3工場体制へ

京都東工場の復活
 戦時中から日本クロスの関連会社として、開南染工化学、大和クロス工業、九州クロス工業の3社があったが、いずれも1950年(昭和25)から順次合併して、それぞれ京都東工場、東京工場、福岡工場となっていた。
 開南染工化学は、「織物加工業者の整備統合令」(1942年)によって設立されている。同社の工場は、もともと日本クロスの染・再整部門である。軍需優先を目的とする企業整備によって誕生した会社だったから、戦後になるともはや分離経営の根拠がなくなった。むしろ同じ経営基盤にある2社が併存することでマイナス面が生じるようにもなった。クロスと染色には製造工程、技術、資材、機械設備に多くの共通点があった。それが2社に分かれることによって、経営資源が分散してしまった。両者がそれぞれ従業員、機械設備、研究施設をもたねばならないというのは、経営上大きなマイナスであった。
 合併問題は1949年(昭和24)から具体化した。分工場であった山西染工と晒八の両社は、それぞれ独立の方向を選択した。合併の条件が整い、1950年(昭和25)3月、日本クロスと開南染工化学の合同役員会で、合併の基本的合意が成立した。日本クロスが開南染工化学を吸収合併、同年8月から染工部京都東工場として再出発させことに決まったのである。開南染工化学の吸収合併によって、日本クロスの新資本金は6,000万円となった。
 京都東工場は開南染工化学の従業員の大半を引き受け、人絹と綿織物の染色工場としてスタートした。


東京工場、福岡工場の誕生

 大和クロス工業の合併も、生産活動の一元化による経営合理化を狙いとするものであった。戦時中から大和クロスは、資金、技術面で日本クロスから指導、援助を受けていた。とくにベースクロス・原紙・澱粉などの主資材の仕入れについては、日本クロスの支援にたよっていた。しかし、資材状況、輸送状況が好転し始める1950年(昭和25五)ごろになると、もはや2社併存の必要がなくなってきた。機械設備の改良、管理、新製品開発などの生産技術面からも、対外的な信用という面からも、2社併存は望ましくなかった。
 合併問題は1950年(昭和25)から具体的に進められている。まず同年12月に大和クロス、1951年(昭和26)1月に日本クロスで、それぞれ合併についての決議がなされた。つづいて同年5月には、両社の代表が合併契約書に調印、本格的な合併手続きに入った。かくして大和クロスは1952年(昭和27)2月、日本クロス東京工場として、新しくスタートすることになったのである。合併により日本クロスは布クロスと紙クロスをもつブッククロスの総合メーカーとなり、トップーメーカーとしての地位を確かなものにした。
 九州クロス工業はもともとオイルクロスの生産で出発した関連企業だったが、戦時中は暗幕に転換、戦後は電気絶縁紙、絶縁クロスの生産を始めていた。1951年(昭和26)ごろから早くも統計的品質管理を導入、その生産技術は業界で高く評価されていた。同社のワニスクロスは1952年(昭和27)にJIS表示を認可され、デミング賞の別途表彰も受けている。日本クロスとの合併は1954年(昭和29)5月に成立、日本クロス福岡工場として再出発することとなった。


工場中心のタテ割り組織

 戦後まもなくの日本クロスの体制は、京都の本社工場だけで、社内組織も明確ではなく、工場と事務所という職場単位の区分しかなかった。〈造れば売れる〉時代だったそのころは、生産活動がすべてだったから、あえて社内組織など必要なかったのである。1949年(昭和24)ごろになっても、あいかわらず工場はクロス部と油布部で構成され、事務所では営業と資材を業務とひとくくりにして呼んでいた。部長はおかれていたが、課長や係長という職制はなかった。
 京都の本社工場だけだった体制に変化が生じてきたのは1950年(昭和25)からである。同年に開南染工の吸収合併により染色加工部が染工部東工場として復活、1952年(昭和27)には大和クロスを吸収合併して、東京工場とした。さらに1954年(昭和29)には九州クロスが福岡工場となった。京都の本社工場のほかに染工部東工場、東京工場、福岡工場が加わったが、管理体制そのものには変化がなく、むしろそれぞれの工場を中心にして、タテ割りの管理運営をいっそう強化していった。たとえば経営計画も工場単位で作成し、個別に展開していた。
 生産技術面ではヨコの連携を進めていたが、機能別の横断的な組織展開には至らなかった。たとえば京都本社工場、染工部東工場、東京工場、福岡工場は、それぞれ個別に販売担当者をおいて営業活動をしていた。
 3つの工場はそれぞれ成立基盤と経緯を異にしているという背景から、それぞれがまるで別会社のように運営され、その体制が1962年(昭和37)ごろまでつづくのである。

