国産初の織物接着芯地

ヨーロッパ生まれの新しい芯地
 わが国で初めて不織布の工業化に成功した日本クロスは、不織布芯地パネロンによって衣料縫製の市場に参入したが、やがて芯地というものの特性や衣料生産の将来的な見地から、織物ベースの接着芯地に着眼するようになった。
 接着芯地は現在は衣服の生産になくてはならない素材だが、日本での歴史はせいぜい30年あまりでしかない。わが国で初めて本格的な接着芯地の生産に着手したのは日本クロスであった。
 ひろい意味での接着芯地、たとえば仮接着タイプの製品は、それ以前にもないわけでなかった。けれども衣服づくりのシステムまで変えてしまう接着芯地は、〈ステーフレックス〉の登場まで待たねばならなかったのである。
 接着芯地とは、スーツやドレスなどの衣料品に使用され、芯地の機能を果たすある種の基布に熱可塑性の接着剤を塗布したものである。基布として使用される素材には、織物、編物、不織布などがある。接着芯地は一般的に基布によって分類され、織物接着芯地、編物接着芯地、不織布接着芯地などと呼ばれている。
 基布に塗布する接着剤には、ポリアミド、ポリエチレン、エチレン酢ビ共重合、ポリ塩化ビニール、ポリエステルなどの合成樹脂が使用されている。この接着剤の形状によって、ドットタイプ(点状に樹脂を配列)とシンタータイプ(樹脂を粒子にしてランダム散布)に分類される。つまり接着芯地は、〈基布の種類〉〈接着剤の種類〉〈接着剤の形状〉の組み合わせによって、さまざまなタイプが生みだされるのである。それは衣料品の表素材の種類、繊維の組成、衣料品の使用部位、デザインなどによって、使用される接着芯地も大きく異なってくるからである。
 接着芯地は第2次世界大戦後、ヨーロッパで開発されている。接着芯地による衣服づくりのシステムは、ミシン登場以来の革命とまでいわれたが、その背景には戦争による熟練縫製工の不足という時代的背景があった。熟練技術者でなくても縫製の仕事ができるシステムをつくろうとして開発したのが、芯地の接着による縫製システムだった。接着芯地を使用することによって、製造工程の短縮、完成品の均一化、衣服づくりの〈合理化〉が実現できるとあって、ますます接着芯地の需要が増大してゆき、さらには熟練工不足と労働賃金の上昇も加わって、1960年にはヨーロッパでは接着システムの衣服生産が一般的になった。接着芯地は生まれながらにして衣料生産の合理化を実現する工業化指向の新素材だったのである。


ステーフレックス社の技術を導入

 ヨーロッパで接着芯地が急速に伸びたのは、すでに衣服のレディメード化が80%を超え、アパレルが産業の一分野として確立されていたからである。
 日本クロスが接着芯地に着目して生産研究に取り組んだ1963年(昭和38)当時の衣服の既製化率は約40%ぐらいで、アパレル産業という業態も確立されていなかった。縫製業といえば、労働集約型の中小企業が中心で、きわめて保守的な体質をもつ業界だった。
 既製服業界がまだ未成熟な時代にもかかわらず、日本クロスが、あえて接着芯地の生産に乗りだしたのは、市場調査の結果、ヨーロッパの縫製革命がかならず日本にもやってくるだろうという確かな見通しがあったからである。現実に当時の日本の縫製産業でも、労働力不足、生産コストの上昇の兆しがあり、技術革新が必要となっていたのである。
 ヨーロッパの接着芯地について数年にわたって調査・研究のすえに、イギリスのステーフレックス社と技術援助契約を締結、1965年(昭和40)に同社の織物タイプ、編物タイプの接着芯地の生産・販売システムを導入した。
 1951年に創立さたステーフレックス社は、世界で初めて接着芯地の技術開発に成功した、いわば接着芯地のパイオニアである。ステーフレックス・インターライニング社という社名で出発したが、国外のライセンシーが増えた1963年、ステーフレックス・インターナショナル社に社名を変更した。日本クロスと技術提携した1965年当時、資本金は約4億5,000万円、ロンドン周辺に数カ所の工場・事務所を構え、販売網はヨーロッパ全域、南北アメリカ、インド、東南アジア、アフリカにおよび、接着芯地に関しては世界のトップメーカーであった。


