営業部門の拡大・強化

全社あげて需要家指向
 日本経済にとって1970年代は大きな転機であった。物資不足型から物資過剰型へと構造そのものが変化してゆく。モノ不足の時代といわれた1950年代、さらに1960年代は工業化の時代となったが、1970年代からは物資過剰の時代、消費者主導型の経済がやってくる。いわゆる脱工業化の時代である。
 プロダクト・アウトからマーケット・インへ……。脱工業化時代を生きぬくために、日本クロスも経営方針を大きく転換してゆくことになる。
 マーケット・インの体制づくりは、1968年(昭和43)年から始まった。同年度の社長方針は、〈営業部門の拡大・強化〉を最重要テーマに掲げた。「とくに京都営業部および染工業務部の完全独立をはかる前向きの営業活動に専念できる態勢に切り替える」というのである。同年5月、大阪営業所を開設したのは、その具体的なあらわれであった。
 1969年(昭和44)11月には、社内組織のうえでも需要家指向の姿勢を打ち出した。社長の坂部三次郎は、「70年代に突入する当社の計画」のひとつに〈需要家指向体制の推進〉をあげて、「新しい時代に即応する当社は、昨年11月に全く新しい組織を取り入れた。即ち、当社の営業部門を、需要家指向に徹するようにかえ、生産部門及び技術部門は、需要家の意向をただちにくみとり、需要家の望む製品を作り得るように組織を変えたのである。営業部門が需要家指向に変革されたことは、当社にとって、はじめての試みである」と述べている。
 需要家指向の導入をことさらに強調したのは、社内の意識を生産部門の工場主導型から営業主導型に大きく転換するためだった。営業部門の質的改善とはいいながら、実は全社的な発想転換を意図していたのである。
 そういう一連の流れのなかで、第107期(1972年5月〜10月)の経営方針では、〈出版〉〈住宅〉〈衣料〉の3部門を重要市場として明示した。商品面からでなく、市場をターゲットにした経営計画を打ちだしたのは、このときが初めてであった。


営業部門の再編

 顧客指向は全社的なテーマであったが、まず最前線の営業部門の整備強化と意識改革が急務であった。営業部門の組織強化は2段階に分けて行った。
 まず1962年(昭和37)の組織改定で、営業部門は独立した組織体となった。工場に従属していたそれまでの形態から脱して、新しく営業部として独立させたのである。東京事務所は東京支社となり、その販売部門は支社営業部となった。本社営業部は京都西工場、京都東工場の、支社営業部は東京工場の主管営業部というように、まだ工場とのヒモは切れていなかったが、実際の営業活動では、それぞれの営業部は全工場の製品を扱うかたちとなったのである。
 本社営業部、支社営業部とも担当業界別に課を編成し、販売第1課、販売第2課、染工業務課とした。第1課の担当市場は出版、文具紙工品、包装資材、貿易、第2課は工業資材、衣料、靴、袋物であった。発足当初の本社営業部は総勢43人(販売第1課11人、販売第2課6人、染工業務課25人)、支社営業部は総勢20人(販売第1課10人、販売第2課10人)だった。
 1964年(昭和39年)の事業本部制移行時には、クロス事業本部と染工事業本部を設置し、営業部を両事業本部に組みんだ。それまで本社営業部に属していた染工業務部は、染工事業本部所属となり、本社・支社の営業部を一本化した。なお、このとき外国課と東京販売3課(文具紙工品、印刷、紙器)が東京販売第1課から、京都販売3課(不織布パネロン)が京都販売第2課から、それぞれ分離独立した。
 市場指向の時代になって、巨大な市場を背後にひかえた東京支社はにわかに業績を伸ばした。4年間で売上高は倍増、社員総数も約2倍となり、1966年(昭和41)には、神田小川町の檜ビルから美土代町の神田橋第1ビルに移転した。


大阪営業所の開設

 大阪営業所は1968年(昭和43)5月に開設した。〈営業部門の拡大・強化〉という経営方針の具体的な布石のひとつだったが、営業部門の独立性を確立するという隠れた狙いもあった。
 関西地区の営業部門はもともと京都工場の一角にあったが、顧客のほとんどは大阪方面に集中していた。日常の営業活動は京都からの出張だったから効率的にも問題があった。工場に密着しているという状況も、市場指向という観点から好ましくなかった。
 京都営業部は、もともと京都工場の窓口業務を担当してきた。それゆえに別個の組織に位置づけたところで、にわかに独自性が生まれてくるわけではなかった。需要家指向という経営方針を貫くために、あえて営業部門を工場から分離独立させる必要があったのである。大阪営業所の開設は、京都の営業部門の廃止をともなう全面的な改編であった。
 営業所の立地としては、オフィス街の中心地である東区を選び、安土町4丁目の東光ビルに決定した。1968年(昭和43)5月20日、大阪営業所は同ビルの5階に開所し、京都営業部の全員、染工業務部の一部を配属した。当初の人員は上田泰三所長以下総勢50人あまりであった。


ニューヨーク出張所の開設

 全社あげて市場指向へ動き出すなかで、昭和40年代の前半から営業の機能強化をさまざまなかたちで展開していった。海外の販売拠点づくり、国内の地域開発が始まったのもこのころからだった。
 1967年(昭和42)、初めての海外販売拠点としてニューヨーク出張所を開設した。それは日本クロスの販売構成を内需80%、輸出20%にするという長期計画にもとづくものであった。当時の輸出は東南アジア中心だったが、さらなる拡大を図るには、アメリカを含む新市場を開拓しなければならなかった。
 アメリカ市場への輸出、販売活動はブッククロスを中心に1965年(昭和40)から始まっていた。有望な市場でありながら、市場調査不足で需要動向すら把握できていなかった。本格的な市場参入をめざすには、販売促進だけでなく、アフターフォローなどきめこまかい営業活動が必要だった。
 1967年(昭和42)、アメリカの代理店であるサクソン・ペーパー社がミラクルペーパー、PIクロスを中心に本格的な販売活動に乗りだすことになり、現地の市場調査、さらにはメーカーとしての販売促進が急務となったため、ニューヨーク出張所の開設が具体化したのである。
 かくしてニューヨーク出張所を1967年(昭和42)5月22日、マンハッタンのフィフス・アベニュー(42丁目)に開設することになった。事務所をMasaoka-Isikawa & Associates Inc. 内に設置し、近藤守夫(営業部外国課)が最初の駐在員として赴任した。

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