工業家の姿勢を貫く

戦後の出発
 第2次世界大戦は1945年(昭和20)8月15日に終結、国民はやっと長くつづいた戦争の不安や国土の破壊から解放されたが、廃墟と窮乏の底から、きびしい生存の闘いに立ちあがらねばならなかった。
 焦土と化した日本には、家屋を失っただけでなく、着るもの、食べるもの、働く場まで失った人たちが街にあふれていた。浮浪者や浮浪児もかなりの数にのぼり、復員した兵隊や海外からの引揚者も行き場を失って途方にくれていた。
 戦後の日本経済は厳しいインフレとの闘いからスタートした。終戦にともなう財政支出の膨張で通貨が氾濫、深刻な食糧・生活物資不足、つまりカネとモノの著しい不均衡によって、戦後のインフレはとどまるところがなく、「1千万人餓死説」がささやかれるほど国民生活を危うくしていた。
 経済安定本部の調査によると、敗戦時の被害率は総資産額25%、工業機械・工具34%、船舶82%におよんでいた。生産力の減退はますます高まってゆくという絶望的な状態から、日本経済は復興に向かって出発したのだった。
 敗戦国日本は連合国最高司令官マッカーサーによるGHQ(連合国総司令部)の占領統治体制に組みこまれた。日本の立法・司法・行政の全権はGHQに委ねられ、日本政府を間接的に統治するという体制をとった。非軍事化、民主化が占領政策の2大目標に掲げられ、財閥解体、農地改革、労働運動の民主化、民主教育の実施など、社会制度全般にわたる大改革が進められたのだった。
 インフレと縮小再生産が進むという最悪状態のなかで、国家をあげての経済再建が始まった。1946年(昭和21)8月、政府は経済を統合する総合官庁として経済安定本部を設置した。総裁は総理大臣、総務長官は国務大臣が兼任、局長には民間の有識者、次長にはベテラン官僚を登用するという国をあげての強力な体制だった。経済安定本部には、公共事業の編成権、経済統制、隠匿物資の摘発などの権限が与えられ、「泣く子も黙る安本」とまでいわれた。物資、資金、貿易、輸出などあらゆる面にわたって経済統制が行われ、生産復興とインフレの抑制という当面の課題にこたえようとした。
 1949年(昭和24)になると、アメリカとソビエトの冷戦が現実化して、GHQの対日経済政策は大きく転換される。非軍事化から早期再建、自立経済の促進が新しいテーマに掲げられた。経済安定9原則、ドッジラインによる財政再建、金融の引締め政策が展開されるのだが、体力がまだ十分に回復していなかった日本経済にデフレ不況をもたらしてしまうのである。日本クロスが創立30周年を迎える1949年(昭和24)ごろになっても、復興への道のりはまだまだ険しかった。


モノづくりで復興に貢献

 京都は幸いにも戦禍をまぬかれたが、産業界はほとんど壊滅状態であった。織物・染色工業は生産設備を軍需工業に奪われ、存立の基盤すら失っていた。ゼロからというよりもマイナスからの出発であった。
 同じ繊維関連産業でありながら、日本クロスの立ち上がりは、きわめて順調であった。戦災をまぬかれただけでなく、企業整備の対象にもならなかった。むしろ戦時中に機械設備の改良が進められ、無傷で残った生産設備をもって、いつからでも生産活動を再開できる状態にあった。
 戦時中にもかかわらず日本クロスの工場がフル稼動をつづけられたのは、特殊な塗装布メーカーだったからである。教科書用ブッククロス、輸出用クロス、軍関係のブッククロスやトレーシングクロス、民需用の代用品資材、そして終戦直前の風船爆弾のベース生産……。幸いにして操業工場として生きのびることができた。戦時中に温存した生産力と技術力が、戦後の立ち上がりをスピードアップしたのである。
 モノをつくって日本の復興に貢献しよう……というのが、生産を再開した日本クロスの経営姿勢だった。生活物資がことごとく不足していた終戦直後、モノさえあれば儲かる時代だった。モノを生産するよりも、何もしないほうが利益をあげることができた。とくにクロスの原材料である綿布や澱粉は貴重な物資だった。何の手も加えずに、原材料のまま横流しするほうが効率がよかった。けれども日本クロスは創業者の強い意思により、〈モノをつくる〉という創業の精神を忠実にまもり、あくまで工業家としての姿勢を貫いたのだった。
 生産の中心は教科書用クロスと輸出用クロスであった。教科書は表紙だけでも耐久性のあるものにしたいと考えた。輸出の増大は外貨獲得に結びつく。〈モノづくり〉こそが日本の経済復興をもたらすことができると信じて疑うことがなかったのである。


