらゆる観点から研究を重ね、一つひとつクリアしていったのである。
 操業開始後、最初に生産した布クロスは「梅クロス」であった。全幅に澱粉塗料をコーティングしただけの〈型なしクロス〉である。当時は布クロス用のエンボスロールが開発されておらず、型出しができなかったのである。国産第1号クロスとしてテストセールを開始したが、まだまだ満足できるものではなかった。
 生産設備は1920年(大正9)前後から少しずつ充実されている。ハーボルト弾圧ローラーを井田彫刻から導入、型出しもできるようになった。黒一色の雲型のみだったが、これによって本格的に国定教科書向けクロスの製造ができるようになった。当時の製品規格は42インチ幅×23ヤードであった。教科書用に使用されていたクロスは、テープ状で4〜5センチ幅であった。
 黒クロスにつづいて、裏貼りクロス(寒冷紗)の国産化に着手している。海外から輸入されるクロス製品のうち、裏貼りクロスは生地の占める割合が高く、輸送コストがかさんで、海外の業者は採算性に苦しんでいた。そこに着眼してさっそく国産化に取り組み、計画生産によって輸入品の価格の3分の1で製品化できるようになった。さっそく文部省と交渉、教科書用に採用された。
 操業を開始してまもないころ、クロス工場は一条工場にあって、主な設備は塗装機2台と型出機3台、ダンピング機、巻取機で構成されていた。輸入機械設備である4本ロールが設置されたのは、操業2年後の1921年(大正10)ごろだった。機械の動力となるモーターは50馬力のものが一機、シャフト、ベルトを連結することによってすべての機械を作動させていた。


独自の生産システム

 ブック・バインディング・クロスの専業メーカーをめざして出発した日本クロスの創業時の目標は、輸入製品を名実ともに上回ることであった。創業後10年間というものは、クロス創りの技術開発、さらには工業生産システムの開発に費やした。創業者の坂部三次自らが先頭に立って、基本技術の完成に全力をそそいだ。布クロスだけではなく、すでに紙クロスの研究も手さぐりで進めていた。
 ビスコースクロス製造法、両面塗装装置、ドクター塗装装置の発明は、当時としては世界の最先端をゆく技術、システム開発であった。
 ビスコースクロス製造法(1923年4月に特許取得)は、繊維素塗料によるクロスの製造技術であった。ビスコースクロスとは、布または紙の基布にアルカリ繊維素(パルプを苛性ソーダーで処理したもの)とアルカリ澱粉(澱粉を苛性ソーダーで処理したもの)を混合したものを、二硫化炭素で溶解させてコーティングする方式である。この溶液をビスコースと呼んでいたのである。適度のグリセリンを加えることで染色も容易になり、黒一色からカラフルなクロスが生産できるようになった。
 ビスコースクロス製造法によるクロスは光沢があり、生地の硬化、色の剥脱、ヒビ割れがなくなり、折目がつくこともなくなった。とくに織地の美しさがそのまま生かされるところに、大きな特徴があった。最大の課題であった耐湿性の問題も解決、堅牢度でも輸入品をはるかにしのいでいた。クロス製品に「ダイヤモンド」の商標が使われるようになったのは、このころからである。
 同製造法の発明によって、1924年(大正13)、日本クロスの生産量は輸入量と肩をならべ、翌1925年(大正14)には、ついに比率を逆転するのである。
 両面塗装装置(1931年7月、実用新案登録)とドクター塗装装置(同年8月、実用新案登録)は、品質の均一性、量産、コストダウンを可能にする生産設備であった。 クロス製品は完成するまでに何回か塗料をコーティングしなければならない。たとえば表3回、裏2回、コーティングしなければならないとすると、それまでの単一乾燥設備では、1回ごとに乾燥、巻き取りをしなければならなかった。そこで、両面塗装装置、ドクター塗装装置という生産性の高いコーティングのヘッド部分を開発、それらを数組接続させた。各装置の中間に乾燥ドラムを設置、最後に数個の乾燥ドラムおよび巻取ロールを付設して連続装置としたのである。
〈連結〉と呼ばれたこの連続塗装装置によって、量産と製品の均一性を同時に解決することができた。当時、クロスの先進国であるイギリスやドイツにも例のない革命的な生産システムであった。

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