世紀末の荒波に漂流」

戦後50年と阪神大震災
 1995(平成7)は「戦後50年」の節目の年だったが、年初めには阪神大震災、2月には「オウム真理教」事件が起こり、いずれも日本を根底から揺るがした。
 阪神大震災では25万戸の家屋が倒壊し、死者は6,430人にのぼった。被害総額は約9兆円にのぼり、全国の資産の約0.8%にあたる財産が一挙に失われた。災害の規模もさることながら、大都市のもろさというものが明らかになり、防災対策、危機管理、緊急医療だけでなく都市開発のありかたさえも根本的な見直しを迫られた。強固と思われた物質文明が一瞬のうちに崩壊したのである。戦後50年、経済の面では成果をあげながら、意外と底の浅い日本のありようを露呈したかのようで、きわめて象徴的な出来事であった。
 震災による自粛ムードは全国的にひろがり、個人消費が冷えこんで、緩やかではあるが回復しつつあった景気を失速させてしまった。同年3月にはメキシコの通貨危機をきっかけにして、円相場は1ドル=100円台から80円台へと2割も急騰、4月には一時、1ドル=79円75銭と史上最高値を記録した。急激な円高は国内企業に合理化を迫り、工場をアジアなど海外に移設するケースが増加した。7月にはコスモ信組、8月には第2地方銀行の最大手である兵庫銀行と信組最大手の木津信組が相次いで経営破綻するなど金融不安も表面化してきた。昭和恐慌以来の深刻なデフレに突入するという声が高まり、デフレ懸念が景気の先行きに暗い影を投げかけた。
 企業の過剰設備と100兆円もあるという金融機関の不良債権というバブル期の負の遺産を抱え、もはや景気循環論によるV字型の回復はのぞめないことがはっきりした。規制緩和や構造改革が叫ばれるなかで1996年(平成8)11月、金融改革や省庁再編など構造改革をかかげて、第2次橋本龍太郎内閣が発足したが、円安、株安で日本経済の先行きに不安がひろがった。
 景気停滞が株価の下落をもたらして金融システムを動揺させ、それがまた景気の足を引っ張るという悪循環、そんななかで1997年(平成9)になると、金融機関の破綻が相次いだ。1997年(平成9)には日産生命、三洋証券、北海道拓殖銀行、山一証券、徳陽シティ銀行とつづいたのである。とくに都市銀行の北海道拓殖銀行と4大証券のひとつの山一証券の破綻は預金者や投資家に大きなショックを与えた。
〈つぶれることはない〉と人々が信じてきた金融機関が倒れて、日本的システムに綻びが目立ち始めた。


スパイラル型のデフレ不況

 1997年(平成9)7月、「経済再生内閣」という旗印をかかげて、小渕恵三内閣が発足したが、おりから世界経済は減速、日本経済も戦後最悪の不況を迎えていた。タイ通貨バーツの急落で始まったアジアの経済危機はASEAN各国だけでなくドミノ倒し的に韓国にまで波及、1998年(平成10)になるとロシア、中南米にまでひろがった。先進各国からのアジア地域への輸出や投資が減少しただけでなく、石油や非鉄金属などの需要の減退は、一次産品への依存度の高い中南米諸国の経済さえも揺るがして、世界的にデフレ圧力を強めたのである。
「日本列島総不況といっても過言ではない」
 経済企画庁長官の堺屋太一は1998年(平成10)8月、このようなきびしい認識をしめした。政府が景気判断で「不況」という言葉を使うのは異例であった。国内総生産(GDP)は、1997年(平成9)10月〜12月期から連続でマイナス成長を記録して、「総不況」というほかない状況にあった。
 銀行、証券、保険などをのぞいた819社の1998年(平成10)3月期の決算は売上高が前年同期比0.6%減、経常利益が同5.1%減で4年ぶりに減収減益となった。企業倒産も増え、民間調査機関の帝国データーバンクによると、1998年(平成10)上半期(4月〜9月)の企業倒産件数は1万件を超え、半年の倒産件数としては84年下半期以来、14年ぶりに1万件を突破した。
 価格の下落が企業収益の悪化をもたらしたことから、売上の確保をねらった企業はさらに価格を抑えたために、いっそうの価格下落を招いてしまった。1998年(平成10)の日本経済は「デフレスパイラル」型の不況が顕著となった年だった。金融機関の貸し渋りによる倒産件数も増大して、金融システム不安が企業の収益悪化にも大きな影響をもたらした。
 バブル時代に過剰設備を抱えた日本経済の大きな需給ギャップ、消費税の5%への引き上げ、金融不安による消費マインドの冷却が不況の原因であった。需給ギャップを埋めようとして企業は設備の縮小や人員削減などリストラを本格化させていった。5工場の閉鎖、2万5,000人削減の日産自動車に代表されるように製造業を中心に企業のリストラが相次ぎ、多くの社員や下請け企業が世紀末の荒波に放り出された。


