経営システムの変革

好業績を背景に2度の増資
 1962年(昭和37)から1966年(昭和41)にかけては、〈マクロ好況、ミクロ不況〉といわれたように、全般的には景気変動のはげしい時期だったが、日本クロスの業績は順調に推移した。1963年(昭和38)10月決算で、初めて売上高は20億円を突破した。その後も半期20億円を下回ることなく、年間ベースで売上高40億円レベルを維持した。業績向上の推進力になったのは、ブッククロス部門であった。1962年(昭和37)のペーパーバックスブーム、百科事典ブーム、1963年(昭和38)からの全集ブーム、1965年(昭和40)の歴史ブームによって、紙クロス、布クロスともに販売量が飛躍的に伸びたのである。
 好調な業績を背景に、2度にわたる増資を実施した。1962年(昭和37)5月1日、2億4,000万円の半額増資、新資本金は7億2,000万円になった。さらに1964年(昭和39)4月にも京都工場の設備拡充、深谷工場新設の資金調達を目的にして半額増資を行い、新資本金は10億8,000万円になった。
 1964年(昭和39)後半から翌年にかけての「40年不況」は、業績にも大きな影響を及ぼし、最初の試練ともいうべき事態であった。金利負担の増大と不況による受注の減退によって、第92期(1964年11月〜1965年4月)は、約300万円の実質赤字になったのである。役員賞与のカット、従業員賞与の引当ストップ、株主配当の減配(14%から7%ヘ)、減価償却法の変更(定率法から定額法へ)などにより、第93期(1965年5〜10月)には黒字転換に成功した。このときの業績低迷は一時的なもので、1966年(昭和41)以降は再び安定した足どりで推移している。
 1966年(昭和41)からの安定した業績は戦後最長といわれたいざなぎ景気と、爆発的な「全集ブーム」「百科事典ブーム」によるものであった。
 1967年(昭和42)から1970年(昭和45)にかけては、思ったほど業績が伸びなかった。いざなぎ景気のさなかの4年間は、売上高で年率20パーセントの成長を見込んでいたが、実績は14%、利益は横這いというのが実情であった。


巨額の設備投資

 1962年(昭和37)に始まる積極拡大路線によって、日本クロスは大きく変貌した。巨額の設備投資を継続的に行い、企業としての容器を拡大していった。
 1963年(昭和38)から1969年(昭和44)まで、3期に分けて設備投資を実施した。第1期は1963年(昭和38)から1965年(昭和40)までで、中央開発研究所の建設、深谷工場の建設、クロス会館の建設、電子計算室の設置、京都西・東工場、東京工場の設備拡張など、その規模は約17億円であった。中央開発研究所、深谷工場、クロス会館は、創立45周年にあたる1964年(昭和39)に完成し、記念の年を彩った。
 第2期は1966年(昭和41)から1967年(昭和42)までで、約7億円を投じ、京都東工場、東京工場、深谷工場の設備増強、桂工業、大和紙工の工場増設に充てた。
 第3期は1967年(昭和42)から1969年(昭和44)までで、約8億円を京都西・東工場、東京工場、深谷工場の設備増強、EDP室の設置に投じた。


事業本部制の導入

 坂部三次郎が社長に就任すると同時に、社内組織を大幅に改めた。1962年(昭和37)7月(10月に一部変更)発足の新組織の特徴は、中央集権的な体制づくりであった。常務会を設置したのもこのときである。
 社長の傘下に個別の組織を並列して配置するというかたちをとったのは、あくまで全社一本化を当面の目標としたからである。新組織では福岡工場、東京工場、京都東工場、京都西工場、支社(社長室、営業部)、本社(総務人事部、営業部)が、それぞれ独立組織として併存するかたちをとっている。機能分化があいまいなうえ、責任・権限も不明確で、いかにも過渡期の組織という印象が強いが、これはなるべく現状を容認しながら、中央集権的な組織づくりをめざしたためであった。それはともかく、工場単位の家族主義的組織を解消し、営業部門を工場から独立させ、支社と本社に集約することになった。
 東京事務所は支社に昇格させ、東日本の拠点として機能強化を図った。支社昇格にあわせて日本橋倶楽部会館から神田小川町の檜ビルに移転した。営業部のほか総務部と社長室を新設し、本社とならぶ重要な位置を占めるようになった。新設の社長室は本社機構のひとつとした。

