社業の積極拡大

専業から多角化へ
 創立40周年を迎えたあたりから、日本クロスは、企業として大きな転換期を迎えていた。
 戦後の復興期から第1次高度成長期、つまり〈造れば売れる〉時代は、〈工業〉家精神に徹して企業規模を拡大してきた。また専業に徹することによって、クロスメーカーとしての地位を確かなものにしてきた。ところが1960年代になると、クロス専業という経営姿勢の延長線上に企業としての将来が見えなくなってきた。
 創立40年にして企業基盤そのものがすっかり成熟しきっていたのである。現状維持は退歩にひとしい。企業として新しい発展をめざすには、生産のスケールアップだけでなく、新規事業、新分野を視野においた新技術の導入・育成が必要であった。
 組織運営のうえでも旧体質からの脱皮が急務となった。当時の日本クロスは工場中心の組織体で、京都本社工場、京都東工場、東京工場、福岡工場の4つの工場が、まるで別会社のようなかたちで存立していた。創業者である会長・坂部三次の指揮下で4つの独立した組織体が独自の道をゆくというのが、当時の実態だったのである。日本クロスという企業の歩みと、当時の企業スケールからいえば、それが最もふさわしい経営システムだったという見方もあるが、急速に企業規模が拡大し、従業員数が増加してきた1962年(昭和37)になると、近代的な経営管理体制の確立が急務になってきた。
 おりから日本の産業社会は経営革新の時代を迎えていた。このような背景から、日本クロスも新しい時代に突入する。坂部三次郎の社長就任をきっかけにして、経営革新を急ピッチで進めてゆくのである。


坂部三次郎の社長就任

 1962年(昭和37)6月、渡部一郎が会長に就任、新社長に坂部三次郎が就任した。
 坂部三次郎は1923年(大正12)、京都市に生まれ、京都市立第一工業学校卒業後、東京物理学校(現・東京理科大学)の数学科に学んだ。1943年(昭和18)12月、物理学校を戦時繰り上げで卒業したあと、母校の第一工業学校の数学科教諭について大学進学にそなえていたが、おりからの戦況激化と創業者の強い奨めにより1944年(昭和19)8月、日本クロス工業に入社、京都工場の研究室に配属された。最初の仕事は「風船爆弾」の基布に使用する塗料づくりだった。戦後もクロスの塗料研究に従事していたが、1949年(昭和24)にとつぜん埼玉県狭山市の大和クロス工業への出向命令を受ける。同社では紙クロスの開発に取り組み、数多くの新製品を誕生させた。1950年(昭和25)、同社の取締役となり、1952年(昭和27)2月、大和クロスが日本クロスに吸収合併され、東京工場となると、取締役製造部長に就任、1957年(昭和32)には東京工場長に就任した。社長就任はそれから5年後のことであった。
 坂部三次郎の社長就任は、当時の経済環境の構造的な変化と密接な関係があった。日本経済は1960年代になると自由化が進み、国際競争力が求められるようになった。日本の産業界は変革の時代を迎え、各企業はあらゆる面から経営改革に乗りだした。〈経営の近代化〉は、ただ新しい経営管理システムを導入するというだけではなく、企業の経営理念そのものを再構築するところから着手しなければならなかった。
 日本クロスは戦後になって急成長をとげたものの、あくまで創業者個人の経営手腕によるところが大きかった。それは当時の企業規模から見れば、むしろ望ましい経営のありかただった。けれども企業規模が大きくなるにつれて、従来の経営システムでは時代に対応できなくなりつつあった。発想を転換して、企業としての将来像を新しく設定しなければならなかった。つまり経営変革の時代を迎えていたのである。
 坂部三次郎は企業変革の担い手として、平取締役から社長に選任されたのである。坂部三次郎をトップとする新しい経営陣は、次のとおりであった。

取締役会長 渡部 一郎
取締役社長 坂部三次郎
専務取締役 前川 英三
常務取締役 尾崎   勇
下倉義一郎
河野 幸夫
取 締 役 村中   晃
鈴木   要
監 査 役 石丸憲次郎
小安   悳


