タテ・ヨコの事業拡大

過渡期の試練
 日本経済にとって、1970年代は高度成長から安定成長へと軟着陸する大きな転換期であった。国内経済が投資主導型から消費主導型に移行したのも、このころからである。
 社長の坂部三次郎はこうした経済状況を背景にして、1970年(昭和45)の年頭に〈経営の多角化〉を提唱した。『クロス社内報』新年号(68)で「1970年代に突入する姿勢としては、全く新しい分野の開拓を強く打ち出し、日本全体の経済成長をはるかに上回るような生産及び売上の向上を図らねばならない」と述べ、もはや現状の延長では企業としての成長はのぞめないという認識に立って、「……より一層広い見地に立ち、経営の多角化を進め、売上の増進、並びに利益の確保に努めなければならない」と結論づけている。多角化の方向は、「高級な又は、大量に消費されるものの製造販売を行なうと同時に、余暇を楽しむレジャー産業等、第3次産業への変革」に取り組むことであった。
「今後の多角化は、もっと次元の高いものに発展させなければならない。たとえば当社が原材料として使用しているものを製造するとか、逆に当社の製品で、最終末端 製品を製造販売することもその一つであるが、全然ちがった分野に進出することも、今後の課題として大きく取り上げる必要があろう」(『クロス社内報』70)とあるように、「タテ・ヨコの事業拡大」が、1970年(昭和45)から始まる経営多角化の理念だったのである。
 1970年(昭和45)当時、日本クロスの従業員は約1,200人に達していた。京都、東京、深谷の3工場体制が確立され、大阪営業所も軌道に乗って、東京支社とともに東西の営業拠点は強化された。
積極拡大をめざす企業としてのフレームが完成しつつあったが、1970年(昭和45)から1972年(昭和47)にかけては、いわば飛躍に向かう過渡期であった。売上高の平均伸び率は4%、利益はむしろ減少傾向にあった。赤字に転落したわけではなかったが、増収・減益がつづいた。とくに染工部門の不振が多大な影響をあたえていた。
 停滞を打破するために「経営の多角化」を新しいテーマとして採択する一方、京都工場の公害対策、染工部門の再建、人工皮革アイカスからの撤退などが、重要な経営問題として浮上してきた。
 低迷していた業績に回復の兆しが見えたのは1972年(昭和47)の後半からであった。同年の後半期(第107期)に増収・増益に転じ、1973年(昭和48)の後半期(第109期)には、売上高は100億円を突破した。第107期から第110期にかけての約2年間(当時は6カ月決算)は、昭和40年代で最も業績好調な時期であった。
 オイルショックという戦後最大の不況が迫るなかで、昭和48年度(1973年5月〜74年4月)の売上高は195億円で前年比47%増、経常利益は前年比で約3倍になった。後半期だけを見ると売上高107億円で前年比50%増であった。原価高騰による売価改定によるところも大きかったが、半期ベースで初めて100億円を突破したのである。


2年を要して黒字転換

 オイルショックの影響が業績のうえに現れてくるのは1974年(昭和49)からであった。昭和49年度(1974年5月〜75年4月)は、売上高175億円、経常利益はマイナス5億5,000万円。赤字に転落するとともに長期不況にのみこまれていった。最悪の事態を乗りきるために有価証券や不動産を売却、体質改善に全力をそそいだ。
 日本クロスは1974年(昭和49)8月に社名をダイニック株式会社に改めている。ところがダイニックとして迎えた最初の決算期である第113期(1975年5月〜76年4月)は、前年度を上回るきびしい決算であった。売上高は190億円と増収ながら、営業利益で4億9,000万円、経常利益で11億9,000万円の欠損となった。オイルショック後にやってきた日本経済の構造変化に対応できなかったのである。1975年(昭和50)の売上・生産高を200億円と想定して資金計画、人員計画を策定、設備投資を行っていたが、オイルショック後の減速経済への対応は、まさに180度の方向転換だったのである。
 体質改善のために「緊急対策」を実施することになり、第113期中の1976年(昭和51)2月27日付で、社長通達を発した。「利益中心の経営に徹する」ことと、「超緊縮財政の実行」がその内容であった。具体的には棚卸資産の減少、不良品の処分、資産売却、残業禁止、経費削減など24項目をあげ、3月から実施した。第1次・第2次の緊急対策により、同年7月には固定費5,000万円の削減に成功、9月より第3次の6項目の実施に入った。固定費の削減が急務だったが、人員の削減には手をつけなかった。「人間中心」というダイニックの経営理念にもとるからだった。人員削減問題について社長の坂部は、「人員の削減は社内の信頼関係を傷つけ、人間関係を悪くする。また資産の売却は企業体質を悪化させる。共に決して良い方法ではないが〈人の和〉を社是とする当社に於ては人員の削減は行わない」(『ダイニック社内報』96)と述べている。
 緊急対策はすぐには効果を現さなかった。第114期(1976年5月〜77年4月)の業績は、売上高は218億円で増収となったが、経常利益は四億6,200万円の赤字であった。緊急対策をさらに強化し、「抜本策」を打ち出さなければならなかった。1977年(昭和52)2月から東京本社の狭山移転を含む強力な減量経営諸策を実施した。それでも第115期(1977年5月〜78年4月)は黒字に転換するにはほど遠かった。だが1978年(昭和53)後半期には大幅な改善効果が現れ、経常利益でマイナスの2億1,300万円(売上高220億円)と赤字幅が減少した。回復の足どりは第116期(1978年5月〜1979年4月)から確かなものになり、売上高237億円、経常利益2億2,200万円を計上、およそ2年を要して黒字に転じることができた。


