活発な事業展開

株式上場
 昭和25年からの10年間は、ダイニック80年の歴史のなかでも右肩上がりに急成長をとげた時代であった。終戦後の素早い立ち上がりで企業基盤を確かなものとした復興期を経て、本格的な飛躍向上期を迎えたのである。
 1950年(昭和25)から1951年(昭和26)にかけての2年間は、売上高ベースでそれぞれ約2倍(前年対比)と急伸、その後も順調な足どりを印している。1953年(昭和28)には売上高10億円を突破、以降1955年(昭和30)まで、毎年約20%という高い伸び率を示している。
 好調な業績を背景にした増資と吸収合併によって資本金も急ピッチで拡大されていった。
 1950年(昭和25)8月に開南染工化学を吸収合併し、新資本金は6,000万円となった。染色加工部門がもとにもどって、企業規模が戦前に復したのを記念するかのように、日本クロスの株式は1952年(昭和26)、大証、京証の2市場に上場された。
 1952年(昭和27)には大和クロス工業を吸収合併、新資本金は6,300万円、1953年(昭和28)4月には早くも倍額増資を行って新資本金は1億3,000万円、1954年(昭和29)5月には九州クロス工業を合併、新資本金は1億4,000万円になった。さらに1955年(昭和30)8月にも倍額増資を実施し、新資本金は一気に2億8,000万円になった。造れば売れる時代とはいえ、この時期の日本クロスの足どりはきわめて順調であった。


クロスの総合メーカーへ

 日本クロスにとって1950年代の飛躍的な成長は、ひとえに新製品にもとづく活発な事業展開によるものであった。戦時中、生産設備を温存できた日本クロスは、終戦と同時に本来の生産活動を再開することができたが、当時はまだ物資統制の時代であった。1949年(昭和24)までは、資材の割り当てを受けて生産する教科書用クロスや輸出用クロスが中心であった。戦前に培った技術力を発揮するには、物資統制が解除される1950年(昭和25)ごろまで待たねばならなかった。たとえばクロスの新製品開発も新事業のビニールへの取り組みが活発になるのも、1950年(昭和25)からであった。
 出版業界が本格的に業務を再開したのは、用紙の割り当てが撤廃された1950年(昭和25)からだったが、京都工場では一般書籍用の布クロスの開発が精力的に進められている。1952年(昭和27)には、大和クロス工業を吸収合併、布クロスに加えて紙クロスの分野にも参入、出版・印刷市場のすべてを視野におさめるようになった。その結果、まもなく到来する戦後の出版ブーム(全集ブーム、新書ブーム)にも対応することができたのである。
 戦後まもないころから展開してきたビニール製品の開発も1950年(昭和25)から本格化している。さらに新しく発足した京都東工場の染色加工部は、アセテート染色という新分野に乗りだした。1955年(昭和30)前後からは不織布事業に取り組み、わが国で初めての国産化に成功した。
 とくにビニール製品は業容拡大に大きく貢献、たちまち主力分野のひとつになった。ビニール製品が登場した1950年(昭和25)は全社売上高の13%前後だったが、2年後の1952年(昭和27)には24%を占めるまでになった。1952年(昭和27)の商品構成比は、次のとおりである。
 ブッククロス 49.8%、ビニールクロス 24.1%、ブラインドクロス 8.8%、電気絶縁布 2.4%、その他 13.9%
 ビニールにしても不織布にしても時代の先端をゆく新しい産業分野であった。新技術による豊富な製品展開によって新しい市場分野を獲得、クロスの総合メーカーとしての地位を確かなものにしたのである。


創業者・坂部三次の死去、渡部一郎の社長就任

 1958年(昭和33)6月の第79期定時株主総会後の取締役会で、坂部三次の会長就任と渡部一郎の取締役社長就任を決定した。
 渡部一郎は愛媛県出身。1928年(昭和3)京都大学工学部を卒業すると同時に日本クロスに入社。染・再整部など主に技術畑を歩み、1937年(昭和12)取締役、1940年(昭和15)常務取締役、1947年(昭和22)専務取締役と順次昇格し、1952年(昭和27)からは副社長を務めていた。
 坂部三次の会長就任、渡部一郎の社長就任によって、役員構成は次のようになった。

取締役会長 坂部 三次
取締役社長 渡部 一郎
常務取締役 尾崎   勇
前川 英三
村中   晃
取 締 役 下倉義一郎
坂部三次郎
監 査 役 鈴木   要
石丸憲次郎

 会長に就任した坂部三次は日本クロスの創業以来、およそ40年間にわたって業務執行の総責任者として第一線に立ってきたが、このときすでに肝臓癌に侵されていた。1959年(昭和34)2月、京都大学付属病院に入院、創立40周年の記念行事を楽しみに闘病生活をおくっていたが、3カ月後の5月17日に急逝した。享年81歳であった。
 社葬は5月26日、建仁寺(京都市・大和大路四条下ル)で執り行われた。参列者は約2,500人、境内にならんだ樒は1,200にのぼり、建仁寺始まって以来という盛大な葬儀であった。故人は正6位勲4等瑞宝章を授与され、伝達式は6月8日、東京の科学技術庁で行われた。

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