国際化の時代

第2次石油危機を乗りきる
 1979年2月に起こった「イラン革命」は、第1次オイルショック後、小康状態にあった世界の石油情勢を再び激動させた。革命前後の混乱による影響で、サウジアラビアに次ぐOPEC第2の石油大国・イランの石油生産が激減、原油市場のスポット価格が急騰した。石油輸出国機構(OPEC)は同年1月から数次にわたって原油価格の段階的引き上げを決定、78年末の1バレル=12.7ドルが80年末には32ドルと約2.5倍に跳ね上がった。いわゆる「第2次石油危機」である。
 石油価格の高騰は世界経済をはげしく動揺させたが、日本経済に関していえば、きわめて冷静に受けとめていた。その後4年間におよぶ景気調整を強いられたが、第1次石油危機後のような過大投機・便乗値上げによる〈狂乱物価〉は起こらず、〈買い溜め〉に奔走することもなかった。
 企業は過去の教訓を活かして減量経営を推進、第1次オイルショックのときのような過剰在庫と値崩れを回避した。さらに省エネルギー、合理化投資を積極的に展開、先進国の中でもハイレベルの生産性向上を実現した。その結果、消費者物価の上昇を一ケタ台に押さえ込み、国際競争力はいちだんと高まった。
 オイルショク後の日本経済は輸出を順調に伸ばし、再び経常収支も構造的な黒字時代を迎えた。なかでも自動車、半導体などの先端商品はたちまちアメリカ、EC諸国をしのぐようになった。
 半導体(IC)の生産は、もともとアメリカが先発国であった。質量ともにすぐれた技術開発力と多国籍化戦略で、世界のIC市場の約3分2、LSIでは約80%を占めていた。ところが日本の半導体メーカーの16ビット、64ビットという高性能半導体の量産設備が稼動し始めると様相は一変してしまう。1980年(昭和55)2月、日米間の半導体貿易バランスは逆転、とうとう日本からの対米輸出が輸入を上回ってしまったのである。
 日本の自動車生産台数も1980年(昭和55)になって1,000万台を突破、800万台のアメリカをぬいて世界一になった。アメリカ市場の17%が日本車に占領され、フォード、クライスラーの両社は赤字に転落した。産業界は大きな打撃を受け、アメリカ国内に苛立ちがつのり始めていた。
 アメリカでは、日本製品への風当たりが強くなり、日米貿易摩擦へと発展していった。日本は輸出の自主規制や市場開放を強いられ、あらゆる分野で自由化を推進しなければならなくなってゆくのである。


世界一の債権国・日本

 対米経済摩擦は、やがて大きな政治問題に発展してゆく。アメリカは日本に対して、輸出型から内需型への経済構造の転換を求め、工場進出などによる対外投資の拡大、農産物貿易の自由化などを要請してきた。さらに財政赤字に悩むアメリカは、防衛費の増加を強く求めた。日米の関係は財政を含む経済全般の摩擦にまで発展していった。ECとの貿易摩擦もひろがり、日本は輸出の自主規制や市場開放につとめたが、1985年(昭和60)には経常収支が500億ドルを突破して、世界一の経済大国となるのである。
 アメリカは対外威信と海外からの資本輸入のためにドル高政策をとっていたが、撤回せざるをえなくなってしまう。1985年9月22日、ニューヨークのプラザホテルで開かれたG5(5カ国蔵相・中央銀行総裁会議)で、ドル高を是正するため、各国が協調して為替市場に介入することを申し合わせた。この「プラザ合意」にもとづいて、5カ国が外為市場でいっせいにドル売りを開始、ドルは主要国の通貨に対して大幅に切り下げられた。円の対ドル・レートも1985年(昭和60)9月の237円から、1988年(昭和63)1月には128円へと、かつて経験したこともない大幅な上昇を記録した。
 その結果、鉄鋼、造船など重厚長大型産業の輸出は減少した。しかし自動車をはじめ通信機器などのハイテク産業の輸出増大はとどまるところがなかった。円高という条件に合わせて生産合理化が進められたからである。日本の1986年(昭和61)の貿易収支の黒字額は827億ドルとなり、対前年比で322億ドルという大幅なプラスになった。
 世界一の債権国になった日本に対して、アメリカはきびしい眼を向けるようになる。1987年(昭和62)3月の半導体ダンピング問題、東芝ココム違反事件などをきっかけに、異例の報復措置へと発展、1988年(昭和63)には包括貿易法案がアメリカ議会で成立する。EC諸国もアメリカの動きに同調、日本は苦しい立場に追いこまれた。
 対外的には貿易競争から生じた経済摩擦、国内的には大量の赤字国債をかかえ、行政改革、財政改革、金融改革などが、日本経済の新しい課題として浮上してきたのである。


