戦時下に事業拡大

経済統制の時代
 日本経済が昭和恐慌にともなう不況から脱するのは、皮肉にも昭和6年(1931)に始まる満州事変のころからだった。財政はふくれあがり、巨額の軍事費が計上され、いわゆる軍需ブームが起こったのである。危機的状態にあった日本経済は少しずつ回復に転じるのだが、それは同時に昭和史のなかで最も暗い時代の始まりでもあった。
 戦時の影が国民の生活にも表れてくるのは1937年(昭和12)ごろからである。経済動向も、戦争に大きく影響されるようになっていった。軍需と密接な重化学工業だけでなく、日本クロスのような平時産業ですら、国家や政府の動向で業績までもが左右されるようになった。
 日中戦争の始める1937年(昭和12)7月ごろから、国内は完全に戦時体制に突入した。軍需生産が優先され、経営資源のすべてが国家の統制下におかれるようになった。1938年(昭和13)4月には国家総動員法が公布され、国力を総動員できるひろい権限が政府にゆだねられた。その対象は物資、生産、金融、会社経理、物価、企業施設、労務など経済活動のすべてにおよんだ。この法律が施行された5月から、さまざまな統制法が次つぎに制定され、経済統制が急速に進められていった。
 重要物資は軍需、官需、輸出需要、民需に区分して配分された。軍需が最優先され、輸出もあくまで海外から軍需物資を購入するための手段であった。あらゆる分野にわたって民需はきびしく規制された。たとえば1938年(昭和13)6月から始まった綿製品の製造・販売禁止によって、国民生活は大きな制約を受けるようになった。綿製品はすべて輸出にまわされ、代用品としてスフが登場してきた。
 国家によるきびしい統制により、繊維産業をはじめとする平時産業は存続すらむずかしくなってゆく。とくに国民生活と密接な繊維、食品工業などは原材料の割り当て、金融、労務面できびしく締めつけられた。


輸出と軍需、官需

 繊維の2次加工メーカーである日本クロスも例外ではなかった。原材料の綿布類の入手が制限されるなど、統制によって企業活動にきびしい制限が加えられたが、業績は逆に1935年(昭和10)ごろから上昇に転じてゆく。1935年(昭和10)の売上高を100とすると、1940年(昭和15)は268、5年間で約2・7倍にふくれあがった。とくに1938年(昭和13)から1940年(昭和15)にかけては、約35%という高い成長率を記録しているのである。
 物資統制時代にあって、むしろ業績を伸ばすことができたのは輸出、軍需、官需の活発化によるものであった。クロス製品は国定教科書用クロスが堅調で、さらに新製品のトレーシングクロスの需要も飛躍的に伸びている。輸出もいぜんとして好調に推移し、東南アジアやインド向けクロス輸出が活発化している。染色・再整部門も1934年(昭和9)ごろから、再び輸出織物の加工が活発になった。中国、朝鮮への人絹織物の輸出が急増、新しくオーストラリア、インド輸出も加わって輸出織物加工の全盛時代を迎えるのである。
 輸出や官需・軍需向けの製品には原材料の割り当てがあったが、民需については逼迫がいちじるしく、代替原料の研究や製品化の技術が大きなテーマになっていた。
 戦時というきびしい時代にもかかわらず、日本クロスに関しては生産スケールを縮小することがなかった。おりからの好業績を背景にして、新工場の建設、生産設備の増強など、むしろこの時代に積極的な経営が展開されたのだった。


社運をかけた新事業

 1937年(昭和12)5月に倍額増資を行い、新資本金は100万円になった。油布生産という新事業に進出するために、多額の設備投資が必要となったからである。
 油布事業の投資総額は増資額の約6割にのぼる29万円であった。その内訳は製造機械購入費9万円、工場建物建設費10万円、染色工場移転費10万円であった。当時の資本金が50万円、1カ月の売上高が平均21万円という時代に29万円の設備投資を実施しようというのだから、まさに社運をかけた大事業だった。
 油布(オイルクロス、オイルシルク)は、ビニール製品の先駆となる製品であった。当時レインコートやテーブルクロスなどの新素材として注目され、日本市場にも大量に出まわっていたこの油布製品が、ほとんどアメリカ製で占められていたところから、国産化をめざしたのである。
 油布の国産化を決定した1936年(昭和11)8月、専務の坂部三次はただちに欧米の市場視察に出発している。現地調査の結果、最終的にドイツのドレスデンにあるケービッヒ社の設備機械を導入することになった。油布製品の製造技術の研究は、村中晃に命じられている。1937年(昭和12)5月、ドイツに向かった村中は、ベルリンで実質3カ月にわたって油布生産技術の研修を受け、その年の秋に帰国した。
 油布の生産技術は1937年(昭和12)12月に確立され、海外からの導入技術をベースにした新しいクロス製品を生産することになった。オイルクロス、オイルシルクは、国内市場だけでなく海外でも大ヒット、輸出の主力商品にもなって、太平洋戦争が始まるまでフル生産がつづいた。


