新製品で多様化

活発な試製品開発――クロス
 天神川工場のクロス工場(約2,310平方メートル)は1929年(昭和4)10月から全面操業を開始したが、クロスの新製品開発はこのころからにわかに活発になった。ブック・バインディング・クロスの基本的な品種のほとんどを整備し、新しい用途の開発も精力的に進めていった。
 設計・製図用のトレーシングクロスは1927年(昭和2)に開発したが、需要が増大するのは海軍省指定工場として登録される1929年(昭和4)からだった。 織物ベースの同製品はトレーシングペーパやフィルムの先駆となるものであった。糸質が均一で緻密な織布を精練・漂白し、馬鈴薯・澱粉類、蛋白、テレピン油・椰子油などの油脂、着色剤として群青などを添加した塗料をコーティングする。それを加熱ロールで圧搾・摩擦を数回繰り返して、透明度を高めるというのが製法のあらましであった。少しでも塵埃が付着すると不良品になるため、工場の従業員はエプロンがけで作業に従事した。基布の綿糸には、エジプト産の綿花を使用した。綿布ベースのトレーシングクロスの商標は「サカブライド」であった。
 基布に関していえば、後には純国産品である絹布、人絹が主流になっていった。国産品奨励というのが当時の国策であったため、滞貨生糸を消化するために代替資材で製法研究を進め、製品化に成功した。新製品の羽二重トレーシングクロスの商標は、「ダイヤモンド」「スペシャルダイヤモンド」であった。いずれも透明度、厚み、運筆などにすぐれ、最盛期には月産2,000本(22メートル)に達した。
 トレーシングクロスは精密機械や建設土木の設計製図に不可欠な素材であった。たとえば艦船や航空機の設計のとき、まずトレーシングクロスに原図を描き、これを感光紙に焼き付けて設計図を複製していた。当時、艦船の設計には現物と同寸の図面をつくっていたのである。だから巡洋艦一隻を建造するのに約6,000円ぐらいのトレーシングクロスが使用された。
 海軍省・鉄道省に納入するトレーシングクロスは、ほとんどが交織布製品であった。この交織布製品のすぐれた透明度を利用し、さらに独特の特殊加工をほどこして鉛筆用のトレーシングクロスも開発した。同製品の登場により、鉛筆で製図ができるようになった。
 ブラインドクロスは1930年(昭和5)3月に実用新案登録されている。製造工程はブッククロスとほとんど同じだったが、木目模様を出すのに苦労した。木目はブラインドの上げ下ろしする機能上からみて必要だったのである。当初はイギリスやドイツ製品のようにな美しい木目が出なかった。ローラーから出てくる布地には、両端だけに木目らしい模様が現れるだけだった。薄生地に型出しして、木目を出す方法は一従業員が試行錯誤のすえ考えだしたものだった。
 ブラインドクロスの品質はイギリス製品を上回り、日本クロスの主力商品になった。満州をはじめオーストラリアに輸出され、1931年(昭和6)ごろの生産実績は月産600本(50ヤード)であった。
 ウォールクロスは住宅資材である。当時、住宅の内装材として輸入品のウォールペーパーの需要が増加していた。輸入品は高価であるうえ、紙だから破れやすい。さらに湿度が高い日本独特の気候のせいで変褪色がはやいという欠点があった。そこで日本の住宅環境に適合するよう留意して開発したのが日本クロス製のウォールクロスであった。国産化によって価格は輸入品の3分の1になった。
 タイプライターリボンは1932年(昭和7)に発売した。当時、日本で使用されていたタイプライター用リボンは、すべて輸入品で大倉商事が窓口になっていた。日本クロスはイギリスのマンチェスターからトレーシングクロス用の生地を大倉商事を通じて輸入していた関係から、タイプライターリボンに着目するようになった。製造機(4,000円)をイギリスから輸入、生産を始めたが、製造工程でもっとも困難だったのは、幅11・7ミリに正確にカットすることと、耳ホツレの防止であった。
 タイプライターリボンにより、日本クロスはわが国唯一の印字布メーカーとなり、欧文タイプライター、各種計器類の記録印字布に使用された。特約店は丸善、主な納入先は日本電信電話公社であった。商標は丸善の「オール イン ワン」であった。


特殊技術をみがく――染色加工

 昭和の初めから1941年(昭和16)ごろまでの染色加工部門は輸出向け織物の加工が中心であった。中国・朝鮮向けの人絹織物の輸出が増大、さらに新しくオーストラリア、インドへの輸出も始まった。染色加工部門の歴史をふりかえれば、1935年(昭和10)から太平洋戦争が始まる直前までが最盛期であった。
 日本クロスの染色加工部門は人絹とともにあった。わが国で最初に人絹染色に進出したのは日本クロスである。市場では「人絹の日本クロス」といわれるほどその技術力が評価されていたが、それは草創期から長繊維織物を中心にして独自の技術をみがきつづけてきたからだった。
 創業当時の染色加工部門は絹織物の染色と交織繻子(絹と綿との交織)の整理が主力だった。当時の加工内容は「裏糊加工」がほとんどを占め、「糊なし仕上」「薄糊仕上」「厚糊仕上」などの種別があった。天然繊維のなかでもとくに長繊維織物の染色を主体に独自の技術を蓄積していったのである。
 人絹織物が本格的に登場するのは1923年(大正12)ごろだが、日本クロスはつねに技術力の要する分野に狙いを絞ってきた。人絹織物には手織、交織、繻子、紋織などがあったが、繻子の染色・整理加工が得意の分野であった。繻子はそのころオーバーコートの裏地、洋服の裏地をはじめ毛布の縁など広範囲に使用され、需要が増大していた。人絹織物のなかでも加工度の高い特殊な分野に着目して技術力をきたえてゆくというのが、当時の染色加工部門の一貫した方針だった。
 輸出向け人絹織物の染色加工も1932年(昭和7)ごろから、福井など新興勢力の台頭で価格競争の時代に突入、経営的に大きな転機がやってくる。だが日本クロスは独自の道を歩んだ。加工度の低い分野には参入しないという方針を貫き、特殊な分野に狙いをつけて、その加工技術を開発するなど、つねに技術開発に意欲的に取り組んだ。
 そのひとつに満州向けの毛葛の加工があった。毛葛は満州では高級織物として知られ、もともとは経糸が本絹、緯糸が毛で構成されていた。日本では経糸に人絹、緯糸に綿を使用して製品化されていたが、その染色加工方法を日本クロスが独自に開発した。毛葛の整理加工は、他の輸出織物にくらべて加工賃が約2倍だったから、収益面でも大きく貢献した。このほかインド向け輸出の黒耳繻子の整理加工なども受注量が多く、毛葛とともに長期間におよんだ。
 特殊技術の開発につとめ、もっぱら高級品のみをあつかう。それが戦前期における染工部門の基本方針だった。とくに人絹繻子、人絹綾の裏糊加工の技術については、国内だけでなく海外でも高く評価されていた。

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