縫製革命の旗頭

 日本クロスが接着芯地ステーフレックスの生産・販売を開始したのは1966年(昭和41)3月からである。最初の生産設備を1965年(昭和40)12月、京都西工場製造3課に導入した。同設備は、S-1機と呼ばれたシンタータイプの製造設備であった。1966年(昭和41年)3月から本格的に稼動を開始し、月産35万メートルを目標とする生産体制と販売体制を組織した。
 既製服化率が40%前後という当時の市場環境にあって、導入期のステーフレックスは、まずシンタータイプの商品群を整備、既製服化率の比較的高い婦人服分野を狙うとともに、ドットタイプ(ブランド名はソリドット。当初は輸入)でコート分野を開拓することによって、全面接着システムの基盤づくりを図った。
 ドットタイプの製造設備を導入したのは、1968年(昭和43)9月である。同設備(S-2号機)を深谷工場に新設し、月産50万メートルの生産能力をもって稼動を開始、ソリドットの本格生産に向かった。S-2号機の導入と同時に、京都工場に設置していたS-1号機を深谷工場に移設し、月産90万メートルの生産体制を確立した。両設備とも1972年(昭和47)に京都工場の無公害工場構想から再び京都製造3課に移設することになった。
 ドットタイプの接着芯地「ソリドット」シリーズは、ステーフレックス社が1964年(昭和39)に開発した全面接着用の芯地であった。接着樹脂を点(ドット)状にして、規則的に配列されているのが特徴で、表生地と芯地の接着面積がせまいため、ソフトな風合いと安定した接着性を実現したのである。このソリドットこそが全面接着縫製という新しい衣服生産のシステムを完成させたのである。同システムによる衣料縫製は、ミシン開発以来の革命であるとまでいわれた。それは合理化と品質の向上を同時に実現したからであった。日本クロスがソリドットの生産を始めた当時、ヨーロッパでは4着のうち3着までが全面接着による縫製システムでつくられていた。さらに労賃コストの上昇が接着芯地の需要をいっそう高めつつあった。
 ドットタイプの新しい生産技術・設備の導入によって、ステーフレックスの紳士服市場への本格展開が始まった。当時の紳士服業界は、工業化へ向かういわば過渡期にあった。ようやく既製服の需要も高まり始めていたが、労働力の不足が慢性化、生産コストアップ、労働生産性もきわめて低いという状況だった。このような背景から技術革新が模索されるようになってきた。初めのころは省力化という観点から、接着芯地ステーフレックスは浸透していったのである。 


モノとシステムを売る

 ステーフレックスの販売は、モノとしての接着芯地のみを販売するのではなく、接着芯地による新しい縫製システムを商品ととらえて、顧客に提供するという方式であった。
 縫製メーカーの経営者から企画担当、デザイナーに至るまでそれぞれの顧客に新しい考え方を売りこみ、それまでの衣料生産に関する観念を根本的に見直してもらうこと、つまり発想の転換を促すというのが、ステーフレックス社で開発された販売システムの理念であった。日本クロスではステーフレックス社から生産技術とともに販売システムを導入し、国内市場の状況にマッチした内容に改編して、具体的な展開を図った。
 商品を素材として販売するだけではなく、商品をベースにして〈モノづくり〉をユーザーに提案するという営業のありかたは、当時の日本クロスにとって、まったく新しい試みであった。そういう意味で、ステーフレックス社との技術提携は、日本クロスの営業のありかたを大きく変えたといえる。
 商品そのものと、その商品による〈モノづくり〉を顧客に提案する。そのためには接着縫製について、つねに新しいシステムの開発が必要だった。その中心的な役割を果たす部署として、営業部内に縫製研究室を設けた。営業部内に技術スタッフを設けたのは、日本クロスでは異例のことだった。
 縫製研究室は教育・指導・啓発・研究の4機能をもつ販売促進部署で、発売と同時に関西・関東地区に設置した。関西地区は当初、京都の中央開発研究所内で出発したが、大阪営業所の設置とともに、大阪市東区谷町に移転している。関東地区は1969年(昭和44)4月、東京都千代田区神田多町に設置し、その後、東京支社内に移設した。東海地区は1978年(昭和53)、名古屋営業所の開設時に設置し、翌年岐阜に移転した。
 現在でこそ接着芯地は衣料副素材の一分野を占め、芯地といえば接着芯地を指すほどになっているが、ひろく使用されるようになったのは昭和40年代半ばあたりからである。それはアパレル産業の発展と歩を同じくしている。当時の日本の衣料縫製産業は〈既製服卸売業〉といわれ、まだ労働生産性の低い分野であった。省力化と高付加価値生産をもって既製服卸売業からアパレル産業へと脱皮するのが昭和40年代半ばからである。生産の大型化によって、縫製工場にも最新の製品管理システムが導入され、〈工業〉というにふさわしい体制が採られてゆく。そういう業界の変貌と既製服化率の向上という消費構造の変化が相乗効果となって、接着芯地の需要増大をもたらしたのである。
 ステーフレックスの生産は、1970年(昭和45)から急伸、1972年(昭和47)には、月間100万メートルを突破した。

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