グループ経営で多角化

複合企業をめざす
 ダイニック、当時の日本クロスの「経営の多角化」が本格化するのは1970年(昭和45)からである。現在でいうところの分社経営だが、その構想は坂部三次郎が「積極的多角経営と人間中心経営」(『私の経営』所収)のなかですでに明らかにしていた。

 企業にはいろいろな種類がある。製造業、商社、第3次産業といった分類もあれば、鉄鋼業界、家庭電気業界、繊維業界といった業界別分類もあろう。しかし、私はどのように分類され、内容が違っていても、企業である以上その経営方法には共通したものがあると考えるのである。その共通部分を十分研究し把握して、それをソフトウェアとし、多角的に経営を拡大していくことが私の多角化のやりかたである。したがって、中心的企業であるダイニックの仕事と直接関係を持たない種類の仕事であってもかまわない。

 グループ経営による複合企業化の構想は次つぎに具体化され、1975年(昭和50)にピークを迎えている。結果的に見ると1977年(昭和52)ごろまでを第1期とすることができる。
 国内を中心に進めたグループ化の狙いは、〈素材産業からの脱皮〉にあった。完成した素材の加工、応用技術の育成を心がけるとともに、末端の情報を新しい素材の開発に結びつけることが課題とされた。したがってグループ化は別会社の設立にとどまらなかった。新会社の設立のほか、合併、合弁事業、技術提携、販売提携まで含む幅ひろいものであった。
 合併のケースとしては、東京アセテートの吸収合併がある。東京アセテートはダイセルの子会社として、1952年(昭和27)に設立されている。アセテート織物の販売会社としてスタートし、1954年(昭和29)にアセテートのプリーツ加工を開始、1960年(昭和35)には不織布メーカーになった。1966年(昭和41)ごろから、販売面で業務提携を進めていたが、1971年(昭和46)になって、ダイニックが同社の親会社ダイセルから全株式を取得した。同社はダイニックグループの一員になったが、オイルショックで赤字に転落、1975年(昭和50)には朝霞工場の設備をダイニック深谷工場に移設、生産の合理化を進めた。さらに経営安定化のために、ダイニックの不織布部門と有機的に連動させて効率化を図らねばならなかった。このような背景から1976年(昭和51)から合併の準備を進め、1977年(昭和52)9月、ダイニックに吸収合併した。
 1973年(昭和48)からは海外展開が活発になってゆく。9月にNCステーフレックス社をシンガポールに設立したのを手始めに、10月には香港にステーフレックス・テキシフューズ社を設立した。さらに翌年にはフェルトロック社(アメリカ・ロードアイランド)、ダイニックアメリカ社(アメリカ・ニューヨーク)と合弁による海外進出がつづいた。