新しい企業ビジョン


 社長に就任した坂部三次郎の経営理念は、1963年(昭和38)10月に社内に配布された『私の経営理念』という小冊子で明らかにされている。
 『私の経営理念』は、経営者としての自らの責務、企業としての将来展望が述べられているが、「2代目経営者たるものは、常に創業者と比較される運命にある以上、創業者を凌ぐ手腕を発揮しなければならない」とあるように、創業者時代からの伝統的な経営のありかたを強く意識したうえで、時代にそくしたかたちで自らの果たすべき役割を明確にしている。
 「如何に優秀な経営者であっても、一人だけの努力で企業の発展をなし得ることは不可能である。たとえそれが出来たとしても、全従業員が一体となって目的遂行の為に努力した場合と比較すべくもない」とあるように、まず社内の組織運営面の改革が急務であると強調している。その背景については『クロス社内報』bXのメッセージ「新しい機構のもとに」で具体的に述べている。

 創業以来43年、その間に蓄えられた遺産は余りにも大きい。しかしその遺産に新しい経営法を入れる。謂わば“古い革袋に新しい酒を”満たすのが我々に与えられた責務である。
 古い経営法……それは、一口に言えばワンマン経営であろう。唯一人のコントロールにより、会社全体が右へも左へも自由に向けられる。そのような経営法が一番適していた時代もあった。現在でもワンマン経営が適している会社もなくはないが、当社においては、もはや不適当である。やはり組織の上に立って、全従業員の考えが反映できる体制を取らねばならない。

 つまり「個人の能力のみによる経営からの脱皮」「大幅な権限委譲ができる組織運営」「全従業員の意思が経営に反映されるような体制づくり」を、企業改革の骨子として掲げたのである。
 経営改革のビジョンとして提示されたのは「社業の積極拡大」である。日本経済が高度成長をつづけるなかで、消極策はとるべきではない……というのが新社長・坂部三次郎の持論だった。「現状維持は他企業の伸びただけ後退したことである。同じ売上高では増大分だけ利潤の減少を来す。(中略)そのような消極的均衡では現在の如き発展期にある日本経済界に於ては、企業を永続させることは出来ないものと考えなければならない」と強調している。
〈積極拡大〉はクロス専業からの脱皮を促進、経営の〈多角化〉をもたらすのだが、全社の活性化をめざす一種のショック療法としても大きな役割を果たした。坂部三次郎は後年、当時を顧みて次のように書いている。

 私が社長になった当初、会社を見渡すと紛飾ばかり、売れないモノを倉庫に積んでいるという状態だった。そこで積極拡大策を展開して、会社の活性化をめざした。(中略)当時の社内は、事なかれ主義が蔓延していた。最も大きな原因はシェアーが高いということで安心してしまっていたからである。確かにクロスは七〇パーセントのシェアーを誇っていた。(中略)安心しきってクロスだけをやっていればいいという意識をもてば、新しい商品をつくる意欲がわかないのは当然である。縮み思考から脱却するためにも、積極拡大策を強力に進めねばならなかったのである。(「新世紀を拓く経営とは? リーダーとは?」『ザ・イーグル』1989年7月号、田辺経営刊)

 京都本社・工場は私が入社後しばらくすごした職場だが、社長という立場からながめてみると、あまりにも経営の甘さが眼についた。戦災に遭わないというめぐまれた環境にありすぎた。戦後のモノ不足のときも、国定教科書用クロスを生産していた関係で、原材料にも不自由しなかった。製品さえ造れば、飛ぶように売れた。経営の甘さがしのびよるのは当然の結果だったかもしれない。
 昭和38年から39年にかけて、私は京都工場の改革をめざして3大事業に着手した。京都工場はすでに手狭になっていて、生産拡大がのぞめない。そこで埼玉県深谷に3万4千坪の敷地を購入して新工場を建設、京都工場のビニール部門の一部を移転した。新製品開発をめざして京都の西山地区に中央開発研究所を開設した。さらに従業員の福利向上のために、工場隣接地に食堂、浴場、娯楽室などをもつ厚生会館を新設した。新鋭設備の導入なども積極的に展開したから、投資は大規模なものになった。(雑誌「SUT」1994年4月、東京理科大学刊)