東京・京都の2本社制へ

 1969年(昭和44)11月発足の新組織も5事業本部の体制で、総合本部、技術本部、営業本部、生産本部、染工事業部をもって構成した。組織改正の狙いは、部門評価システムの導入と需要家指向体制の確立にあった。
 営業本部は、東京営業部と大阪営業部に分かれていたが、このとき東西一本の市場別組織に改編された。クロス販売部、産業資材販売部、衣料資材販売部、合成皮革販売部、開発部の5つの販売部を営業本部の下に設けたのである。
 業績の低迷がつづいていた染工事業部は、再建策を模索したが、規模縮小に踏み切らざるをえなかった。工場も京都工場から分離して、染工場と呼ばれるようになり、染工業務部の呼称も染工営業部に変更した。
 1972年(昭和47)の組織改定は、5月と8月に行った。5月の組織改定の狙いは営業本部の一部改編にあった。営業活動の合理化、新分野の開拓、開発機能の強化を狙って、住宅資材販売部、外国部、市場開発部、営業管理部を発足させた。8月の新組織はライン部門の一本化が狙いであった。それまで染工事業部は、加工中心という業態の特殊性ゆえに工場機能と営業機能をあわせもつ独立した存在であった。ライン部門であるにもかかわらず生産本部からも営業本部からも独立していたのであるが、このとき初めて生産本部内に組み入れられることになったのである。染工事業部の生産本部への編入によって5本部制から総合本部、営業本部、生産本部、開発本部の4本部制となった。
 1973年(昭和48)8月の組織改定の目的は、大阪営業所を支社に昇格させることと、京都本社とは別に東京支社に本社機能を集め、京都・東京の2本社制を敷くことにあった。
 総合本部を本社機構の中心に位置づけ、社長室、人事部、財務部、京都総務部、東京総務部で構成した。東京本社の発足により、財務部と京都総務部をのぞいて、他の部門はすべて東京に集め、このときから実質的な経営の中枢を東京本社に移管した。東京本社を本社機能をもつ事業所として強化したが、それに先だって移転している。東京支社は神田橋第1ビルと長谷川第5ビル(総合企画部)に分散していたが、業務の拡大にともなってスペースの不足が顕著となり、1973年(昭和48)3月、長谷川第12ビル(千代田区神田岩本町3)に全面移転した。大阪営業所も2本社制にともない大阪支社に昇格、翌年4月には現在の新高麗橋ビル(東区高麗橋)に移転した。
 1970年(昭和45)から1973年(昭和48)にかけて、生産、販売、人事、財務、設備、企画の本社機能を順次各工場から東京本社に集約したが、それはEDPSを中核にしていた。そういう意味で全社の情報管理、管理機構の整備にEDPSは、きわめて大きな役割を果たしたということができる。
 本社機能の確立という所期の目的を達した1973年(昭和48)から、いわば改善期を迎えた。現場業務に密着したEDPSをめざして、マシンの大幅な能力アップを図り、同年1月、新機種FACOM230-15、230-25の導入を決定した。処理能力の大幅向上、3工場へのEDPSの本格的導入、現場管理のレベルアップを図ることが目的であった。同年5月、本社にモデル25、京都・東京・深谷の3工場にモデル15を設置した。マシン・チェンジは同年7月に終了、新機種による業務が始まった。改善期の新しいテーマは商品評価システムの確立であった。


6事業本部制へ

 日本クロスからダイニックへと社名を変更した直後の1974年(昭和49)8月18日、事業本部制の強化のため、4事業本部制を6事業本部制に改め、それまで総合本部に属していた財務部と経理部を分離し、財務本部に集約した。さらにTQC活動を強化するために新しくQC推進本部を設けた。開発体制も手直しし、生産本部内にあった技術部と施設部を、従来の技術開発本部(中央開発研究所、開発部)と合体して開発本部とした。6事業本部のアウトラインは、次のとおりであった。

