グループ化で顧客指向

販売・物流の機能強化
 今日のダイニック(1974年に改称)は「グループ中心の経営」を標榜、グループの総合力を最大限に求めるという経営方針を明示しているが、グループ化そのものは1959年(昭和34)前後から始まっている。
 グループ化の第1期(1959〜1969)には大和紙工、桂工業、福岡クロス工業、ニックの4社を設立している。第1期の特徴は、あくまでメーカーとしてのダイニック周辺の環境整備であった。大和紙工、桂工業の両社は、ともに日本クロス製品の検品、断裁、巻取り、包装などの仕上げ・加工部門として出発している。両社の設立は、仕上げ、物流・配送の面から日本クロスをサポートし、商品をスピーディー、タイムリーに顧客に提供すること、つまり顧客指向の徹底に狙いがあった。もうひとつ隠れた理由をあげれば組合問題との絡みがあった。1965年(昭和40)ごろまでは、春闘などで組合がストライキを構えることがあった。ストライキによってモノの出口が閉鎖されないように、工場から仕上げ・出荷部門を分離独立させたのであった。
 ニックは日本クロスの素材による加工商品の製造・販売を主な事業としてスタートし、〈川中〉に位置づけられている日本クロスの製品を使用して、末端商品の展開をめざした。つまりニックは日本クロスの〈川下〉強化のため設立したのである。


大和紙工の設立

 大和紙工株式会社は1961年(昭和36)9月、埼玉県所沢市大字城577に設立した。当初の資本金は300万円であった。同社は東京工場の仕上げ・加工部門として設立したものであるが、その直接のきっかけは1960年(昭和35)から始まる教科書クロスの需要増大であった。教科書の表紙として、昭和36年度版から東京工場のシルバーボード、ダイヤボードの需要が増大したが、東京工場には仕上工程を拡大するスペースがなく、設備自体もきわめて貧弱だった。大幅な設備刷新を視野においた新会社の設立が必要になったのである。
 大和紙工の工場建設は1961年(昭和36)12月に始まり、第1工場(300坪)は翌年1月に完成した。機械設備が整った3月から従業員42人で一部操業を開始している。創業時の役員構成は、社長坂部三次郎、副社長川田嘉一郎、専務市川満哉であった。
 大和紙工は創業から10年間に基礎づくりがなされている。1963年(昭和38)5月には約300坪の第2工場が完成、ほぼ現在に近い工場のフレームができあがった。1967年(昭和42)2月には保管倉庫(延べ500坪)を建設、関東地区の仕上部門、保管、輸送の一貫体制を確立した。また同年6月には日本クロス深谷工場内に仕上工場(100坪)を建設、名実ともに関東地区(東京工場・深谷工場)の仕上外注関連会社となった。この間に3度の倍額増資を行っている。1963年(昭和38)8月の増資で資本金は600万円、1964年(昭和39)10月の増資で1,200万円となった。1965年(昭和40)には、それまで併存してきた川崎紙工を吸収合併したことによって、新資本金は1,500万円となり、さらに翌1966年(昭和41)の倍額増資で3,000万円となった。
 大和紙工では労働集約型であった〈仕上げ〉〈検品〉の完全自動化をめざして、機械化、合理化を積極的に進めた。とくに創業5年目から10年目にかけて、設備の改善を活発に行った。1967年(昭和42)のボビンカッターからスリッターへの改編によって、断裁切口の品質向上とスピードアップを実現した。
 合理化、省力化を目標にして、いくたびか設備の改廃、増設を行ってきたが、新規に導入した機械設備でも、そのまま使用したものは1台もなかった。すべて改善を加えて稼動させるのが同社の特徴であった。設備改善のモデルケースになったり、特許、実用新案の登録を受けたシステムも多い。たとえばギロチンカッターの安全性の向上にも、早くから着手している。神奈川県から初めて補助金をもらって完成させた安全装置付きのギロチンカッターは、労働省の認定第1号になった。


桂工業の設立

 桂工業株式会社は1964年(昭和39)、京都市南区久世高田町35に設立した。京都工場製品の仕上げ(巻取り、検品)、出荷を担当するとともに、営業倉庫に保管を委託していた製品や資材を一括保管させるために設立した会社である。いわば外注加工の集中処理が設立の狙いであった。
 同社を設立するまで、仕上げ作業は京都西工場と東工場で行っていたが、製品の多様化、量的拡大によって、両工場だけではスペース不足になった。そのために巻取り作業などの一部を外注にゆだねていた。散在していた仕上機能を集中・統合する必要から別会社設立の構想が浮上、1963年(昭和38)夏から具体的な検討が始まり、洛西工業地帯の中心に位置する京都市南区久世高田町に新会社を設立することになった。約7,500平方メートルの敷地に第1工場(約1,000平方メートル)、出荷場(約300平方メートル)、倉庫(約1,100平方メートル)を建設し、1964年(昭和39)8月から、従業員23人で操業を開始した。
 設立当初の資本金は1,000万円、社長坂部三次郎、専務浅野泰三の体制でスタートしている。 1966年(昭和41)12月には、第2工場(約850平方メートル)と事務所を設置、外注加工の集中処理のため、断続的に設備の拡充を行っている。包装のコストダウンをめざして、自動包装機を設置、1970年(昭和45)には、合成皮革用のシワ出し機を導入するなど新鋭設備の増設を進めた。