 積極拡大策の具体的な展開については、1963年(昭和38)10月の社長メッセージ「わが社の発展計画」で明らかにしている。3年後に売上高を倍増させるというのが「発展計画」のアウトラインであった。生産のスケールアップのために、全社規模で設備更新・増設計画を進めた。連結塗装機の更新、ビニールレザーの新鋭塗装機の導入(京都西工場)、化繊染色加工設備の増強(京都東工場)、新工場の建設(深谷工場)、中央開発研究所の建設などが主な内容であった。このときの設備の刷新計画には、約15億円の資金を投じた。


「技術の優位性」と「人の和」

 坂部三次郎は社長就任後まもなく、「技術の優位性」と「人の和」を社是に掲げた。
〈技術の優位性〉の必然性について、坂部は『私の経営理念』のなかで、次のように述べている。

 企業が永遠に繁栄する以上、新製品の研究、現在販売中の商品の改良研究は、企業活動の中で最も重要な要素であらねばならない。(中略)我々は進んで新製品を開発し、世界中に技術輸出するよう努力しなければならない。(中略)我々の製品が工業製品である以上、再現性のある商品を、同じ品質で大量生産することを念頭に置いて開発しなければならない事は勿論であるが、業界を指導し、プライス・メーカーの地位を保持する為には、常にその業界に於ける技術の優位性を確保しなければならない。

 〈技術の優位性〉とは同業他社にくらべて技術的にすぐれているということである。〈技術〉とは、「単に物をつくる技術のみを指すのではなく、販売技術、購買技術、労務技術、事務技術など職場におけるあらゆる技術」なのである。「当社のように製造会社の場合、まず第一に製品が商品として市場に出るのであるから、開発技術と製造技術が最も重要である。しかし、販売やその他の部門の技術もそれに劣らず重要である。特に、合理化の必要性が強調されるようになると、事務部門の技術力が重要になってくる」(「積極的多角経営と人間中心経営」日刊工業新聞社編『私の経営』1975年1月刊)とあるように、〈技術の優位性〉に、きわめてひろい意味を託していたのである。
 「人の和」は〈人間中心の経営〉を表象している。同じ会社に働くすべての人間が、会社を楽しい職場にしようという努力や願いを象徴的にものがたるものだが、社是として掲げられるには、それなりに歴史的な背景があった。

 私はずっと以前から、人間関係のうまくいっていない会社からは、社会に有用なものを生み出せないという信念を持っている。いかに立派な機械を持ち、優秀な原材料を投入しても、労使間に問題が多かったり、役員同士の人間関係がうまくいってない会社は存在価値がない。(中略)
 私は社長に就任する前後、労使間の紛争でたいへんな苦労をした。原因は経営者の怠慢にあるが、結果的には強力な労働組合ができ、ことごとに会社に盾つくようになったのである。一時は、1年のうち150回以上も団体交渉を持たなければならないような有様で、賃上げの時には、決まってストライキが行なわれ、会社側はその対策に忙殺された。そのような苦い経験から、私は企業経営にとって人間関係が最も重要な問題であると考えるようになった。(日刊工業新聞社編『私の経営』1975年1月刊)

 どんなに優秀な設備があっても人の和が保たれなくては、〈いいモノづくり〉はできない。労使の関係が正常でなけば会社の発展はない。労使関係も〈経営者が従業員をいかに考えるか〉で決まってくる。社是「人の和」は坂部三次郎のそういう経営者としての強い信念から生まれたもので、〈労〉〈使〉を結ぶ理念的出発点として機能していくのである。

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