めぐまれた出発

3年連続の増資
 1946年(昭和21)から1952年(昭和27)までのモノ不足の時代は、〈造れば売れる〉時代であった。インフレ時代ではあったが、売上高は上昇一途をたどった。1947年(昭和22)から1949年(昭和24)にかけての売上高は毎年、前年度の約3倍になっている。前年対比で300パーセントも伸びた年度が3年間もつづいたのである。1950年(昭和25)と1951年(昭和26)も、売上高はそれぞれ約2倍(前年対比)に増えている。教科書クロスと輸出用クロスの急伸が飛躍の要因であった。
 売上高の規模拡大につれて、増資を急ピッチで進めた。1947年(昭和22)から3年連続で増資を行った。終戦当時の資本金は100万円だったが、1947年(昭和22)11月には300万円、1948年(昭和23)には1,000万円、1949年(昭和24)6月には3,500万円になっている。
 戦後の日本クロスは京都の本社工場だけで出発している。社内組織と呼べるようなものはなく、工場と事務所というように職場単位で区分されていた。〈造れば売れる〉時代を反映して、もっぱら生産活動が優先され、工場中心の簡素な体制がとられていた。
 工場はクロス部と油布部で構成していた。それぞれに部長をおいたが、工場長はおかなかった。課長や係長という職制もなかった。
 事務所はあくまで間接部門という位置づけだった。営業でさえ事務所の1機能にすぎなかった。支配人のもとに販売、資材、統制、会計というように機能別担当をおいていたが、明確な仕事の区分はなかった。戦後しばらくは販売面よりも、対官庁折衝にあたる統制事務や原材料調達の資材業務が、もっぱら事務所のなかで重要な役割を果たしていた。


東京出張所の開設

 1948年(昭和23)4月8日、神田一ッ橋の宮岡ビル(共立講堂の隣)に東京出張所が開設された。東京地区の販売については、戦前から総代理店の株式会社博進社内に駐在員を派遣していたが、将来的な見地から本格的な販売拠点が設けられたのである。
 1948年(昭和23)といえば、主要なビルは占領軍に接収されていた。あえて出張所開設に踏みきったのは、資材物資調達のために文部省や商工省など中央官庁との折衝が急務だったからである。さらには東京中心の営業強化というねらいもあった。東京は戦前からの主要市場だったが、戦時中の混乱期に出版社との関係が切れてしまっていた。主要出版社の業務再開を間近にひかえて、営業活動を強力に推進しなければならなかったのである。
 開設当初の人員構成は河村泰ほか3人であった。出張所はいわば日本クロスグループの出先機関であった。日本クロス工業東京出張所のほか、日和興業、大和クロス工業、九州クロス工業、開南染工化学など4社の東京出張所の看板も掲げられた。
 出張所の業務は、まず統制物資の調達事務であった。当時の生産・売上は、ひとえに原材料の入手いかんにかかっていた。クロスの用途を明らかにして、いかに国益上重要であるかという証明資料を作成、GHQや関係官庁の担当官を説得したうえで、物資の割当申請書を商工省に提出する。割り当てを受けた配給切符により商社と折衝、現物に替えるというのが主な業務内容であった。出版マーケットへのアプローチは、1949年(昭和24)ごろから本格化し、戦前からの主要なユーザーとの関係を復活させた。失われた関係を回復するのは、かんたんではなく、ほとんど一からの出発にひとしかった。3人で出発した東京出張所は、やがて5人の体制になるが、深夜、早朝を問わない多忙な毎日だったという。出版社、印刷所、製本所と良好な関係をつくりあげ、そこからユーザーのニーズにこたえる〈モノづくり〉をめざすというのが、東京出張所の基本姿勢だった。


教科書用クロスの増産

 戦時中にほとんど崩壊寸前まで追いこまれていた出版界は、戦後になっても苦難がつづいていた。言論・出版が自由になり、流通・販売の統制も解除されたが、深刻な用紙不足がネックになっていた。活字に飢えていた国民は、〈本〉と見れば何でもとびついた。
 仙花紙などという粗悪な用紙による雑誌や書籍が登場して、〈出せば売れる〉出版ブームが2年あまりもつづいた。カストリ雑誌ブームなどと呼ばれた出版ブームの仕掛人は、いずれも新興出版社であった。
 伝統ある大手出版社は、まだまだ開店休業状態がつづいていたのである。出版業界が本格的に復活するのは、用紙割当制が撤廃される1950年(昭和25)ごろからである。
 日本クロスの戦後は、教科書用クロスとブラインドクロスの生産で始まった。出版がまだ本格化しない当時の情勢にあって、書籍用クロスの需要はなく、教科書用、駐留軍用、官需用のクロスが中心であった。なかでも教科書用クロスは短期間に大量生産を要請された。
 戦後の文教政策はすべてGHQ内に設置された民間情報教育局(CIE)の指示のもとに実施されている。CIEは1945年(昭和20)10月、戦時の軍国主義、国家主義、国家神道などを学校教育から追放するよう指令を発している。地理・歴史・修身などの授業は停止され、文部省の国定教科書は使用できなくなった。
 1947年(昭和22)4月には、学校制度が改革され、6・3・3制となった。中学教育が義務制になり、入学生徒数は毎年200万人にのぼると想定された。校舎はもちろん教員、設備、教授用具、参考書から学用品にいたるまで、それに対応する準備が必要になった。とくに新しい教科書の供給が急務になった。全国600万人にのぼる中学生徒に改訂された新しい教科書が供給されなくては、戦後教育の新しいスタートはなかったのである。
 小学校用に加えて中学校用教科書クロスの需要をかかえて、戦後ただちに日本クロスの工場は増産体制を敷いている。3台になっていた連結塗装機をフル稼動させて、背貼り用クロスを製造した。当初はまだ人絹ベースの製品がほとんどだったから、工場現場は技術的な苦労が絶えなかった。


活発化する輸出

 戦後になって再開された輸出は、ブッククロス、ブラインドクロス、そして造花用クロスが中心であった。
 ブッククロスの仕向け地はタイ、パキスタン、インド、ベルギーなどが中心で、用途はコーラン、バイブル、仏教の経典などの表紙装幀であった。とくに1947年(昭和22)のインド輸出は大規模なもので、成約数量は数万本におよび、24時間のフル操業がつづいた。
 ブラインドクロスは戦後、駐留軍に採用されたこともあって、国内需要は急ピッチで回復したが、輸出も好調であった。とくにオーストラリア、ニュージーランドから大量受注した。量産可能な製品であるため、連結塗装機の威力がフルに発揮された。
 輸出促進による外貨獲得は、重要な国策のひとつであった。そのため輸出用クロスの資材については、GHQの特別許可により、国有の綿布が割り当てられた。当時、人絹ベースの国内向けクロスと区分する意味から、輸出用は国有綿クロスと呼ばれた。
 戦後の輸出で一時代を画したのは〈造花用クロス〉である。布帛製の造花は戦後まもないころから輸出雑貨のヒット商品として、香港、アメリカへ大量に出荷していた。もともと家内工業のかたちで生産されていた造花用のクロスは、品質、コストに問題があり、量産にも限界があった。日本クロスでは戦後まもないころから研究を始め、連結塗装機による量産システムをつくり上げていたのである。
 日本クロスの輸出用の造花クロスの生産は1949年(昭和24)から始まり、ピーク時は月産3万メートルに達した。布帛造花の輸出はプラスチック製の香港フラワーが登場するまでつづいた。

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