復興から成長へ

特需で景気好転
 GHQは1950年(昭和25)2月、日本の工業生産が戦前のレベルを回復したと発表した。現実に民間企業の立ち直りの兆しも現れてきた。第4次『経済白書』にも「昭和24年は終戦後の日本経済にとってまさに質的転換の年であった」とあり、経済安定9原則やドッジ・ラインによって、日本経済に復興の兆しが見えてきたことを述べている。
 たしかにドッジ・ラインによる財政・金融引締策によってインフレは終息、物価も安定して、経済的自立の基礎はできあがった。けれども一連の引締政策によっての日本経済は大不況につつまれてしまう。需要削減、金融逼迫、円高というトリプル・パンチによって、中小企業の倒産が続出した。現実に1949年(昭和24)6月以降、国鉄は10万人、電電は2万人の解雇を実施、東芝など民間の有力企業も大量の人員整理に乗りだしている。時の蔵相・池田勇人が1950年(昭和25)3月、「5人や10人の業者が倒産し、自殺してもやむをえない」とコメントするほどだった。また、この年には下山事件、三鷹事件、松川事件など不可解な事件がつづいて、社会的にも経済的にも暗く騒然としていた。
 事態を急転させたのは1950年(昭和25)6月25日の朝鮮戦争の勃発である。ドッジ・ラインによる過度の緊縮政策で需要不足に悩んでいた日本経済は、米軍特需の殺到でたちまち息を吹き返した。特需は1950年(昭和25)6月〜1953年(昭和28)6月の3年間におよび、年間3億〜4億ドル規模にのぼった。この米軍特需で日本経済は一気に好転、全産業をまきこんで復興に向かったのである。
 終戦から5年目にして経済復興を果たした日本は、1951年(昭和26)9月のサンフランシスコ講和条約で、国際社会の一員として独立が認められた。そしてGHQの管理をはなれ、主権国家として再出発することになった。


近代化と技術革新

 1956年(昭和31)刊行の『経済白書』(昭和30年度版)は「もはや〈戦後〉ではない」という有名な一節をもって、戦後の経済復興が完了したことを象徴的に語っている。
 朝鮮戦争をきっかけに復興の基盤をかためた日本経済は、事実、1955年(昭和30)ごろから本格的な成長期を迎えた。
「神武景気」は戦後初めての長期にわたる好景気であった。1955年(昭和30)なかばから1957年(昭和32)夏までおよそ2年間もつづいたのである。輸出ブームと国内消費の増大、技術革新をともなう設備投資の活発化が好況をもたらしたのである。とかく好況にはつきもののインフレをともなうこともなく物価は安定、1955年(昭和30)度の国際収支は5億ドルの黒字となった。好況、物価安定、国際収支の改善を同時に実現させ、「戦後最高」あるいは「有史以来」などという表現では物足りずに、いつしか「神武以来」といわれるようになった。
 経済の規模から見ると、実質国民総生産、実質個人消費はすでに1950年代初めに戦前の水準に達している。けれども最もよく経済水準を示す1人当たりの実質GNPは、1955年(昭和30)にようやく戦前のレベルを超え、それを象徴するかのように国民生活もテレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫のいわゆる〈3種の神器〉に代表される電化時代を迎えることになった。
 だが、国際競争力はまだまだ弱く、景気が過熱すると貿易赤字がふくらむという状態だった。その結果、金融引締策が実施されるのだが、それが裏目に出て不況に転落する危険性をつねにはらんでいた。
 たとえば1957年(昭和32)夏から1958年(昭和33)秋にかけての「なべ底不況」といわれた反動不況期がそのケースである。好況によって民間産業は生産拡大の投資に力を注いだが、原材料や高性能の生産設備は輸入にたよらねばならなかった。輸入の急増によって国際収支がにわかに悪化してしまった。政府は2度にわたって公定歩合を引き上げたが、そのために中小企業の倒産が続出したのである。
 なべ底不況の実態は、設備過剰による在庫の急増によってもたらされた内需不振だったが、政府は1958年(昭和33)6月から3回にわたる公定歩合の引き下げでこれを乗りきった。同年の後半になると国際収支の好転、生産の活発化などによって景気は急速に回復に向かった。そういう意味で「なべ底不況」は、いわゆる循環型の不況にすぎず、12カ月かけて底入れしたあと、〈神武景気〉を上回る大好況がやってくるのである。1958年(昭和33)10月からの〈岩戸景気〉は、日本経済の復興期からの離陸であると同時に〈高度成長期〉の幕あけでもあった。


消費革命の時代

 1956年(昭和31)刊行の『経済白書』は「もはや戦後ではない」という名セリフで〈戦後復興〉を宣するとともに、日本経済の将来についても展望している。今後の成長は近代化によって支えられる……と述べたうえで、「技術革新の波に乗って、日本の新しい国造りに出発することが当面の喫緊の必要事ではないであろうか」といっている。
 日本の経済発展のために「近代化」(生産・供給の合理化、効率化)と「技術革新」の2つを提案したのである。近代化は主として重化学工業を中心に進められた。高性能の生産設備が輸入され、一挙に先進工業国へと変貌をとげた。
 1950年代の前半にまかれた技術革新の種子は後半に花ひらき、多くの新技術・新産業が登場してきた。新しい産業の代表は原子力、石油化学、合成繊維、電子工業であった。
 合成繊維の生産高はすでにアメリカに次いで世界第2位を占め、石油化学各社は1957年(昭和32)秋ごろから、世界でもまだ本格的な生産体制をとっていないポリプロピレンの生産に乗りだしている。電子工業はトランジスタ、テレビやマイクロウェーブ多重通信装置を中心にして発展期を迎えようとしていた。原子力は三井、三菱、住友などが原子力発電をテーマに産業グループを形成しつつあった。
 既存産業では1950年代の後半から自動車産業が新しい動きを見せ始めていた。1957年(昭和32)当時、国産乗用車の生産台数はアメリカの600分の1にすぎなかった。価格的にも外車にくらべて3割高だったが、激しい生産・販売競争に耐えて業界としての発展が模索されてゆく。
 新産業が登場する一方、かつて基幹産業だった海運や石炭は不況産業に転落、産業地図は大きく塗りかえられていった。
 技術革新はほぼ全産業におよび、新しい技術がぞくぞくと新製品を生み出し、国民生活に革命をもたらした。
 衣食住の消費財のなかでは、とくに衣料品の変化がいちじるしかった。繊維の技術革新によって、ナイロン、ビニロン、レーヨンなどの化合繊が登場し、繊維産業の飛躍的な発展をもたらした。
 好況によって所得水準が向上するにつれて、国民の消費構造も変化していった。電気掃除機、電気冷蔵庫、電気掃除機など家庭電化製品が、量産によるコストダウンによって、爆発的に販売量を伸ばした。テレビ、ステレオの需要も伸び、余暇時間の増大とともに、レジャー消費も高まり、レジャー関連産業が成長産業としてひとつのジャンルを形成しつつあった。消費の側面からみた国民生活もまた1950年代後半に〈復興期〉から離陸を遂げたのであった。

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