新技術で新分野へ

合成皮革の開発
 人工皮革、合成皮革の開発に着手したのは1960年前後からである。日本クロスの創業以来の歩みを振り返ると、ある意味で〈皮革〉への挑戦の歴史であったということができる。ブッククロスそのものも、もともと皮革から出発したものであった。水性塗料によるブック・バインディング・クロスから、硝化綿塗料によるレーザークロス、ビニール塗料によるビニールクロスなどに至る製造技術の進展の歴史は、ひろい意味で〈皮革〉をクロスにおきかえる営みであった。こうした歩みから見れば、日本クロスが合成皮革、人工皮革の生産に向かうのは、当然のなりゆきであった。
 「人工皮革」「合成皮革」は、当時ビニールレザーやレザークロスなどと呼ばれていた皮革類似製品とはまったく別物である。合成皮革とは、織物ベースに各種樹脂層を盛ったものである。一方、人工皮革とは不織布ベースにウレタン樹脂を含浸させたもので、その樹脂がミクロポーラス層をなしているため通気性があるのが特徴である。合成皮革にくらべて、より本革に近い特性をもっているのが人工皮革なのである。 
 最初に開発した合成皮革の製品は、1960年(昭和35)5月に発売した「ハイピール」である。東レのナイロン繊維を使用した不織布ベースにナイロン樹脂をコーティングしたもので、京都工場製造2課で開発した。
 当時、ナイロン樹脂による合成皮革には、ゴールドキッド(藤倉ゴム)、デラクール(東洋クロス)などがあったが、いずれもべースクロスは平織、綾織、メリヤスなどの織物ないしは編物であった。ハイピールはベースが不織布であるため、カットの自由性、伸縮度の均一性など不織布の特性を活かした新しい合成皮革であった。
 ハイピールは用途によって6タイプあった。柔軟な羊皮の感触をもつもの(Rタイプ)、前者を強度アップさせたもの(Qタイプ)、本革の用途を狙ったもの(Sタイプ)、床板用途(Pタイプ)、書籍装幀用途(Bタイプ)である。具体的には、カーコート、ジャンパーなどのスポーツ・カジュアル衣料、鞄・袋物、室内装飾、椅子貼り、車輛・船舶シート、スポーツ用具、手帳・アルバムなどの文具紙工製品、書籍装幀などが主な用途アイテムであった。
 1963年(昭和38)に完成したハイピールスエードは、ハイピールのバックスキン調の合成皮革であった。柔軟な発泡ビニールをベースにして、特殊接着剤によって植毛したもので、衣料用表素材として発売した。
 合成皮革テキソンの製品開発も1965年(昭和40)から始まっている。テキソンはアメリカのテキソン社との技術提携で誕生した新しい合成皮革であった。同社はアメリカの代表的なレザー、靴、カバン用の加工原紙・特種紙のメーカーであった。テキソン社との技術提携は、1963年(昭和38)に成立している。
 「テキソン」はアメリカのテキソン社によって開発されたコーティングベースである。ノバック方式とよばれる特殊な含浸技術によって、あらゆる種類の繊維と樹脂・ゴムなどを結合した合成素材である。日本クロスは同社のボトムフィード・レバースロールーコーターによる塗布技術とプリント・エンボス関連技術を導入、深谷工場で生産を開始した。「テキソン」をベースにして、塩ビペーストレジンをコーティングし、ソフトで強度のすぐれた合成皮革を開発した。最初の商品は、三省堂のコンサイス辞典の装幀用クロスであった。
 1965年(昭和40)前後になると、合成皮革と人工皮革がビニールレザーに代わって新しい素材として注目され始める。日本クロスでも合成皮革、人工皮革の新製品を数多く開発している。
 ロンデックスは1968年(昭和43)、京都工場で開発した衣料用合成皮革であった。ウレタン合皮にポリーヌ(塩ビ加工のファッション素材)のようなエナメル調の光沢をプラスしたファッション性の高い表素材で、ドライクリーニング性、アイロン適性をクリアするなど、機能的にもポリーヌよりすぐれた特性をもっていた。発売当時、大阪万博のエスコートガイドの制服に採用されるなど流行商品となった。主な用途はコート、ブレザー、ジャンパー、スカート、スラックスなどであった。このロンデックスのマット調タイプが1970年(昭和45)発売のマージョリーであった。
 シルベストはスエードタイプのファッション感覚にあふれた表素材であった。1969年(昭和44)に深谷工場で開発した人工皮革である。樹脂コーティングの後、バッフィング、染色、撥水処理したもので、玉虫調の色合いが特徴で、主な用途はおしゃれコートであった。
 靴・鞄・袋物用の合成皮革も、このころから本格的な製品が登場してくる。1967年(昭和42)、京都西工場技術課と製造2課で開発した「ハイニック」シリーズは、新しい袋物用途の合成皮革であった。
 ハイニックLは、基布にウレタン加工したソフトな合成皮革で、主な用途は鞄、袋物、スポーツ用具などであった。ハイニックS、ハイニック・エナメルは、ともに防寒靴、おしゃれブーツ、ポケッタブルシューズなどが主な用途であった。


