アセテートの染色加工

染工部の転機
 戦時中の企業整備で開南染工化学として分離独立していた染色加工部門は、1950年(昭和25)8月に日本クロスに吸収合併され、染工部東工場として新しく出発することになった。発足当時の設備規模は、次のとおりである。
 ジッカー 53台 ウィンス 6台 精練漂白槽 9槽 連続染色機 2基
 高熱処理機 1台 テンター 7台 カレンダー 12台 ヤード掛機 5台
 反巻機 7台 バブコックボイラー 2台
 戦後、染工部は人絹と綿を中心に染色加工を始めたが、当初は報酬物資(商工省が食糧確保のために、米の代わりに農家に与えた代替物資)が対象、それらは繻子のカーキ染色、綿布の紺染め(モンペ地)などが主であった。さらに国有綿の染色などもあった。
 やがて輸出が再開されると、本来の人絹染色が本格化していった。とくに人絹繻子、人絹綾の裏糊加工の技術は国内外から高い評価を受けた。南アメリカ、ベルギー、イラン、イラク、中南米諸国、東南アジア諸国などから指定注文を受けたほどである。日本クロスのマーク入りの54インチ幅の裏地は、他社の加工品よりも高く売れるといわれた。それほど技術力に信頼があった。
 だが、日本クロスに復帰すると同時に大きな転換期を迎えることになる。ナイロン、ビニロン、アセテートなど合成繊維が登場してきたためである。染工部門は絹に始まり、その後は人絹、綿などの天然繊維を中心にしてきたが、合成繊維の登場によって、事業方針を再検討しなければならなくなったのである。
 人絹ばかりに依存していたのでは染工部の将来はない。アセテートとナイロンのいずれをとるかという決断を迫られ、最終的にはアセテート織物を選択することになった。それは1952年(昭和27)、アセテートの日本進出にともなって来日したアメリカンセラニーズ社から染色を要請されたのが直接のきっかけだったが、ナイロンよりアセテートのほうが将来性があるだろうという見通しにもとづいていた。


国内屈指のアセテート染色工場

 1952年(昭和27)、アメリカンセラニーズ社の技術者が大日本セルロイド(現ダイセル)、三菱レーヨン両社の首脳とともに日本クロスを訪ねてきた。アセテート織物の日本進出を計画しているが、ふさわしい工場が見つからない。アセテート染色の加工工場として協力してもらいたい、というのが訪問の趣旨だった。日本クロスが選ばれたのは、特殊加工を中心とする技術力が業界で評価されていたからだった。
 いつまでも天然繊維にこだわっていたのでは、染色加工部門の将来はない。欧米の状況や日本人の好みから見て、ナイロンよりもアセテートなどの長繊維が伸びるであろう。またナイロンとアセテートを比較すると、アセテートは強度ではナイロンにかなわない。むしろ人絹よりも弱い。しかしアセテートのもつ色艶は絹に似ていて、日本人の好みに合うだろう、と判断したのである。
 同じアセテートでも長繊維に取り組んだのは、欧米のケースからみて、短繊維より長繊維のほうが伸びると判断したからだった。さらに絹から始まってつねに長繊維織物に取り組んできた染工部の技術的な歴史も決め手になった。
 当時わが国のアセテートは短繊維が中心で、ダイセルや三菱レーヨンなどのメーカーは量産体制をとっていなかった。染色工場の大半は短繊維を中心に染色の研究を進めていた。
 最初のころアセテート糸は輸入にたよっていたが、やがて三菱レーヨン、帝人などが国内生産に乗りだした。糸自体も完全なものではなく、織物の製品化は困難をきわめたという。やがてダイセルが強度アップした糸を開発、緯糸に綿を使用した織物を完成させた。それがレインコート用の生地として登場してくるのである。糸が量産されるころには染工部の加工技術も完成、近代的な設備を導入していった。すでに型出しエンボス機を日本で最も多く設置していた日本クロスは、たちまち国内屈指のアセテート染工場として評価を受けるようになってゆくのである。
 アセテートはレインコート、婦人用おしゃれコートの素材として、昭和20年代後半から30年代にかけて大流行した。これらの製品についても日本クロスの染工部は特殊加工が中心で、樹脂加工、特殊エンボス加工など高級ものを主体としていた。とくにコート用素材の染色加工には定評があった。三菱アセテート(カロラン#1000)、帝人(テイジナセテート#4600)、ダイセル(セルテート#2102)を中心に、最盛期には月間100万ヤードの加工実績をあげていた。技術的にも、加工数量からも、トップレベルにあった。 
 もともと染色加工部門は、創業時から付加価値の高い加工に力を注いできた。アセテート染色の時代になってもその姿勢は変わることはなかった。あくまでグレードの高い特殊加工を中心とし、技術力を売り物にしていた。アセテート染色はテトロン加工糸が登場するまでつづき、染色加工部門にとって戦後の一時代を画す事業となった。

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