 1964年(昭和39)6月の組織改定では、事業本部制をとり入れた。新組織の狙いについて社長の坂部三次郎は、「クロス社内報」(bX)誌上で責任と権限の明確化にあるとして次のように書いている。

 過去6年間を振り返って、全社の一本化の考え方に徹する習慣がついて来たこと、工場単位から全社総力をあげて事に当たる体制が出来上がったことは、会社発展のために真に有難いことである。併し、責任と権限の明確化に就いては、未だ充分に実行されたと思えない。むしろこの点に関しては、組織そのものに欠陥があったと反省している。(中略)ここで一層積極策を進めるために、職制組織の強化と、責任と権限の明確化を図るために、6月1日より事業本部制にふみ切ったのである。

 事業本部制は、クロス事業本部、染工事業本部、業務本部、開発事業本部の4部門で構成された。クロス事業本部と染工事業本部は生産・販売の機能を併せもつ現業ライン部門、業務本部と開発事業本部はスタッフ部門という位置づけだった。
 事業本部制導入の狙いは、ライン・スタッフの明確化に加えて、全社一本化の徹底にあった。とくに染工をのぞくクロス部門の生産工場は、京都西工場、東京工場、福岡工場に加えて深谷工場を新設しつつあった。こうした状況に対応するため、各工場、営業部、資材部を事業部として包括し、全社的な見地から生産・販売業務を統括、調整する必要が生じてきた。重複する設備や製造品種の解消、人員問題のスムーズな解決、資金の有効利用、経費の合理化のために事業本部制を採用したのである。
 開発部門を重視したのも大きな特徴であった。開発事業本部は、社長室と中央開発研究所で構成された。社長室には、調査室と企画課をおいたが、これは経営計画の立案などを担当する、いわば経営スタッフであった。中央開発研究所は、全社的な見地から技術開発、新製品開発をめざす部門という位置づけであった。
 事業本部制は、日本クロスにとって初めての組織らしい組織だった。的確に全社を統括するために導入したのだが、事業本部間のセクショナリズムが表面化、さらに機能上の問題が生じたため、1966年(昭和41)3月の組織改定で、事業本部制に代わって担当常務制を導入することになった。


利益責任制の組織へ

 1967年(昭和42)9月の組織改定は、利益責任制導入の第1弾であった。全社のフレームは管理本部、営業本部、開発本部、生産技術本部、染工事業本部の5つの事業本部で構成し、各本部長に専務・常務が就任した。このときに常務会のスタッフとして綜合企画部を新設し、コンピュータ化、TQCの推進を通じてトップの意思決定に参画する経営スタッフ部門とした。
 1968年(昭和43)8月の新組織の狙いは利益責任制の徹底にあった。営業部門、製造部門を明確に区分したうえで各部門の利益責任制の徹底を図った。本社機構と工場を分離、京都西工場と京都東工場を統合、京都工場として一本化したのもこのときである。営業と工場を分離するという観点から、大阪営業所を設置し、京都工場内にあった営業部を5月に移転させた。
 1969年(昭和44)11月発足の新組織は、部門評価システムの導入と需要家指向体制の確立に狙いがあった。事業本部の構成も改め、総合本部、技術本部、営業本部、生産本部、染工事業本部の5事業本部とした。
 営業本部は、組織のうえで東京営業部と大阪営業部に分かれていたが、このとき東西一本の市場別組織に改編した。またクロス販売部、産業資材販売部、衣料資材販売部、合成皮革販売部、開発部の5つの販売部を営業本部の下に設けた。
 業績の低迷がつづいていた染工事業本部は、再建策を模索していたが、規模を縮小して再建することとなった。工場も京都工場から分離して、染工場と呼ぶようになり、染工業務部の呼称も染工営業部に変更した。


