最新設備でビニールを多様化

発泡タイプのビニール
 1960年(昭和35)から1970年(昭和45)にかけては、ビニール部門の設備拡大を集中的に行った。
 1962年(昭和37)、京都工場製造2課にRC-1機(トップフィード、レバースコーター)を新設した。ビニールタイプの装幀用クロスの需要増大に対応するための設備強化である。同設備の導入によってビニールのペースト加工技術を確立し、辞典用(上製本)薄手ビニールクロスが完成している。このクロスは有斐閣の六法全書や手帳類の装幀に使用された。
 発泡タイプのビニール生産に進出したのも、このころからである。1963年(昭和38)には、西独ホフマン社製コーター、英国エドメストン社製の型出機を導入した。
 当時、ホフマンは日本に2基しかない最新鋭設備であった。2月に付帯設備工事にとりかかり、8月に設置を完了している。両設備の導入により、ペースト発泡技術、非発泡加工技術、カレンダーとの併用技術などペースト加工に関する諸技術を集大成した。新設備の稼動によって、衣料用発泡レザー、国鉄貨車シート、ナイロン合羽などの製品が新しく登場した。
 国鉄貨車シートは、全面採用が決まった1962年(昭和37)から本格生産を開始している。ビニールシートが登場するまでは、麻ベースに乾性油をコーティングしたものが使用されていた。当時、国鉄の貨車は4万輛、総需要量は約300万メートルと推定されていた。4年ごとに新調されるから年間需要は75万メートルになる。研究は1955年(昭和30)から始めたが、当時の貨車は無蓋貨車が一般的で、幌としての役割を果たすには耐熱・耐寒性をあわせもたねばならなかった。南は鹿児島から北は北海道におよぶ日本列島内の気温格差、さらに走行中の気温変化が加わる。この両条件をクリアできるビニールシートが求められていたのである。そこでビニロン、ナイロンを基布にして、カレンダーとコーティングの技術を使い分けて、1957年(昭和32)に150車輛分の試作品をつくった。国鉄では北海道から九州までの各鉄道管理局を通じて5年間にわたって実用テストを実施した。その結果、クラレのビニロン基布の製品が合格した。国鉄貨車シートは、日本クロスの独占となり、コンテナー輸送になるまでつづいた。


「壁紙」「ターポリン」など

 1964年(昭和39)、京都工場、東京工場に次ぐ第3の工場として建設した深谷工場を、ビニール専門工場とし、西独チンマー社製のメルトコーター(N-1号機)、米国レインボー社製のラミネーター(N-2号機)、市金工業製のレバースロールコーター(N-3号機)などを設置した。
 ラミネーターによるPVCフィルムの基布貼り合わせ、メルトコーターによるPVC加工、ボトムフィードレバースロールによるコーティング技術が完成した。これをきっかけに、ビニールシート、テント類、高級合羽、車輛の天井貼りレザー、壁紙などの製品開発を活発に展開していった。
 1967年(昭和42)には、製品の広幅化が求められるようになり、西独チンマー社製のメルトコーター(N-4号機)を新設し、深谷工場は名実ともにビニール専門工場となった。
 京都工場のビニール製造部門である製造2課では、このころターポリンの新しい加工技術の開発を進めていた。ターポリン加工については日本クロスがわが国の先発メーカーであった。国鉄貨車シートを独占するなど、当初は華々しいものがあった。しかし、もともと薄手の製品から出発したせいもあり、その後は主に雨衣に力をそそいだため、後発の専門メーカーに追いあげを許していた。また価格的な問題に加えて、とくに強度が劣るという技術上の問題が追いあげを許す原因となっていた。
 研究開発は京都工場技術課と製造2課が中心になって進め、1967年(昭和42)に新しいターポリンの開発に成功した。それは変性ポリエチ・ターポリンと呼ばれ、ポリエチレンと醋ビとを共重合した新しい樹脂によるものであった。この新しいターポリンの特徴は、摂氏マイナス60度まで耐えられるという超耐寒性をもち、さらに無毒性、耐油性にすぐれていることであった。それまでの塩ビターポリンは、耐寒配合のものでも冬季には硬化し、また可塑剤を使用しているため、毒性があって養魚水槽や活魚の輸送袋には使用できないという欠点があった。変性ポリエチ・ターポリンは、これらの問題点をすべて解決し、新しい市場を開いたのであった。
 1966年(昭和41)から1967年(昭和42)にかけて、ファッション素材として話題となった新製品のひとつに「ポリーヌ」がある。ビニールレザーの一種で、メリヤスの基布にビニールを塗布、さらに特殊加工した製品であった。それまでのビニール製品とちがって、軽くてソフトな風合いをもち、エナメル調のファッション素材としてコート類に使用された。ポリーヌを発売した1967年(昭和42)には、ヨーロッパでエナメルコートが大流行し、ポリーヌも流行商品として映画やテレビに登場した。ポリーヌにはエナメル調とモミ皮タッチのマット調とがあった。
 深谷工場では、1967年(昭和42)にナイロン合羽を新しく開発している。当時、陸上用の合羽として、薄手でありながら強度をもつタイプが求められていた。当時、ウェブロックというランダムに糸が入った塩ビ製品が登場、市場で高く評価されていた。ウェブロックに対抗するために、旭化成のナイロンを使用、模様をあらかじめ印刷したフィルムを両面に貼り合わせる方法で開発したのが「ナイロン合羽」であった。