総合本部 社長室 人事部 総務部 ダイニックグループ部
財務本部 財務部 経理部
開発本部 中央開発研究所 開発部 施設部
営業本部 クロス販売部 住宅資材販売部 産業資材部 衣料資材販売 部 国際部 市場開発部 営業管理部 福岡営業所 札幌営業所
生産本部 京都工場 東京工場 深谷工場 生産管理部
QC推進本部 -

 1970年代になって、市場指向の体制を強化してきたが、1975年(昭和50)9月1日付の組織改定で、営業本部の機能強化のため、生活用品販売部と車輛資材販売部を新設した。


ラインとスタッフの明確化

 1976年(昭和51)からおよそ2年間は、日本経済は高度成長から低成長に移行するいわば過渡期に突入、ダイニックにとっても苦難の時期だった。業績の低迷もからんで、社内組織をめまぐるしく変えることになった。たとえば1976年(昭和51)だけでも、3度の組織改定を行っている。
 1976年(昭和51)2月の組織改定は、それまでの6本部制をベースに、ラインとスタッフを明確に分離するのが狙いであった。営業本部と生産本部のライン部門は、生販担当専務のもとに集約、財務本部、QC推進本部のほか、企画、研究開発、管理、労務(従来の総合本部、開発本部)の各部門をスタッフとして集約した。管理者に幅広い責任と権限を与え、少数精鋭主義によって組織の簡素化を図るのが狙いであった。なお6本部とは別の枠組みで、不織布事業本部を設けた。ダイニックブループの傘下にあった東京アセテートを吸収合併したためである。ダイニックの不織布部門に東京アセテートの生産・販売機能を統合することによって、不織布事業の拡大をめざそうとしたのである。
 5月1日付の組織改定では、専門職の導入、販売促進機能の充実など制度上の改革のほか、新工場のための建設準備委員会を設置した。この年の春に京都工場の滋賀への新築移転が決定しており、具体的な構想を練る段階にさしかかっていたからである。


タテワリの事業本部制へ

 1976年(昭和51)11月の組織改定は、事業本部制の仕組みそのものを改編する大幅なものであった。それまでの6事業本部制は、機能別のヨコワリの組織であったが、11月8日に発足した新組織は、販売、製造、開発の各機能を一元化したタテワリの事業本部制であった。需要動向に応じて、各市場に即応した事業展開が図れるように、3つの事業本部を核にしてライン部門の組織をタテワリに一元化したのである。〈販売部〉とその担当製品を生産する工場の〈製造課〉をセットにした新組織の3事業本部は、次のとおりであった。

第1事業本部 クロス クロス販売部 クロス製造部(京都工場) クロス製造1課 製造2課 インクリボン製造課(東京工場
第2事業本部 衣料用途
不織布関連
衣料用途販売部 生活用品販売部 ステーフレックス製造課(京都工場) 特殊コーティング製造課 合成皮革製造課(京都・深谷両工場) 不織布製造課(深谷工場)
第3事業本部 インテリア
人工皮革
合成皮革
工業用途
インテリア販売部 工業用途販売部 ビニール製造課(京都・深谷両工場) カーペット製造課(深谷工場

 1977年(昭和52)11月の組織改定の狙いは「緊急対策」と名付けた減量経営の推進にあった。東京本社の企画管理部門を大幅に縮小、本社機能を狭山(東京工場)に移転した。京都府向日市にあった中央開発研究所は滋賀工場の建設にともなって閉鎖、その機能を滋賀工場技術センターに集約した。
 ライン部門も一部改編した。3事業部の構成には変化はなかったが、「事業本部」を「事業部」に改めた。第1事業部にビジネス用途販売部を設け、インクリボンとパスブックなどの市場開拓、販売促進の体制を強化した。第2事業部には合成皮革の生産・販売部門を集約し、これによって衣料関係を含めた合成皮革の総合展開ができる体制になった。
 1978年(昭和53)11月の組織改定の狙いは、事業部制の拡大にあった。3事業部体制を見直して、ダイニックの商品と市場戦略に即応した体制にするために、新しく3事業部を設けた。第4事業部を総合インテリア部門とし、壁紙、壁装材などの拡販・量産を図るために、第3事業部から分離独立させたのである。
 第5事業部は衣料用芯地部門として第2事業部から独立した。そのころNCステーフレックス・シンガポール、ステーフレックス・テキシフーズ社(ホンコン)の株式を100%取得、海外を含む縫製市場をにらんだ展開が急務となっていたことから、芯地事業を一元管理する事業部としたのである。
 第6事業部は末端商品の生産・販売部門であった。それまで第2事業部にあった生活用品販売部に加えて、加工商品販売部を新しく設けた。川下戦略の一環として誕生した事業部で、ダイニックにとっては新しい試みであった。

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