変革の苦しみを越えて」

改革元年のスタート
 1995年(平成7)後半から1999年(平成11)にかけては、ダイニック80年の歴史のなかでも、まれにみる苦難期というべきであった。バブル景気が崩壊したのは1991年(平成3)だったが、ダイニックは長い歴史を誇る企業ゆえに、その懐の深さをもって、少しぐらいの綻びは乗りきってしまった。社内における期間計画と実績との間には、大幅な齟齬があったものの、なんとか無難に決算を重ねてきた。ところが長びく不況のなかで、とくに1994年(平成6)ごろから、業績のうえにもはっきりとかげりが見えてきた。
 売上高で見ると、すでにして1993年(平成5)3月期(第130期)から凋落が始まっていた。1992年(平成4)3月期(第129期)の398億円をピークにして、一気に368億円まで落ち込んでいる。1994年(平成6)3月期(第131期)は346億円、95年3月期(第132期)は350億円、96年3月期(第133期)は335億円と落ち込みがつづいた。1997年(平成9)3月期(第134期)は352億円と回復したが、1998年(平成10)3月期(第135期)には337億円と再び低落、そして1999年(平成11)3月期(第136期)には296億円まで低落、とうとう300億円を割り込んでしまったのである。
 1998年(平成10)3月期(第135期)までは、売上高が落ち込んで、減収減益となっても、欠損を出すことはなく配当も継続してきた。ところが1999年(平成11)3月期(第136期)は経常利益も37百万円と、近年では最低レベルにまで落ち込んだ。財務体質の強化の必要性から株式を売却、その売却損や子会社の投資評価引当金を計上したため、9億7,200万円の大幅欠損となった。
 ある意味で一連の業績の低迷はすでにバブル崩壊の時点から予測されていた。とくに1994年(平成6)前後から、社内的な経営計画と現実とのギャップがしだいに大きくなり始めていた。けれども表面的には欠損を出していなかったので、経営改善策の実行を遅らせることになった。
 ダイニックの21世紀を見つめた経営体質の改善策は、1994年(平成6)前後から具体的に検討され、1995年(平成7)の中期計画のなかで明らかにされた。翌年の東京工場の深谷への集約移転、商品技術研究所の設置は、その一環として行われたのである。
 さらに1999年(平成11)3月、グループを含めた抜本的な経営改革の諸施策を掲げ、ダイニックグループとして企業の再構築に向かうのである。


GET 21 CENTURY

 社長の坂部三司のメッセージのなかに「変革」ということばが繰り返して登場するのは、1995年(平成7)の後半からである。たとえば1996年(平成8)4月1日付の第134期の社長メッセージには、次のように述べられている。

 本日よりスタートする第134期、私は〈変革の時〉と位置づけています。
 脱皮の苦しみをのりこえて、今期中に稔りをつかみとる土台を完成させたいと考えます。
 戦後初めてのデフレ不況といわれるなかで、前第133期は、所期の目標に遠くおよびませんでした。苦境にありながらも私たちは、決して怯むことなく、当社100年の計にもとづいて、思いきった経営改革を具体的に実行してまいりました。(中略)
 一連の諸策が稔りのときを迎えるのは今期の後半からになるでしょう。ほんとうの意味で収穫期は来期以降、それゆえにガマンの時期だといえます。脱皮するには非常なエネルギーがともないますが、今は変革の苦しみに堪えていだきたい。かならず飛翔の翼をひろげられる明日がやってまいります。

 1996年(平成8)、「GET 21 CENTURY」の名で中期計画が明らかにされた。これはダイニックの21世紀を展望する中期計画で、売上高500億円、営業利益率5%以上を最終目標に掲げ、達成するためのプロセスを大まかに明示した。500億円の内訳は既存分野が350億円、新規分野が150億円である。現状の売上げを堅持しながら、150億円の新規分野を創造して500億円を実現しようというわけである。その新しい「柱」となる新製品を創造する。役割を担って登場したのが「商品技術研究所」であった。
 海外を含む関連グループについても、新しい視点から拡充・再編を進めた。「メリハリ」をつけた展開がこの期の特徴で、たとえばアメリカや中国では大規模な設備投資を行ったが、国内では関連会社の統廃合が始まった。1994年(平成6)秋から1999年(平成11)にかけて、国内では13社、海外では2社の関連会社が統廃合されて姿を消している。


グループ規模での経営合理化

 ダイニックがグループを含めた経営合理化策を対外的に発表したのは1999年(平成11)3月22日だった。それは第136期(同年3月期)の決算が18年ぶりに赤字の見通しとなったのを受けて立案された緊急対策というべき性質のもので、国内生産拠点の集約、人員の削減、不採算品種の生産中止、在庫圧縮など大規模にわたっていた。
 グループ再編については、大平製紙を子会社化して、同社を含む国内にある6つの生産拠点を2001年(平成13)3月期までに3つに集約する。桂工業は滋賀工場に吸収する。さらに統廃合によって連結収益の向上を図る、という計画であった。
 事業展開も採算面から再チェックして、グループを含めた有機的な展開を図ることにした。たとえば接着芯地については国内生産を中止、海外拠点(昆山司達福紡織、NCステーフレックス社、タイ・ステーフレックス社)にシフトチェンジするほか、一部は外部から供給を受ける。グループ内の同じ芯地のメーカー、ハロニックは、ダイニックの芯地部門に吸収して、販売の合理化を促す。深谷工場で生産しているペーストターポリン(N-10による製品)の生産を中止し、外注に切り替える。
 早期退職者優遇制度などで2001年(平成13)3月までに本社で40人、グループ全体で200人を削減、さらに生産調整により在庫を10億円圧する。管理部門についても、ダイニックとグループ各社の総務、人事、経理などを集約して別会社にするなど、間接部門の大幅な合理化を図る、などが主な対策であった。この一連の合理化策によって2001年(平成13)3月までに、グループ合計で18億円のコスト圧縮を見込んでいる。
 ダイニック80年の歴史を見わたしても例のない踏み込んだ変革といえるが、坂部三司は、1999年(平成11)4月刊のグループ報「おれんじ」の巻頭メッセージで次のように書いている。