フレキシブルコンテナー

 1968年(昭和43)から69年(昭和44)にかけて、フレキシブルコンテナー(以下フレコンと略称する)の需要が増大したため、深谷工場は設備の拡大に向かっている。
 フレコンは、固体(とくに粉状体)の輸送に反復使用される「通い袋」である。ターポリンを使用してウェルダー縫製を施し、上下に投入口と排出口を設けて吊りバンドを付したものである。平均500キロから2トンの粉状体をフレコン一袋で輸送できるといわれている。
 フレコン用ターポリンはナイロンとポリエステル織物をベースに、PVC、EVA樹脂で両面加工したものである。
 フレコン用ターポリンの技術は京都工場で開発したが、需要の増大とともに深谷工場でも製造するようになった。1969年(昭和44)、深谷工場は大谷重工製の逆Lカレンダー(24インチ×72インチ、N-5号機)、バンバリーミキサー、ミキシングロール2台を新設、コンテナー、EVAコンテナー用ターポリンをはじめ、広幅ターポリン、薄手ターポリン、EVAコンテナーの各品種を生産した。当時京都・深谷の両工場で生産していたフレコン用ターポリンには、帝人テトロンコンテナー、旭化成ナイロンコンテナー、ユニチカナイロンコンテナーなどがあった。
 樹脂塗料の研究も積極的に進めた。たとえば1968年(昭和43)に開発した防鼠塗料は、田辺製薬との共同研究によって開発したもので、鼠忌避剤「ナラマイシン」を配合したものであった。この塗料の開発により防鼠加工合成樹脂フィルムを被覆したフレコン用ターポリンが完成したのである。コンテナー用だけでなく、ターポリンの用途は、各方面にひろがっていった。1969年(昭和44)に深谷工場で誕生した「ユニターポ」は、木材燻蒸用シートとして開発したナイロンターポリンである。塩ビフィルムに強力なナイロン糸を織りこみ、従来の塩ビシートより5倍の強度をもつなど耐久性にすぐれていた。半透明タイプであるため、足場の安全性を確保できるなどの特性もあった。
 プール素材としてターポリンが使用されたのは、1968年(昭和43)旭化成から発売された組立式グランドプールに使用された。カラフルなプールには、日本クロスのターポリンが使用されている。特殊加工技術による変性ポリエチ・ターポリンであるため、暑さ寒さに変質せず、しかも軽量で腐食しないという特性をもっていた。

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