素材産業からの脱皮――ニック工芸ほか

 グループ化の〈第1ステップ〉では、自然発生的に誕生したグループ会社がほとんどだったが、1965年(昭和40)から始まる〈第2ステップ〉では、はっきりとグループ化を意識して設立した関連会社が多い。たとえばこの期に設立したニック工芸、フレスタインテリア、ニックファブリックなどは、ダイニック製品を素材として使用し、2次製品による事業展開をめざした。
 ニックファブリック株式会社は1975年(昭和50)4月、大阪(東区高麗橋3ー28、新高麗橋ビル)に設立した。設立当初の役員は会長坂部三次郎、社長植村秀春、従業員は3人であった。当初の資本金は300万円だったが、1979年(昭和54)に倍額増資により600万円となった。
 同社はダイニックの素材、とくに特殊コーティング製品を中心とする2次加工製品の販売を目的に設立した。染工部門の撤退にあわせて設立した同社は、長年培ってきた染工営業のノーハウと人材の活用による新しい販売会社であった。主な営業品目はドッキングクロス、各種繊維織物、ニット製品、オシメ布、スリッター関係、帽材、テープ、不織布プリント製品などであった。なかでもドッキングクロスと繊維織物ニット製品(ブラウス用表生地)が主力商品であった。素材販売ではなくユーザーの企画に参画して商品を育成してゆくというところに同社の特徴があった。スタート当初の年商は5,000万円にすぎなかったが、きめ細かい営業政策を貫き、5年後には約3倍にあたる1億7,000万円になった。
 フレスタインテリアも1975年(昭和50)7月、大阪(東区高麗橋3の28新高麗橋ビル)に設立した。同社の設立意図は、室内装飾分野への進出にあった。トーシキインテリアとの合弁によるもので、資本金は500万円、出資比率はダイニック67%、トーシキインテリア33%であった。会長は坂部三次郎、社長は奥村晴雄、従業員は8人であった。
 同社はインテリアのコンサルティングから販売、施工、アフターサービスまでを担当、壁紙、カーペット、クッションフロアー、カーテン、ブラインドなどを中心にトータルインテリア会社をめざした。
 ニック工芸株式会社はノベルティ商品の企画・開発、販売を目的として、1976年(昭和51)10月、資本金600万円で設立した。同社は、もともとは西宮工芸という人工皮革テキソンの代理店で、テキソンによるノベルティを生産・販売していた。ダイニックの素材の用途展開を図るためにダイニックが資本参加し、新会社として発足させたのである。会長に坂部三次郎、社長に笹山和夫が就任、本社は京都市(右京区西京極大門町26)におき、旧西宮工芸の工場を西宮工場(西宮市津門大塚町7番5号)とした。
 同社はテキソンによるノベルテイ、文具商品約30アイテムをもってスタート、1979年(昭和54)からは人工皮革アイカスによる高級文具(五番街シリーズ)を製作するなどノベルティ業界での足固めを進めた。1979年(昭和54)5月には倍額増資によって新資本金を1,200万円として、経営の多角化をめざした。
 株式会社ニカブは、1979年(昭和54)12月、当時ダイニック東京本社があった長谷川第12ビルで発足した。資本金は500万円、会長に坂部三次郎、社長に市木孫資が就任、従業員は6人であった。同社は、いわばダイニックのパイロットショップ、ブティック、ホビーショップ、軽食・喫茶などをジョイントした店舗で構成していた。いわば実験的な試みであったといっていい。洋服類をはじめ洋品・雑貨、鞄・袋物、ファンシー商品、ノベルティの販売に加えて、軽食・喫茶コーナーを設けたショッピング・スポットであった。ダイレクトに最終消費者との対話をめざすというユニークな試みであったが、1979年(昭和54)、東京本社のサインシャインビルへの移転にともなって閉鎖した。


第3次産業へ進出――ニック産業

 ダイニックグループのなかで、健康・スポーツ部門とホビーショップを展開するニック産業は異質の存在であった。もともとはボーリングを中心とするレジャースポーツを狙って出発した会社である。1969年(昭和44)12月、京都市右京区西京極大門町に設立、当初の資本金は1,000万円、社長は河野幸夫、支配人は大西史郎であった。
 設立と同時に京都東工場南側の遊休地にボーリング場を建設し、1970年(昭和45)7月に最初のボーリング場(七条ニックスポーツプラザ)をオープンしている。総工費4億円のボーリング場には、AMFマシン36レーンを設置した。当時はボーリングブームのピーク期とあってオープンと同時に大盛況となり、さらに1センター増設することになった。2番目のボーリング場は右京区の嵯峨広沢の地に建設、1971年(昭和46)12月、「嵯峨ニックスポーツプラザ」としてオープンしている。AMFマシン52レーンを設置、200台収容の大駐車場をもつボーリング場であった。さらに翌1972年(昭和47)には、七条ニックを増設し、40レーンからなる第2センターを開設した。
 ボーリングブームは1973年(昭和48)春をピークに低落の一途をたどった。さらに設備過剰からくる値下げ競争が追討ちをかけ、ニック産業の業績はにわかに悪化し、売上高は年ごとに半減するというありさまだった。
 七条ニックを閉鎖するなどして減量経営を進める一方、併設事業としてホビーショップの開設を模索した。
 ホビーショップへの足がかりは、1974年(昭和49)8月に開設した日曜大工店(嵯峨ニックホビーショップ)である。70坪のスペースで始めたが、市場調査が不十分だった。当初の売上高は月商100万円にとどまり、完全な失敗であった。小売店経営の研究を初めからやりなおし、主婦層を対象にした日曜大工店、家族全員が楽しめる店をめざして再出発した。日曜大工用品だけでなく、釣具、インテリア、台所用品、カー用品、サンリオ商品、園芸用品などもそろえた。レジャー商品の導入、品ぞろえの改善により、半年後の売上高は700万円(月商)になった。そこで店舗を150坪に増床し、1975年(昭和50)には、月商1,500万円となるまで順調に伸びた。
 嵯峨ニックホビーショップの成功にあやかって、1976年(昭和51)6月、閉鎖していた七条ニックスポーツプラザを七条ニックホビーショップとしたところ、開店後ほどなくして月商1,500万円に達するという盛況ぶりだった。
 ボーリング部門も1978年(昭和53)から復調の兆しが現れてきた。1979年(昭和54)にはアジア大会の正式種目になるなど、ボーリングが健全なスポーツ競技として見直されるようになってきたためである。またピーク時には63センターもあった京都のボーリング場が、当時は18センターに減少していたという環境も復調の伏線となった。
 1975年(昭和50)8月に設立したニック保険サービス株式会社は、もともとはニック産業から分離独立したグループ会社だった。同社の設立に先立って、嵯峨ニックは大正海上火災保険(株)の代理店として損害保険の代理業務を開始していた。この部門を法人として独立させたのがニック保険サービスだったのである。京都市右京区西京極大門町36の7 七条ニック内に本社を設置、資本金50万円で発足している。会長は坂部三次郎、社長は石丸昇、従業員は3人であった。当初は火災保険、総合保険、ファミリー交通傷害保険、長期総合保険、住宅団地専用保険などの代理業務で出発した。その後、各種生命保険も取り扱うなど業容を拡大したが、1981年(昭和56)に設立したニック不動産(現在のアポロ興産)に吸収された。