京都東工場、油布工場の新設

 新しく染色工場となった京都東工場は、油布工場建設にともなう天神川本社工場(京都西工場)の再編成によって誕生した。
 油布の生産は油性塗料を使用するため工場は消防法の適用対象になった。そのため鉄筋の耐火構造の建物を新しく建設しなければならなくなった。立地を検討した結果、本社工場の染色・再整工場の周辺が最適と判断された。そこで新しく東工場を新設して染工部を全面移転し、その跡地に500坪の規模で油布工場を建設することになったのである。
 東工場となるべき用地の買収は、すでに1937年(昭和12)から始まっていた。
同年2月に右京区西京極三反田町3番地〜6番地の1,489坪を買収し、さらに1938年(昭和13)3月には同7番地の523坪、1939年(昭和14)10月には西京極東町45番地の630坪を買収した。
 東工場の建設は1937年(昭和12)12月に始まり、翌1938年(昭和13)の4月に完成した。当時、工場建物棟の新築については200坪が最大規模と決められていたため、188坪の工場を6棟つらねるかたちになった。東工場は1938年(昭和13)4月5日に試運転を行い、7日から一部操業を開始した。
 新しい染色工場には、ドイツ製の電熱乾燥機など新鋭設備を導入した。それらは神戸港に陸揚げされたあと、京都までは貨車による陸送を予定していたが機械が巨大すぎてトンネルを通過するときに一部が天井につかえてしまった。そこで鉄道省に交渉して貨車のシャーシーを低くしてもらった。
 油布工場はもとの染工場の跡地(敷地約500坪)に順次建設し、1938年(昭和13)夏から稼動している。生産が軌道に乗るにつれ設備を増設し、1940年(昭和15)には500坪すべてを油布工場とした。
 染色工場は油布工場建設のあおりをくらって、天神川の対岸に追いやられたといえる。しかし結果的には西工場の一角から独立して、染色加工部門だけの単独工場ができあがった。染色・再整部門がまるで別会社のようなかたちで存在しえたことが、後になって重要な意味をもつことになる。
 国家総動員法にもとづく企業整備令が実施されたのは、東工場を建設してから四年後だった。「織物加工業者に関する整備統合令」によって、京都の染色加工業は再編・整備を強いられ、一定の規模に満たない業者は1社では存立できなくなり、すべて整理統合の対象になった。幸いにして、4年前に新設した日本クロスの東工場は、染色業の単独工場として基準をクリアしていたために、統合企業の母体になることができた。
 1942年(昭和17)、5社の染色工場が統合されて開南染工化学株式会社が発足する。そのとき日本クロスが新会社の主導権をにぎることができたのは、5社のなかで日本クロスの東工場のみが中核工場になる基準に達していたからである。もし西工場内の1部門というかたちのままだったら、染工部門の戦後はなかったかもしれないのである。


創立20周年を迎える

 1939年(昭和14)8月18日、日本クロスは創立20周年を迎えた。当時は日中戦争のさなか、さらに翌9月からは第2次世界大戦に突入するのだから、日本全体が戦時体制に組みこまれてゆく緊迫した時代であった。
 経済統制の時代にあって、とくに繊維関連産業はいずれも打撃が大きかったが、円本ブーム以来の好況を迎えていた。それは官需(教科書クロス)、軍需(トレーシングクロス)の堅調、さらに国策による輸出の増大によるものであった。
 当時の日本クロスの製品は、ヨーロッパ製品を完全に国内市場から駆逐する一方、アジア市場にも積極的に進出していた。国産品の使用奨励という政策の恩恵を受け、さらに戦時で撤退したヨーロッパ勢力の間隙をついた結果にすぎないという側面があるとはいえ、ともかく創立20年にして日本クロスはようやく社礎を確立したのであった。
 創立者・坂部三次は『日本クロス工業株式会社20周年史』の序文で、「即ち過去二十年は、欧米先進国と同一水準にまで達したいといふことが、言はず語らずの念願でありました」と述べて、現状をひとまず評価するとともに、「しかしながら将来の一年は、断じて模倣でも追従でもなく、実に世界に誇るべき独創であり、世界市場に対する克服でなければなりませぬ」と、ヨーロッパ製品のレベルには、まだまだ距離があることを率直に語っている。
 創立20周年の記念式は、1939年(昭和14)8月18日に執り行った。当日は坂部三次専務以下全従業員がそろって松尾大社まで行進、参拝して帰ってきただけというから、ささやかなものであった。好業績つづきにもかかわらず記念行事もなかったのは、やはり戦時のせいで自粛したためである。社員のなかに出征していたものもいて、記念式では武運長久を祈願した。
 創立20周年当時の日本クロスは資本金100万円、売上高360万円(年間)、従業員数458人であった。経営陣は次のとおりである。

取締役専務   坂部 三次
取締役常務   藤永 太一
取  締  役   井村健次郎
  山田留治郎
  須 佐   敢
  石丸憲次郎
  渡部 一郎
監 査 役   山本 留次
亀井亮治郎
磯村 増雄


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