本業に徹する

 戦後の1946年(昭和21)から1950年(昭和25)にかけては、まだまだ物資統制の時代がつづき、綿布、澱粉、顔料などの原材料、石炭をはじめとするエネルギー源の入手はきわめて困難な状況にあった。生産活動は原材料、資材をいかに確保するかにかかっていた。
 ヤミルートによる物資が横行する世だったが、日本クロスはいっさいヤミ物資には手を出さなかった。あくまで正規ルートによる物資を公定価格で入手するという方針を貫いた。
 物資欠乏時代の1950年(昭和25)ごろまで、重要物資は割当制が採られ、生活必需品は配給であった。いずれもGHQのもとで経済安定本部が統括していた。物資割り当ての切符は商工省から発行されるが、経済安定本部の承認が前提になっていた。その経済安定本部を納得させるにはGHQの了解が必要であった。貿易用物資については貿易庁を通じて経済安定本部に働きかけなければならなかった。最終的にはGHQの意向がキイをにぎっていた。
 GHQの2大目標は、非軍事化と民主化であった。民主化教育を推進するために、学制改革をはじめ、教育全般の改革を指令していた。教科書も全面的な改訂が要求されていた。そういう背景から〈民主教育を実現するには、教科書が必要である。それには紙がいる。印刷インキがいる。そしてクロスがいる〉というような論法で、GHQを説得した。
 商工省から配給の切符をもらうまでが一苦労、せっかく切符をもらっても、実際に入手した物資の大半は粗悪品だったというケースもあった。澱粉などは精製すると半分になってしまった。
 燃料不足も深刻な問題であった。クロス工業会への石炭供給は、月当たりにしてわずか20トンである。そのうち日本クロスへの割り当ては2トンであった。だが、当時の日本クロスは輸出に力を入れ、輸出用クロスの大量成約などがあったときは、月当たり40トンの割り当てを受けたこともあった。当時の石炭は品質が粗悪で、燃えないものも含まれいた。
 ヤミには、いっさい手をださない。原材料は貴重な物資だから、生産以外には使わない。あくまで〈モノをつくる〉ことで日本の復興に貢献する……というのが、日本クロスの一貫した経営姿勢だった。


生産・販売の自主統制

 物資不足の時代に業界の健全な発展をめざすには、製品はあくまで必需品として使用されなくてはならなかった。当時はクロス製品の塗料を洗い落として、ワイシャツ地にされるというケースも現実にあった。製品が本来の用途に使用されているかどうか、供給者側としてはかなり不安があった。用途が不透明のクロス製品を放置しておくと、業界全体に混乱をまねく。メーカとしては、資材の濫買を自戒しつつ、商品の最終用途にまで関与できる販売機構をもって、自主統制に乗りだす必要があった。あくまで生産会社としての姿勢を貫くために、日本クロスも製品販売の自主統制に積極的に関与している。
 1946年(昭和21)3月、日和興業株式会社(資本金90万円 京都市下京区)が設立されている。同社は戦時中の統制機関であった中央塗装布統制会社が戦後になって解散すると同時に発足した自主的統制機能をもつ販売会社であった。1945年(昭和20)11月、中央塗装布統制会社が商工省の解散命令で清算され、代わって中央塗装布工業会が発足した。工業会は資材の斡旋、販売価格の協定、生産調整ぐらいの機能しかなく、統制会社のように生産から販売まで関与することはできなかった。日和興業は公的な統制機関ではなく、それゆえに法的な拘束力はもたなかったが、事態の防止と牽制をねらいにした自主的な統制機能をもつ販売会社として位置づけられた。
 日本クロスの〈日〉と大和クロスの〈和〉をとって、〈日和〉興業と命名され、両社の全商品は同社経由で販売された。社長には石丸憲次郎、専務には福山芳郎が就任、取締役には戦後復活した代理店の経営者クラスが名を連ねた。
 所期の目的を達した同社は1948年(昭和23)8月に解散したが、同地に三豊クロスの前身となる株式会社協福が設立された。

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