経営改善で飛躍の基礎固まる

減量経営を推進
 創立60周年当時のダイニックは、国内17社、海外6社の企業集団となり、グループの従業員総数は1,800人に達していた。京都工場の滋賀移転という社運をかけたビッグ・プロジェクトも完遂して新しくスタートしたが、この期の業績は一進一退を繰り返した。1980年(昭和55)4月期(第117期)の業績は、前期につづいて増収・増益(売上高276億円、経常利益4億1,200万円)となったが、1981年(昭和56)4月期(第118期)には一転して大幅減益になった。売上高は286億円と前期を上回ったものの経常利益は9,600万円であった。特別利益を計上して、かろうじて当期利益を出すというありさまであった。
 第2次オイルショックの影響がこの期に集中した。石油価格の高騰によって卸売物価が上昇、インフレ抑制のための金融引締政策が収益面に大きな影響をおよぼしたのである。さらに公定歩合の上昇によって支払利息が増大、業績の足を引っ張る結果になった。
 4年におよぶ苦難の時期を経て赤字体質から脱出、企業体質の強化に向かおうとしたときに、再び大幅な減益に転落してしまったのである。経営の合理化、財務体質の改善、商品力の強化などが緊急テーマとなった。経営改善策の狙いは、当時の売上高レベル(24億円/月)で黒字を実現することにあった。そのためには、借入金の減少と固定費の削減が急務となり、事業所・関連会社の統廃合、組織の簡素化、不採算部門の閉鎖などを順次実施した。
 1982年(昭和57)4月期(第119期)の業績は、売上高291億円、経常利益790万円であった。経常利益は黒字に転じたが、関連会社の不良資産約8億円あまりを特別損失として計上、当期利益は7億円の欠損となった。
 1983年(昭和58)4月期(第120期)は、売上高は297億円と微増にとどまったが、経常利益は2億円と大幅に改善した。販売・開発に対する積極的な取り組み、さらには一連の減量策の効果によるものであった。
 1984年(昭和59)4月期(第121期)以降の業績は順調な足どりであった。
 第121期は売上高こそ306億円(前期比2.7%増)だったが、営業利益(前期比36.4%増)、経常利益(213,7%増)とも大幅に改善した。また過去の累積損失、関係諸会社の不良資産をすべて整理、企業体質の強化を図った。
 創立65周年を迎えた1985年(昭和60)4月期(第122期)は、売上高322億円、経常利益6億4,400万円と、ほぼ前期なみに終わったが、業績に安定化のきざしが見えてきた4年ぶりに株式配当を復活、記念配当1円を含め1株当たり4円の配当を行った。
 1986年(昭和61)4月期(第123期)、1987年(昭和62)4月期(第124期)は、一進一退に終わったが、1988年(昭和63)4月期(第125期)から業績は飛躍的に向上した。第125期は売上高341億円、経常利益9億8,500万円と大幅な増収・増益、つづく第126期は決算期変更で11カ月ながら、売上高336億円、経常利益10億9,900万円を計上し、実質的に増収・増益になった。
 グループ会社を含めて減量経営を推進しながら、設備投資や新規事業に重点的に経営資源を配分するという経営改善策が、創立70周年ごろになってようやく実を結んだのである。


財務体質の改善

 ダイニックにとって数年来の課題は財務体質の改善であった。1985年(昭和60)ごろから不良資産の解消につとめるなど、体質改善をめざしてきたが、自己資本比率の向上という観点からは満足のゆくものではなかった。資本金も16億円レベルという現状からみて、明らかに過小資本といわなければならなかった。増資を含む資金調達が求められていたが、1988年(昭和63)になってようやく業績が好転、時価発行増資の実施、転換社債、ワラント債(西ドイツ)の発行へと向かった。
 初めての時価発行増資を1988年(昭和63)9月に行った。公募によるもので、規模は250万株(1株=1,351円)であった。増資によって新資本金は9月1日付で33億3,430万円となった。
 同年10月、国内で転換社債、西ドイツでワラント債を発行した。転換社債の発行総額は40億円、転換価格は1,351円 利率2.7%であった。ワラント債(新株引受権付きの社債)は、発行総額6,000万マルク(円換算約43億円)であった。
 資本金は、転換社債の株式への転換が進むにしたがって1989年(平成元)3月以降、月単位で変遷していった。3月末には33億8,300万円、4月末には41億3,700万円、5月末には45億3,200万円、創立70周年記念日を迎える8月には45億7,600万円となった。
 1980年代半ばからの業績の回復、さらには財務体質の改善によって、各工場の設備の更新・拡大、自動化投資、ALINDAをはじめとする新規事業への進出、第2ステップの海外進出に向かうのである。