人工皮革を独自開発

 人工皮革の開発は中央開発研究所が最初に取り組んだテーマであった。日本クロスが創業以来45年にわたつて育んできたコーティング技術と国産初の不織布を開発した製造技術との複合によって完成させた新製品であった。生産技術は日本クロスの独自開発によるものだが、ベースの原材料研究は日本レイヨン(現・ユニチカ)が担当、市場展開は両社の共同開発製品というかたちで出発している。
 日本クロスの人工皮革製品群の商標は〈アイカス〉、キャッチフレーズは〈天然皮革にかわる科学の革〉であった。アイカスの発表会は1965年(昭和40)8月、東京(9〜11日、大手町の産経会館)と京都(13日、クロス会館)で開催した。
 アイカスは主な用途を靴素材に絞って量産テストを開始、大手靴メーカー5社で2万足の靴を生産した。婦人靴素材として業界から高く評価され、同市場に本格的に参入した。
 アイカス製造課を京都東工場の一角に設け、同年6月に塗装機(C-3号機)を設置して、本格的な生産に入った。開発商品ゆえ生産販売にはとくに力をそそぐ必要があるとして、アイカス推進本部を7月に発足させた。
 アイカスにはスエードとスムーズの2タイプがあった。とくにアイカススエードは、婦人靴素材として業界から高く評価された。1966年(昭和41)7月の第2回ビニール展で、東京都知事賞、東京袋物商工組合賞を受けた。
 婦人靴用の需要増大とともに量産設備の導入が急務となり、深谷工場にアイカス専用工場を建設することになった。総工費4億円を費やして建設した新工場は、1967年(昭和42)5月に完成、月産5万メートルの生産能力をもって稼動態勢に入った。新工場では、それまでの主力製品であった婦人靴用スエードのほか、新製品のバッグ用素材の開発も進めた。


床材カーペットの開発

 日本クロスがニードルパンチの製法技術を導入したのは1963年(昭和38)であった。英国のニードル・ブランケットのトップメーカーであるランター社と技術提携、ニードルパンチ製造機とその技術を導入している。
 ニードルパンチ法による不織布は、繊維が機械的に絡んでいるだけなので、接着式の製品よりも柔軟性、弾力性、ドレープ性にすぐれていた。さらに加工を重ねて、現在ではさまざまな製品に用いられている。その代表的な製品にカーペットがある。そのほかフェルト、毛布、合成皮革用ベースなどもニードルパンチで生産している。
 当時の日本では、まだニードル不織布は用途模索の段階にあった。製品化を模索するなかで、まずは人工皮革のベースの生産に向かい、その技術をアイカスの基布づくりに応用した。
 ニードルパンチによる床材カーペットが、わが国に登場したのは1967年(昭和42)ごろである。発売されて2年目から急激に伸び、カーペット業界にニーパンブームをもたらすのだが、その発祥の地はアメリカであった。1960年(昭和35)ごろ、アメリカのオザイト社がニードルパンチによるカーペット製品を開発すると、短期間にアメリカとドイツで普及し、その流れが日本におよんできたのである。
 ニドルパンチカーペットが急速に伸びた要因については、生産面と需要面に分けて考えることができる。生産面では生産性の高い加工設備を開発し、量産によってコストダウンを実現したこと、需要面ではソフトな床材を求める消費者の嗜好変化があったことである。つまり従来の石材、木質材、塩ビタイルなどのハードな床材に代わって、ニードルパンチのようなソフトな床材への要求が高まってきたのである。ソフトフローリングに移行する時代の波にのったのがニードルパンチカーペットだった。
 ダイニックがニードルパンチカーペットに進出したのは、1968年(昭和43)からだった。深谷工場の第1工場の一角に2メートル幅の製造設備を設置、興人ブランドの「コザック」の加工を開始したのである。カーペットは当時、繊維メーカーとニードルパンチメーカーがタイアップし、製品は繊維メーカーのチョップで販売するケースが多かった。日本クロスも興人のコーデラン繊維の加工から出発したのであった。

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