 長びく不況のなかにあって、当社は毎期なんとか土俵際でもちこたえ、それなりの業績で決算を重ねてきた。逆にいえば、決定的な危機に遭遇しなかったがゆえに、根本的な改革に着手できず、今日の事態を招いたといえる。〈甘さ〉があったことを率直に反省しなければならないと思う。創立80周年を迎える現在、ダイニックは企業として存続の危機に直面している。もはや抜本的な改革を断行しなければ事態を打開できないところまできている。そういう認識に立って、経営改革の諸策を実行に移すことにした。

 経営合理化の諸施策は1999年(平成11)3月24日に明らかにされたが、それは1999年(平成11)3月期の決算が赤字になると判明したからではない。いずれも年初から入念に検討を加えてきたものばかりであった。たとえば坂部三司は同年1月11日、ある新聞のインタビューに答えて、次のように述べている。

 98年は非常に苦しい状況で推移した一年だった。このままでは立ち行かなくなる、とさえ感じた。今年は創立80周年を迎えるが、これまで手がけてきた本の表紙やカーペット、壁紙といった製品の多くは成熟し、国内生産の意義が薄れてきた。商売の仕方、管理の方法も、時流に合わなくなってきている。「このままでは21世紀には衰退してしまう」という危機意識から、今年を本社だけでなく、関連会社も含めたグループ全体の変革、改革の元年にすることにした。

 そして改革に向けての青写真のなかで、「事業の見直し」「ヒト・モノ・カネの経営資源の重点的投入」「グループの統廃合」「間接部門の合理化と別会社構想」なども明らかにしている。そういう一連のプロセスからもて、3月発表の「企業グループ再構築」の具体策は、時間をかけて綿密に計画されたもので、社長をはじめ経営陣の重大な決意がこめられていたのである。
 3月発表の経営合理化策にもとづいて、不採算部門からの撤退、売掛金の正常化、退職者優遇制度などによる人員削減が過去に例がないほどのスピードで実行に移された。在庫削減のため操業短縮までした。関連会社も2000年(平成12)3月までに5社を吸収、あるいは譲渡するなどで整理統合実施、初年度はほぼ予定通りの成果をあげた。合理化の結果は、さっそく2000年3月期の業績に具体的に現れてきた。売上高こそ横ばいに終わったが、経常利益は4億1,800万円と大幅な改善に成功した。当期利益は13億円(グループ全体では20億円)の欠損になったが、これは新会計基準の導入にともなう退職給付引当金の積立て不足額を一括処理したためである。さらに生産拠点の集約問題など経営合理化策が進行中で、確実に利益をもたらす体質ができあがったといえる。


「変革」時代の経営理念

 1999年(平成11)8月18日、社長の坂部三司は創立80周年の社長メッセージのなかで、ダイニックグループの新しい「経営の理念」として、「心は常に焼けたトタン屋根の猫=vという標語を掲げた。
 ダイニックにおいて「経営の理念」なるものを初めて掲げたのは1962年(昭和37)である。同年6月、社長に就任した坂部三次郎(現相談役)が掲げた「技術の優位性」「人の和」である。
 新しい経営理念の採択によって、「技術の優位性」「人の和」は社是として位置づけられることになった。80周年を機に新しい経営理念を掲げれたのは、ダイニックがひとえに企業存続にかかわる大きな転換期にさしかかっているという現状認識にもとづいている。メッセージ「創立記念日を迎えるにあたって」のなかで、坂部三司は次のように書いている。

 世紀末に突入した現在、政治的にも経済的にもまさに大きな転換期の踊り場にさしかかった観があります。2年後にやってくる21世紀は、社会的にも経済的にも激変の時代になると思われます。マーケットも商品も、かつて私たちが経験したこともないスピードでめまぐるしく変転してゆく。もはやグループの総合力を最大限にきわめなければ、生き残ることができません。そこで創立80周年を機に、ダイニックグループの経営理念を採択する運びとなり、従来の『技術の優位性、人の和』は社是として位置づけ、新しく『心は常に焼けたトタン屋根の猫=xと決しました。
 自分の原点というものを、常に灼熱の太陽が照りつけるトタン屋根の上を歩く猫と同じ状況に置いて考えよう……というわけです。
 横ならびの成長は過去の神話と化しました。21世紀には、時代や社会の変化を俊敏に先取りした企業だけしか生き残れません。新しい経営理念には、先ずそういう「緊張感」と「危機感」から出発すべきであるという不退転の決意がこめてあります。そのうえで積極果敢に挑戦する心と石橋をたたいて渡る勇気を併せ持つという、強かさを発揮していただきたいと考えます。

 改革元年、グループ経営元年……と位置づけた創立80周年、奇しくも1900年代の最後の1年は、ダイニックにとって将来を占う節目の年となったのである。

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