蓄積技術を活かす――ニック環境サービスほか

 ニック工業株式会社は、日本クロスのコーティング技術を用いて新しい事業展開を図るため設立した。当初は東芝ニック工業(株)として、1969年(昭和44)8月、日本クロス深谷工場内で発足した。東芝とのジョイント・ベンチャーで、設立資本金は2億円、出資比率は東芝51%、日本クロス49%、社長は琢磨清(東芝)であった。
 同社は東芝の電子複写機(東芝オートファックス)で使用される湿式感光紙の生産でスタートしている。オートファックス用感光紙の自社生産をめざしていた東芝は、日本クロスのコーティング技術に注目、1968年(昭和43)5月に日本クロスと業務提携に発展、1969年(昭和44)1月に新会社設立の事業化計画を決定した。
 塗装設備と塗料供給設備は1969年(昭和44)11月に設置された。東芝と日本クロスはそれぞれ技術者を派遣してプロジェクトチームを結成して感光紙の技術開発を進め、1970年(昭和45)3月から本格生産を開始した。設備上の問題から品質の安定に時間がかかり、量産できるまでに3年を要した。1973年(昭和48)から、ようやく業績も安定してきたが、乾式複写機が主流になるという市場環境の変化で大きな転機を迎えることになった。こうしたなかで東芝もPPC乾式複写機を開発したのに合わせて同機用の現像剤(粉体)を開発しようとしたが、技術的にも設備的にも限界があった。
 1976年(昭和51)12月、東芝と協議の結果、東芝所有の株式をすべて譲り受けることになった。東芝ニック工業は日本クロスの100%出資の会社となり、社名も「ニック工業株式会社」と改めて、1977年(昭和52)1月に再出発することになったのである。社長は中本虎造、従業員は27人であった。再発足にあたって東芝ニック工業時代の事業のうち、乾式現像剤のセット化をのぞき、湿式感光紙と現像液の製造を引き継いだ。
 ニック環境サービス株式会社は、ダイニック中央開発研究所の蓄積技術、設備、人材をベースに設立したグループ会社である。新会社の設立に先立って、ニック環境技術センターを組織して設立準備を進め、1972年(昭和47)10月に発足させた。資本金は1,000万円、事業所は中央開発研究所(京都府向日市物集女)内に設けられた。会長に坂部三次郎、社長に前田東作が就任した。
 事業内容は公害関係の分析・測定、公害防止に関する技術・情報サービスとコンサルティング、公害処理設備の販売、公害処理薬剤の販売などのほか、飲料水試験、薬剤分析、作業環境の測定と広範囲におよんだ。
 設立の背景には公害・環境問題が深刻化していた時代状況があった。企業の社会的責任がきびしく追及されるようになり、排水や煤煙など排出物に規制基準が設けられ、測定義務が企業に課せられた。
 ニックパワーズ株式会社は、ダイニックのエンジニアリング部門が独立して新会社となったグループ会社である。京都工場の原動課と生活サービス課が母体となっている。設立は1975年(昭和50)7月、資本金は1,000万円、本社は京都市右京区宮の東町1におかれた。会長は坂部三次郎、社長は尾崎貴一、従業員18人であった。事業内容は生産施設の総合計画・設計、機械設備の設計・製作・設置工事、土地・建物の斡旋・購入・販売、さらには造成・建設設計・施工など幅ひろい業務を扱った。