環境との共生を考える――ダイニック・アストロパーク天究館の開

 1987年(昭和62)8月の新組織で、滋賀事業本部に〈文化事業プロジェクト〉が発足した。同プロジェクトは滋賀工場内に新設する〈ダイニック・アストロパーク天究館〉を核とする文化事業の推進母体であった。
 「工場のなかにある天文台」として知られるアストロパーク天究館は、民間最大級の天体観測設備をもつ本格的な天文台である。将来を担う青少年のための施設として位置づけ、ひろく一般にも公開している。
 社会還元を念頭においた文化事業を展開するのは、ダイニックの創業精神と無縁ではなかった。ダイニックの前身である日本クロスは、教科書をはじめ書籍装幀用クロスの生産でスタート、つねに教育というものに深く関わってきた。天究館は創業以来、教育・文化の向上を希いつづけてきた原点に立ちもどり、企業活動の一環として設立したのであった。いわば企業総体としての歴史の延長線上に位置しているのである。「天文公園」建設構想は当時の社長・坂部三次郎の悲願でもあった。

 京都本社工場が移転の必要に迫られ、工場用地を探していたときである。ある会社から滋賀県多賀町にあった工場跡地を買ってくれないか、といわれ、現場を視察に行った。琵琶湖の東、彦根から少し山ふところにはいったところにあるその土地は、東と南を鈴鹿山脈に囲まれ、空が暗い。暗い夜空は天文観測に関するかぎり絶好の条件である。移転用地としては少々ひろ過ぎるが、私はその土地を一括で買うことにきめた。会社に余裕ができたら、その土地の一角に天文台を建てられる。
 昭和五三年に工場が完成すると、知り合いの天文学者、村山定男さんと藤井旭さんに立地条件の鑑定をお願いした。天文台をつくるに、ふさわしい場所……。お二人の言葉は、私のもくろみとぴったり一致した。会社のほうも余裕ができ、創立七〇周年の記念事業として、天文台づくりに取り組むことになった。(「星空へ、にぎあう夢の窓」『わが心の望遠鏡』所収)

 アストロパーク天究館は、滋賀工場の敷地内にある。工場のなかにある稀有な天文台である。モノを生産するだけでなく、「人間と自然の調和」「心の豊かさ」を究めてゆこうとするダイニックの象徴的な役割をこの天文台は果たしている。
 天究館(館長・米田康男)は1987年(昭和62)に完成、68回目をかぞえる創立記念日の8月18日に開館した。
 天究館には天体観測施設のほか、天文関係資料の展示室、研修宿泊施設などがある。天体観測施設は、国立科学博物館名誉館員の村山定男氏と白河天体観測所の藤井旭氏の全面的なバックアップによって完成した。村山定男氏からは天文台の場所の選定、望遠鏡の機種決定、運営についてアドバイスを受け、藤井旭氏からは天文台の施設のありかたについて適切な助言を得た。
 60センチ反射望遠鏡(ドーム付き)をはじめ、20センチ反射写真機、20センチ反射赤道儀など、高性能の天文観測機器を設置している。いずれも日本で第1級の設備と評価されている。
 展示コーナーには隕石、蘇州天文図など天文学の基礎、歴史などが学べる多くの資料を展示している。研修宿泊施設は、研修室と約50人が宿泊できる宿泊室からなっている。
 アストロパーク天究館は開館当初から、テレビ・新聞・雑誌などで大きく取り上げられてきた。民間では数少ない天文観測施設だけに、天文ファンはもとより、多数の小・中学生の見学者がつめかけている。
 天究館を核にして、天文愛好者による「友の会」が結成され、「親と子の天文教室」も発足、定期的に天文講座を開いている。四季おりおりのイベントも活発で、星空観望の集い、移動星空観望会、映画やビデオの鑑賞会、ミニコンサートなどを催し、一種のコミュニティセンター的な役割も果たしている。
 数多くの小惑星を発見するなど、天究館は独自の天体観測活動でも成果をあげている。1989年(昭和64)1月に、館員の杉江淳が初めて発見した小惑星は、正式に国際中央天文台から認定され、地元の多賀町にちなんで「多賀」と命名された。小惑星の第一発見者には命名権が与えられるが、「狭山」「深谷」など、ダイニックと縁の深い地名や人名にちなんだ命名がなされている。
 開館から2年目の1989年(昭和64)になると、来館者は地元の滋賀県や京阪神だけでなく全国にひろがった。同年7月には国内アマチュア天文界の最大グループ、東亜天文学会の年次総会が天究館で行われている。
 来館者のピークは夏の7〜8月で、毎年2,000人を超えている。夏休みのこの季節には、少年少女を対象とする「親子フォーラム」、子ども会などの地域活動、小・中学校の天文教室や天体観望会などが活発に行われるからである。
 星空の神秘に触れ、夢とロマンを育む場として設立された天究館は、教育が本来担うべき役割と使命を、代わって果たしているといえる。工場のなかにある天文台……それは「モノ」を生産するだけではなく、「環境との共生」をめざすダイニックの象徴的役割を担っているのである。

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