生産体制の拡大・整備

深谷工場の新設
 新規事業のひとつビニール製品は順調に伸びて、1960年代になると増産体制の確立が急務となった。新しい設備導入を含めて規模拡大を検討したが、当時の京都工場には建設スペースすらなかった。工場周辺の土地の購入も検討したが、生産工場の立地としては、コスト面からみて不適格であった。
 新しい工場立地の候補として滋賀、湘南などがあがったが、1963年(昭和38)になって埼玉県深谷市が有力な候補地として浮かび上がってきた。
 当時、深谷市は工場誘致を図っていたが、日本クロスは工場立地の調査を進めるなかで、深谷市内ケ島の土地に着目した。さっそく1963年(昭和38)8月から深谷市と折衝を始め、11月に土地売買契約が成立した。工場用地は3万3,000坪、京都工場、東京工場にくらべて広大な規模であった。
 新工場にはビニールの最新設備を導入することになり、社長の坂部三次郎と上田周(初代・深谷工場長)が機械設備の購入のために、ただちに渡米した。12月には建設委員会が発足、委員長を含む6人の建設委員は次のとおりであった。

 委員長 河野幸夫(常務) 委員 前川文造(東京工場長) 伊藤博介(東京工場) 上田 周(京都西工場) 新井彦一(東京工場) 宮西郁(東京工場)

 第1期工事は1964年(昭和39)7月から始まり、10月末には敷地の東南の一角に第1工場(約1,300坪)が完成した。
 設備の移転も並行して進め、深谷工場は同年の11月初め、京都、東京に次ぐ第3の工場としてスタートした。当初の従業員は総勢30人(京都・東京工場からの転勤者15人、現地採用者15人)であった。
 総工費は4億2,000万円、西ドイツとアメリカから設備を導入、最新鋭のビニール製造工場となった。


京都・東京工場の増強

 京都東工場(染色加工部門)は、1963年(昭和38)10月から、総工費2億円を投じて生産設備を増強している。設備拡充の目的は、合繊染色に備えての増産体制の確立にあった。東工場の北側と東側の隣接地を購入して工場の増・改築を進め、ナイロン、テトロンなど合繊織物染色の諸設備を導入した。
 京都西工場には、1963年(昭和38)に西ドイツ製ビニールレーザーの新鋭塗装機〈ホフマン〉を導入した。発泡タイプの塩ビレザーの需要増大に対応するために導入したのだが、当時、日本では2基しかない最新鋭の塗装機であった。設置工事は2月に始まり、稼動は6カ月後の8月であった。
 東京工場でも新工場の建設を進め、1964年(昭和39)7月、硝化綿レザー製造のために第3工場が完成した。もともと硝化綿レザーは京都西工場で生産していたが、1953年(昭和38)に東京工場に集約することを決定していたのである。第3工場の規模は600坪、連結塗装機2基を新設し、10月から稼動した。
 福岡工場は電気絶縁クロスの製造工場だったが、1963年(昭和38)8月、福岡クロス工業株式会社として新しく出発することになった。同工場は第2次世界大戦中に建設された木造の工場で、機械設備も老朽化が進んでいた。戦後電気絶縁クロスを生産、大手メーカーの電気機械や電線ケーブルに使用されるようになったが、業績をさらにレベルアップするには、建物の改築機械の更新、近代化を図る必要があった。製品の60%以上が東京市場を対象としていたことから、1960年(昭和35)7月、電気絶縁部門を東京工場へ移管、あわせて設備の全面的更新を決定したのであった。それにともなって福岡工場を廃止することも検討したが、九州地区のユーザーを無視できず、規模を縮小して生産をつづけていたのである。このような経緯もあって、全社的な見地から福岡工場の位置づけを明確にする必要が生じてきた。
 最終的に福岡工場を分離して、別法人として福岡クロス工業を設立したのは、九州地区の需要をにらんで独自な展開ができるようにするための措置であった。


中央開発研究所の開設

 中央開発研究所は1963年(昭和38)10月に着工、翌年3月に竣工している。総工費は1億5,000万円であった。研究所の設置目的は、学問の研究ではなくて、あくまで新製品開発の研究にあった。売れる商品のライフサイクルが短くなり、時代のテンポがどんどん速くなってゆく。新製品の開発、新市場の開拓こそが企業の成長条件になってきたからである。
 中央開発研究所の立地として、当初は滋賀県、埼玉県などが候補にあがったが、最終的には京都府下の乙訓郡向日町大字物集女に決定した。京都工場に近く、大学や公共研究機関との連携にも便利だったことが決め手となった。
 研究所は本館と中間試験場2棟で構成された。中間試験場には、小規模ながら工場と同じシステムの機械設備を設置した。本館には3つの研究室があり、第1研究室は染色加工、第2研究室は合成皮革、第3研究室は東京・深谷工場関係というように、開発分野別の機能担当制とした。開設当初のスタッフは21人、初代の研究所長は前田東作であった。
 中央開発研究所は、新製品開発、プラント設計、品質の改善・改良などに中心的な役割を果たしたが、京都工場の滋賀への移転が具体化するにつれて、その位置づけを再検討しなければならなくなった。あくまで新製品開発を目的とするからには、物理的にも機能的にも生産工場と密接な関係をもたせなければならないとして、中央開発研究所の役割をあらためて見直し、滋賀工場の新設とともに、その機能を新工場に移すことになった。

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