物流機能の強化――ニックフレート

 ニックフレート株式会社は、ダイニックグループの物流担当部門である。1971年(昭和46)5月、資本金1,000万円で埼玉県所沢市(大字城599)に設立、社長には当時大和紙工専務であった市川満哉が就任している。
 当時は、コンテナーやフレートライナーなど新しい輸送システムが登場、また高速道路網が整備されるなど運輸革新の時代であった。流通の近代化、物流機能の効率化を図ることが同社設立の目的であった。そのころダイニックの各工場の製品の輸送は、運送会社数社に外注していた。京都工場、東京工場、深谷工場は、それぞれ異なるシステムで配送業務を行っていたため重複輸送が生じるなど、効率上問題をかかえていた。そこで仕上げ段階から保管・輸送を垂直統合し、グループ全体の流通を総合化して合理化を進めることが急務となっていたのである。
 新会社設立の準備は大和紙工で進め、まず大型車輛1台を購入、東京・京都間の定期便を始めた。東京工場、京都工場、深谷工場と連係しながら、業務の基礎づくりを進め、1970年(昭和45)8月には所有車輛5台、従業員10人に規模を拡大、1971年(昭和46)3月に陸運局より運送許可を取得した。7月17日、大型車3台を含む8台の車輛で東京・大阪間の定期便の運行を正式に開始した。
 同社の業務は倉庫、運輸、情報処理、物流加工の各機能を統合した物流サービスであった。各営業所・倉庫(所沢・滋賀・深谷)とダイニックの工場を結び、物流の拠点として商品輸送の合理化を図った。さらにダイニックと直結したコンピュータ・システムにより情報集約と業務の円滑化を図るなど、充実した物流サービス機能をもってダイニックの動脈となっていった。