 社内組織なるものが初めて登場したのは1956年(昭和31)だった。正式な組織図は残っていないが、3工場3部制とし、このときに〈課・係〉制も取り入れた。総務部、業務部、染工部東工場、本社工場、東京工場、福岡工場で構成するきわめて単純な組織体であった。初めての組織図は1959年(昭和34)に創刊された「クロス社内報」で公表された。

総 務 部 部長 前川英三常務  総務課 経理課勤労課
業 務 部 部長 村中晃常務
次長 河野幸夫
 販売課 資材課 
 東京事務所
本社工場 工場長 尾崎勇常務
次長   前川文造 
      竹中貞夫
 製造1課 製造2課 
 工場管理課
染工部東工場 工場長 下倉義一郎取締  業務課 染工課 加工品課
東京工場 工場長 坂部三次郎取締  総務課 製品課 製品課
福岡工場 工場長 鈴木要 -

 3工場(本社・東京・福岡)と3部(総務部・業務部・染工部東工場)を、並列して配置しただけの組織だった。
 3部のうち総務部と業務部は、本社機能をもつ部署と位置づけられていたが、実際には全社を統括する組織体ではなかった。あくまで京都工場と染工部東工場を含む京都事業所のスタッフ部門というところだった。さらに染工部は業務部門と工場部門をあわせもつ独立の組織であった。この特異な現象は、開南染工化学を呼びもどして合併したという歴史的な経緯からきていた。
 当時の経営管理システムは、工場中心というのが実態だった。本社工場、東京工場、染工部東工場、福岡工場を社長が統括するという、きわめて単純な管理組織だった。売上高など業績の月次集計なども工場単位で行っていた。
 東京事務所なども各工場の出先機関という性格をもち、所員は工場の派遣員のようなものだった。工場別担当者制だったため、同じユーザーに所員が重複して訪問するというケースもまれではなかった。
 4つの工場は、それぞれ成立の土壌、歴史、さらには製造品目を異にしていたため、統一的な方針によらず、独自の路線をもって動いていた。各工場は競い合って、たがいにライバル意識を燃やしていた。右肩上がりの成長がのぞめた時代だったがゆえに、むしろそれが、いい意味で社内の活性化をもたらしていたという側面もあった。


三豊クロスの設立

 ダイニックは創立80周年を迎える1999年(平成11)を「グループ経営元年」と位置づけているが、グループ企業のなかで最初に誕生したのはダイニック・シュノである。同社の母体は1950年(昭和25)7月に設立された三豊クロス株式会社である。
 三豊クロスは、日本塗布製品と協福という2社の合併によって誕生した日本クロス製品の販売会社である。
 日本塗布製品の前身は、1942年(昭和17)設立のクロス共販であった。同社は日本クロスの総代理店であった博進社の子会社である文開堂社長の下妻清二によって設立されている。文開堂が企業整備によって親会社に吸収されたため、新しいクロス製品の販売会社として、クロス共販(資本金19万円 本社は京都木屋町)が設立されたのである。同社は1943年(昭和18)4月、日本塗布製品と社名を変更、11月には本社を東京都中央区、支店を京都市右京区に移転、防空用暗幕とタイプライターリボンを扱っていた。
 協福は1948年(昭和23)に設立された関西地区のクロス代理店であった。本社事務所を構えた京都市下京区(松原通り烏丸東入ル)の地は、もともと日和興業の事務所跡だった。日和興業は、戦中の統制機関であった中央塗装布統制会社の解散と同時に発足した自主的統制機関であった。戦後の経済混乱期にクロス製品の需給調整を図るため、自主的に販売統制をめざしたのであった。戦後の復興が進み、経済環境が好転し始めると所期の役割を終えたとして、1948年(昭和23)8月に解散することになった。その跡に協福が本社事務所を構えたのである。
 三豊クロスは、資本金125万円の新会社として発足した。〈三豊クロス〉という社名は日本クロス、大和クロス、九州クロスの3社製品を扱う代理店であることから命名された。

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