資格試験制度の導入

 資格試験制度、厳密にいえば「資格制度」と「登用試験制度」は1966年(昭和41)9月に発足している。両制度導入の意図は、利益責任制にともなう能力主義の徹底にあった。
 当時は学歴や経験年数で役職を決めていために、「職制」と「資格」が判然としていなかった。そのために組織が細分化するなど、日常業務にも混乱が生じていた。1965年(昭和40)に発足した職制整備推進本部は、ほぼ1年にわたる調査活動を経て、「職制の合理化」と「資格制度」について答申した。
同本部が提示した解決策は次の2点に要約することができる。
 1、職制と資格をはっきり分離させ、職制を秩序だったかたちにする。
 2、学歴、年齢、勤続年数という属人的な要素による人事を排して、あくまで従業員の実力に応じた能力主義の人事を実施する。
 新しい資格制度は、この答申にもとづいて制定された。職制(役職)はあくまで資格とは区別して、各部門に即した簡素な制度を採用することになった。新制度の発足によって誕生した従業員の資格区分は、参事、参事補、主査、主事、主任、主任補、一般社員の7段階であった。
 資格制度の導入によって、以降の昇格は従業員の能力を全社同一基準で判定できるようになり、その一環として「資格登用試験制度」が誕生した。第1回の資格登用試験は1967年(昭和42)4月から5月にかけて実施した。主任補登用試験は有資格者308人のうち128人が応募、59人が合格、主査登用試験では有資格者24人のうち11人が合格した。


管理システムの確立

 1962年(昭和37)後半から〈経営の近代化〉を、急速に進めた。事務の機械化と品質管理の導入もその一環であった。
 コンピュータによる事務の機械化は、1963年(昭和38)ごろから始まった。当時、生産・販売活動が活発化するにつれて事務量が増大していた。企業間競争を生きぬくためには、まず科学的な情報処理システムを確立しなくてはならなかった。いわば近代的な経営管理の一環として、事務の機械化を推進したのである。
 1963年(昭和38)10月、事務機械化委員会(委員長・河野幸夫)が発足した。委員会によって総合機械化による新しい事務系統づくりを進め、まず計算室を設置した。
 営業、生産、技術、経理、人事と個別に分かれていた計算事務を計算室に集中させ、各部門の業務を有機的に結ぼうとするのが機械化の第一ステップであった。これによって販売会計、資材関係、給与計算、一般経理、工程管理、原価計算、各種計算などの事務を機械化することができた。
 コンピュータによる総合的な情報管理システム構築は1966年(昭和41)にスタートした。 常務会直属の組織として、同年9月、中央開発研究所内に総合企画部を設けたのが始まりである。同部は発足と同時に、EDPS(電子情報処理システム)の導入をめざして、コンピュータ機種の選定、プログラムの作成に着手した。2年の準備期間を経て、日本電気のNEAC2200の導入を決定した。
 1968年(昭和43年)11月、東京支社分室(東京神田・長谷川第5ビル)の開設と同時にNEAC2200は本格稼動を開始した。EDPS導入の当初の狙いは、情報処理機能を京都から東京に移して、全社統一システムを完成させることにあった。導入期の1967年(昭和42)から3年間は、もっぱら情報の集中管理体制のシステム化をめざしたのであった。
 品質管理を導入したのは1963年(昭和38)である。同年3月15日、「全社に品質管理(QC)を実施するにあたって」という社長方針を発表した。そのなかで社長の坂部三次郎は、全社的に管理体制を整備して、企業の体質改善を図らねばならないと説き、「……他企業においては、社業発展のため、経営の近代化を推進し、その方策として科学的経営方法を採り入れて着々と成果をあげつつあることは衆知の事実である。この点に関し、まことに残念ながら当社は数歩の遅れをとっていることを認めざるを得ない。(中略)この時にあたり、当社は新しい経営方針に基く長期計画の一環として、強力に全社的品質管理を実施し、以って社業の発展を図るものである」と強調した。
 全社的品質管理(TQC)の導入にともない、推進担当部署として技術管理部のなかに品質管理課を新設した。
 坂部自らが述べているように品質管理の導入もコンピュータによる情報システムも、「一つの意思のもとに、各事業所が同じ目的をもって行動する」ためのものであり、真の狙いは全社の意識革命にあった。

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