海外に生産拠点――NC・ステーフレックス社ほか

 ダイニックの〈グループ化〉第2ステップの大きな特徴のひとつは、海外進出である。台湾につづいて、NCステーフレックス社(アジア地区)、フェルトロック社(アメリカ)などの生産拠点、さらにはステーフレックス・テキシフューズ社、ディンフェル社などの販売拠点を設置することになった。
 台湾につづく海外第2の生産基地はシンガポールであった。1973年(昭和48)9月、シンガポールのジュロン地区にNCステーフレックス社を設立した。
 NCステーフレックス社(NC STAFLEX CO.,PTE.,LTD. )は、ダイニックとイギリスのステーフレックス社との合弁でスタートした接着芯地の生産工場である。両社の対等出資で、設立資本金は5万シンガポール・ドル(円換算500万円)、代表取締役は坂部三次郎、ウィリアム・レオであった。
 設立と同時にシンガポールの工場地域として知られるジュロン地区の7,000坪の敷地と建物を政府機関ODCから貸与を受け、最新鋭の生産設備を設置して、1974年(昭和49)5月から本格操業に入った。従業員は30人であった。
 同社は主原料の綿布をパキスタンから輸入して、接着芯地ステーフレックスの生産を開始したが、当初はネットコーティングによるシャツ芯地が中心であった。このシャツ芯地でアジア、オセアニア地区向けの輸出を開始した。1975年(昭和50)、1976年(昭和51)の増資で新資本金を300万シンガポール・ドルとしたが、共同経営のむずかしさもあって、当初の経営はかならずしも順調とはいえなかった。
 1978年(昭和53)9月、ダイニックはステーフレックス社と5年におよぶ合弁関係を解消、NCステーフレックス社を 100パーセント出資のグループ会社として再出発させることにした。これにともない会長に坂部三次郎、マネージングデレクターに松村恭一が就任した。
 創業から五年目の1979年(昭和54)度には、売上高は1億2,000万シンガポール・ドルに達し、従業員は85人になった。販売地域は香港、タイ、マレーシア、シンガポール、スリランカ、オーストラリア、ニュージーランドのほか、ダイニックの仲介貿易で韓国、台湾にもおよんだ。
 NCステーフレックス社と連動して設立された販売会社にステーフレックス・テキシフューズ社がある。
 ステーフレックス・テキシフューズ社(STAFLEX TEXIFUSED, LTD.)は、1973(昭和48)10月、香港で発足した。当初はステーフレックス・インターナショナル100パーセント出資の会社で、資本金は2万香港ドルであった。設立目的は、接着芯地のメーカーであるNCステーフレックス社と密接な関係を保ちながら、世界の縫製基地となりつつあった東南アジア地区の市場開発を図ることにあった。
 同社もまたステーフレック社の蹉跌とともに、ダイニックが全株式を取得することになった。1978(昭和53)9月、資本金を25万香港ドルに増資、チェアマン坂部三次郎、マネージングデレクター松村恭一の体制で再出発した。同社は香港市場を中心に台湾、韓国への輸出窓口としてその役割を果たした。
 ステーフレックス・テキシフューズ社と時期を同じくして、やはり香港に設立した販売会社がもう1社ある。フランスのフェラリー社との合弁で発足させディンフェル社である。
 ディンフェル社は1974年(昭和49)12月、資本金30万香港ドルで設立したが、ダイニック、フェラリー社の対等出資によるジョイント・ベンチャーであった。社長にはミゲール・フェラリー、専務には水谷博が就任した。
 同社はフェラリー社の各種デザインテント素材とその付属品をアジア各地に販売するために設立した会社である。ダイニックは1973年(昭和48)からフェラリー社と販売提携を結び、同社のテント素材を国内で販売していたが、ディンフェル社の設立によりアジア市場での販売の足がかりを得たのである。三角貿易、3国間貿易の拠点として発足したものの、香港をはじめとするアジア諸国では、デザインテントの需要が予測したほど期待できないことが分かり、やむなく1978年(昭和53)に清算することとなった。
 ダイニック・ホンコン社(DYNIC(HK)LTD.)は、1979年(昭和54)3月、資本金20万香港ドルで設立し、会長に坂部三次郎、マネージングデレクターに近藤哲夫が就任した。
 同社はもともとはダイニックの香港駐在所であったが、ステーフレックス・テキシフューズ社、ディンフェル社の営業基盤を引き継いでスタートした。設立の狙いは、ダイニック・グループ製品の輸出、原材料の購入、海外での情報収集、資金調達などにあった。
 スタート当初はブッククロスを販売していたが、商標布ニックセブン、接着芯地ステーフレックスを主力にするようになって業績を急速に伸ばした。シンガポールのNCステーフレックス社や台湾科楽史工業の製品の扱い量も増え、アジア地区の貿易拠点として重要な地位を占めた。
 海外の生産拠点づくりは東南アジアだけでなくアメリカでも進められた。ダイニックのアメリカ進出は1979年(昭和54)のフェルトロック社の設立に始まる。
 フェルトロック社(FELTLOC INC.)は1974年(昭和49)3月、資本金10万USドルで設立した。会長は坂部三次郎、社長は高橋睦雄であった。同社は木綿を主素材とする不織布を製造、ディスポーザブル市場への参入をめざした。ニューヨークの北に位置するロードアイランド州に建設された工場は、敷地2万坪、建物は2千坪であった。同年6月から本格操業を開始した同社は、オフセット印刷機用の製版材料清掃用資材の生産を本格的に始め、さらに化粧関係、メデイカル用途の不織布の開発をめざした。