情報革命と国際化

 ハイテク産業といわれるエレクトロニクス、バイオテクノロジー、新素材などが成長産業として登場してきたのも1980年代であった。
 第3次産業革命といわれるニューメディアによる技術革新、情報革命が進み、全産業を通じてファクトリーオートメーション(FA)が導入された。大企業だけでなく中小企業にもロボットが導入された。オフィスオートメーション(OA)といわれるコンピュータを中心とする事務合理化も進んだ。大企業の間接部門だけでなく、工場の管理部門、さらには自治体、農協、生協、学校などあらゆるところに、OAの思考が導入されていった。
 日本企業の海外進出、部品や製品の輸入が急増したのもこのころからである。そのきっかけは1985年(昭和60)のG5以降の円高基調の定着である。労賃コストの低い新興工業国からの部品調達は、以前から進められていたが、プラザ合意以降、生産拠点の海外移設が活発になった。1985年(昭和60)当時、日本の製造業は、アジアで約2,000社、アメリカで約350社、ヨーロッパで約200社が生産活動を展開、〈産業の空洞化〉が懸念されるようになった。
 モノの国際化はやがてカネの国際化をもたらしてゆく。1970年代までの国際金融都市といえば、ロンドンとニューヨークであったが、1986年(昭和61)ごろから東京の外為取引高が増大、東京はたちまち国際金融市場として重要な位置を占めるまでになった。外国の資金が東京に流入するだけでなく、日本の過剰資金がマネーゲーム感覚で、海外に向かってゆくようになるのである。


バブル現象、そして昭和から平成へ

 1986〜1990年(昭和61〜平成2)の5年間に3大都市圏の土地価格(公示価格)は2.5倍に高騰した。とくに東京圏の地価は1986・1987年(昭和61・62)の2年間に2倍に跳ね上がるという狂乱ぶりであった。「プラザ合意」当時1万2,000円台だった東証ダウも、1986年(昭和61)になると急騰し始め、1989年(平成元)末には3万8,915円という史上最高値をつけた。地価と株価の高騰の相乗効果による「資産インフレ」が、いわゆる「バブル」現象なのである。
 バブルの遠因は「プラザ合意」にある。急激な円高による景気の落ちこみをおそれた日銀はテコ入れのため、3年にわたって積極的に金融緩和政策を実施した。公定歩合は1986年(昭和61)1月から5回も引き下げられ、1987年(昭和62)2月から1989年(平成元)5月まで2.5%という超低金利時代がつづいた。
 公定歩合の引き下げと円高による内需拡大効果で景気は1986年(昭和61)11月から上昇に転じたが、ドルが予想以上に低落して、G5諸国はドル安を食い止めるために〈協調利下げ〉を強いられた。さらに1987年(昭和62)10月のニューヨーク市場の株式大暴落(ブラックマンデー)にともないドルが急落してしまった。日本は世界一の対外債権国であるがゆえにドル価格の維持のため、G5のなかで最後まで超低金利政策をとりつづけなければならなかった。この長期にわたる超低金利が大規模な土地・株式投機を誘発し、「バブル」の引き金になったのである。
 善くも悪くもバブル時代の日本経済は旺盛な設備投資と個人消費に支えられ、長期好況を謳歌するのだが、そのさなかの1989年(昭和64)1月7日、昭和天皇が111日におよぶ闘病のすえに崩御、〈昭和〉から〈平成〉へと時代は移った。

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