世界的な規模で再編が進む 

 1998年(平成10)5月、ドイツのダイムラーベンツと米国のクライスラーが合併を発表、11月に「ダイムラークライスラー」が誕生、米GMとフォードに次ぐ世界第3位の自動車メーカーが誕生した。製造業では過去最大級の合併劇で、自動車産業に本格的な世界再編時代ががやってきた。
 再編の波は日本の自動車産業にも波及してきた。「ダイムラークライスラー」の合併が発表された直後に、国内2位の日産自動車が保有する日産ディーゼル工業の保有株式を独ベンツ社に売却する交渉を進めていることが判明した。日産グループだけでなく、海外メーカーとの提携強化を打ち出す日本メーカーが目立ってきた。同年9月には米GMがスズキの筆頭株主となり「相互補完」をねらって提携の強化に向かった。米GMはさらに12月にいすゞ自動車との提携強化を進め、1999年(平成11)12月には富士重工との間で、資本・技術の包括提携を発表した。
 1999年(平成11)1月、ダイムラークライスラーと日産自動車は資本提携の最終調整に入ったが3月に決裂、日産は並行して協議を進めていた仏大手のルノーとの提携を発表した。
 かつては大企業が経営難に陥れば、銀行が支えたり、同業他社が手をさしのべるなど「互助システム」が機能した。だが不良債権を抱えた日本の銀行には余力がなくなっていた。その間隙を縫うようにして、国境に関係なく合従を繰り返す欧米大手の世界戦略が忍び寄ってきたのである。日産自動車とルノーの提携はその代表的なケースである。
 国内では金融機関の大再編が始まった。1998年(平成10)4月、日本版ビッグバンを背景に銀行、証券、保険の外資を含めた提携、再編が加速していった。5月にはライバル同士だった日本興業銀行と野村証券が合弁会社を設立することで合意、6月には日興証券と米大手金融会社トラベラーズ・グループが資本提携に合意、9月には東京三菱銀行、三菱信託銀行、東京海上火災保険、明治生命が投信や証券分野で提携することを発表した。
 規模拡大をねらいとした再編も本格化した。1996年(平成8)4月には都銀上位の三菱銀行と国内唯一の外国為替専門銀行の東京銀行が合併し、東京三菱銀行が誕生した。1999年(平成11)は、金融システムの安定と健全化のために大手15銀行に公的資金の導入が始まった年だが、再編劇も活発になった。1月には三井信託銀行と中央信託銀行が2000年4月に合併すると発表、8月には第一勧業銀行、富士銀行、日本興業銀行が金融持ち株会社のもとに事業を統合することを発表、グループ名は「みずほ」と決まった。さらに10月には住友銀行とさくら銀行が2002年(平成14)までの合併を明らかにした。銀行の再編は旧財閥を超えるかたちで進展したのである。


インターネット元年

 1996年(平成8)は「インターネット元年」といわれるほど、インターネットが普及した年だった。世界中のコンピュータを通信回線でつなぎ、情報を共有できるようにしたネットワークであるインターネットが、日本国内でも爆発的に普及した。インターネットは全世界のコンピュータと交信できるのが大きな特徴である。
 かんたんな操作で世界中のさまざまな情報を、自分のパソコンに取り込めるうえ、インターネット上に開店した3次元の仮想商店街を利用者がのぞいて、パソコンショッピングができる新しいサービスも始まった。消費者がネットで注文して買い物ができる電子商取引(EC=electronic commerce)も実用段階を迎え、商品選びや注文だけでなく、決済までオンラインですませる試みも始まっている。
 インターネットに接続する国内のホストコンピュータ数は1995年1月には96万台だったが、1996年(平成7)1月には269万台に増えた。プロバイダーも1995年(平成7)末は280社だったが、1996年(平成8)9月には1,260社になった。国内のパソコン出荷台数も1997年(平成9)度には750万台に達した。1995年(平成7)にパソコンブームをもたらした基本ソフトのウィンドウズ95が登場、この年は70%増と記録的な伸びを示したが、その年と比較して約30%も伸びたのである。パソコンの普及が進んだこともインターネットブームに火をつけた。
 インターネットの技術を活かした社内向けのネットワーク「イントラネット」を導入する企業も増えた。「社員1人に1台」を進める会社が増え、「イントラネット」を使って電子メールやグループ企業で情報のやりとりをするようになってきた。出荷額の6割を占める企業ユースがパソコンブームの牽引役になってきたのである。
 1999年(平成11)度のパソコンの国内出荷台数は前年比19%伸びて、過去最高の900万台に達した。インターネットの利用拡大を背景に女性や初心者にも需要がひろがった。パソコン・ユーザーの底辺拡大によって、インターネットの利用者は飛躍的に伸びた。1999年(平成11)版『通信白書』によると、インターネットの利用者は1998年度に500万人あまり増えて約1,700万人になり、世帯普及率は11%に達した。ネットを利用した個人向けの商取引の売上高は1,665億円となり、前年比で倍増、企業間取引も2兆4,000億円に達した。
 インタネットや電子商取引が家庭や企業に着実に浸透してゆくさまをにらんで、電機大手各社はいっせいにネット事業に乗りだした。1999年(平成11)は、まさに日本の「電子取引元年」というにふさわしい年であった。

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