充実期を迎える―台湾科楽史、ニックほか

 グループ化の第一ステップで誕生したニック、福岡クロス工業、台湾科楽史、桂工業、大和紙工などは、いずれもこの期に充実期を迎えた。
 大和紙工では独自の技術開発を積極的に進め、合理化、省力化を目標にして、いくたびか設備の改廃、増設を行ってきたが、新規に導入した機械設備でも、そのまま使用したものは1台もなかった。すべて改善を加えて稼動させるのが同社の特徴であった。設備改善のモデルケースになったり、特許、実用新案の登録を受けたシステムも多い。たとえばギロチンカッターの安全性の向上にも、早くから眼を向けている。神奈川県から初めて補助金をもらって完成させた安全装置付きのギロチンカッターは、労働省の認定第1号になった。1973年(昭和48)に開発したSE装置(1987年に特許認定)は、省力化システムとして画期的なものであった。このほか自動包装、自動巻取り、自動ラベリングなど実用新案を申請したものも数多くあった。
 桂工業は創業9年目の1973年(昭和48)12月、倍額増資により、新資本金を2,000万円とした。同社は創立以来ダイニック京都工場とともに発展してきた。したがって京都工場の滋賀移転は桂工業にとっても大事業となった。同社の滋賀移転も1976年(昭和51)4月より計画的に進められた。ダイニック滋賀工場が竣工した1978年(昭和53)の3月に本社を移転、工場の建設は滋賀工場第2期工事にあわせて5月から着手した。作業場を滋賀第1工場の西側に建設し、創立15周年にあたる1979年(昭和54)の3月から移転を開始した。
 滋賀移転後の桂工業は、約5年間を基礎づくりに充て、京都時代の機械設備を一新、新鋭機を相次いで導入した。油圧式巻取検反機を開発するなど、独自の技術革新も積極的に行った。移転から5年後には、従業員84人のうち現地採用者が70人を占めるようになり、名実ともに地域社会に根をおろす存在となった。
 福岡クロス工業は高性能絶縁クロスを製造するユニークなグループ会社だったが、持ちまえの開発力でこの期に急伸した。技術開発力に定評があった同社は、自社技術によって防水麻テープ、電線被覆用半導電テープ、粘着テープなどを開発、創業10年目の1973年(昭和48)には、月商約1億円を計上するまでになった。3度にわたる増資で資本金は4,500万円、従業員は60人に達した。1970年(昭和45)5月には、新宮工場(福岡県粕屋郡新宮町)を建設、製造部門を全面移転している。1979年(昭和54)には、工業標準化工場として福岡通商産業局長賞を受けるなど、技術と品質に生きるメーカーになっていった。
 フラワー商品で出発したニックは社屋のスペース不足から、1973年(昭和48)2月、千代田区神田小川町3-22第3大丸ビルに移転している。フラワー商品の驚異的な伸びはとどまるところを知らず、翌年4月には100万セットの販売を達成した。フラワーの成功をきっかけに、ホービー商品の底辺拡大に努めたのも1973年(昭和48)からだった。アメリカの有力ホビークラフトメーカーと提携、商品と技法を導入し、1977年(昭和52)1月からニックアイディアクラフトとしてクイリング、デカロン、デカルイット、レザークラフトなどを発売した。さらに手織機、ミンククラフト、デコパージュ、切り絵、パッチワークなど一連のホビー商品群を手がけ、ホビー業界の先導的な役割を果たした。ホビークラフト教室やショップの開設を進めるなど、商品とソフトウエアをトータル化した新しいマーケティングで成長をつづけ、1978年(昭和53)4月、増資を行い、資本金を3,300万円とした。
 ダイニックにとって最初の海外生産拠点であった台湾科楽史工業股份有限公司は創業2年目を過ぎるころから黒字に転じ、1972年(昭和47)2月期から株式配当を行っている。同社の基礎づくりが完了した段階で、天岡淳(福岡クロス工業社長)が薫事長を引き継いだ。
 生産規模の拡大とともに工場も増設し、1971年(昭和46)6月には第2工場、1976年(昭和51)には第3工場が完成している。3工場体制となった同社の工場敷地は約6,600平方メートル、工場の建物は3工場合わせて1,980平方メートルとなった。1978年(昭和53)10月の塗装機の新設とともに、塗装設備を第3工場に移設・集約することになった。これによって塗装(第3工場)、型押し・印刷(第2工場)、仕上げ・保管(第1工場)という物流システムが整備された。
 実質的に操業を開始してから10年目に当たる1978年(昭和53)には、従業員40人をかかえ、レザークロス、レザーペーパーを中心に、絆創膏、粘着テープ用NAクロス、商標布、造花クロスなどを主な製品としていた。年商は6,300万元(円換算約3億8,000万円)、このうち日本、東南アジア向け輸出は985万元(同約6,000万円)であった。

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