福岡クロス工業の設立

 福岡クロス工業株式会社は1953年(昭和38)8月、福岡市博多区比恵町9番24号に設立した。同社の前身は日本クロス福岡工場(さらにその前身は1941年設立の九州クロス工業)である。
 九州クロス工業は、もともと油布の生産工場として出発、戦時中は暗幕の生産に転じて、東の大和クロスと肩を並べる存在であった。戦後は電気絶縁紙、電気絶縁クロスを製造し、定評ある技術力で日本クロスに新分野をもたらした。1954年(昭和29)5月、同社は日本クロスの福岡工場となり、1955年(昭和30)以降、高度成長とともに順調な足どりで発展してきた。福岡工場で生産する電気絶縁クロスは、東芝、日立、三菱電機、富士電機、住友電工など大手メーカーの電気機器や電線ケーブルに使用されていた。1959・60年(昭和34・35)には、約60%を東京市場に出荷していた。
 福岡工場(九州クロス工業)は、もともとは物資不足の戦時下に、石炭確保のために設立した工場である。工場用建物は木造建築で、大量の絶縁ワニスを取り扱うには消防法上の問題があった。機械設備も絶縁クロス専用ではなかったため、高熱の合成樹脂により高温焼付を要する高性能絶縁クロスの生産には限界があった。さらに業績を伸ばすには、建物・機械設備の全面更新が不可欠になり、全社的見地から絶縁クロス部門の将来と福岡工場のありかたを検討した結果、福岡工場の絶縁クロス部門は、新設してまもない東京工場に移管することになった。最終的に福岡工場は閉鎖する予定だったが、当面は九州地区のユーザーに絞って生産を継続することになった。別法人としたのは、福岡クロス工業が九州地区の市場で、独自の展開ができるようにと配慮したためであった。
 福岡クロス工業は、こうした経緯を経て資本金1,000万円で設立され、社長には天岡淳が就任、従業員19人で1963年(昭和39)9月から操業を開始している。日本クロスの設備をそのまま借用して出発、日本クロスからの発注品のほか、防蝕硝子テープ、電線被覆用クロスなどの製造にあたった。操業当初の売上高は月商300万円であった。


ニックの設立

 株式会社ニックは、1969年(昭和44)3月、東京都千代田区内神田1の13-6長谷川第3ビルに設立した。資本金は500万円、会長に坂部三次郎、社長に長崎一男が就任、創業当初の従業員は25人であった。
 日本クロスの素材を用いた加工品の製造・販売を中心業務とし、素材メーカーからの脱皮を図る日本クロスの先兵としての役割を担っていた。日本クロスの製品であるクロス、ビニール、不織布などは、いずれも素材として供給されていた。それらは加工されて日常生活のあらゆる場で使用されていながら、素材であるために日本クロスの知名度が最終消費者まで浸透していなかった。社名とともに製品を一般消費者に認識してもらう必要があった。さらに営業上の観点からも、需要を拡大するには2次製品まで開発して、製造・販売する、いわゆる垂直販売によって、〈川下〉の底辺をひろげる必要があった。ニックはそういう背景のもとに誕生したのである。
 ニックは創業と同時に、不織布パネロンによる「カラーパネロン」と「パネロンフラワー」の製造・販売に乗りだした。パネロンフラワーは発表当初からマスコミの注目を集め、たちまち同社のメイン商品となった。店頭での陳列指導、講習会の全国展開など新しい販促システムが成功をおさめ、一時は全国の手芸店、花材店、デパートの看板商品になった。


ハロニックの設立

 日本クロスは不織布芯地パネロン、織物接着芯地ステーフレックスをもって衣料市場への参入を果たしたが、1969年(昭和44)から、新しく設立したハロニック株式会社も加え、グループとして芯地分野の拡大を図った。
 ハロニックはアメリカの大手芯地メーカー、ハロダイト社との技術提携で生まれた芯地の製造・販売会社である。ハロダイト社の麻タイプの綿芯地の国内生産・販売、アジア市場への輸出を主要業務とした。当時の日本クロスは、不織布芯地パネロン、織物接着芯地ステーフレックスをもって市場に参入していたが、芯地のトータルマーケットからみて毛芯、麻芯の分野は隙間になっていた。そこで、毛芯、麻芯に代わるものとしてハロダイト社の芯地に着目、グループトータルで芯地の総合化をめざすことになったのである。
 ハロニック株式会社は、1969年(昭和44)5月、資本金300万円で設立した。本社は東京千代田区(ダイニック東京支社内)、大阪営業所を東区(大阪営業所内)におき、亀井徳治を代表取締役(1970年9月から日本クロス専務の河野幸夫が社長を兼任)として発足した。技術導入、機械設置などの準備に1年あまりをあて、本格的に営業を開始したのは1970年(昭和45)7月からだった。製品は日本クロスの染工部で製造した。
 発足当初、同社の主な商品は、アメリカ製と同一スペックであった。ハロフォーム、ハロフレックス、ハロシェイプ、ハロフィット、ハロラインなどのブランドでシリーズ展開をめざしたのであった。 創業から約2年間は苦難の時期がつづいたが、1971年(昭和46)半ばから業績が好転、以後は順調に推移し、1972年(昭和47)には倍額増資を実施、新資本金は1,200万円になった。


台湾科楽史工業の設立

 台湾科楽史工業股份有限公司は、日本クロスの初めての海外生産拠点として、1967年(昭和42)11月、中国台湾省台北県土城に設立した。台湾の洋紙輸入業者である三幸股份有限公司と日本クロスの合弁によるもので、設立資本金は700万元、出資額は日本クロス400万元、三幸300万元であった。
 薫事長(代表取締役)には坂部三次郎、総経理には羅再金がそれぞれ就任、従業員20人あまりで発足した。
 台湾への工場進出は、日本の印刷・製本関連企業が将来、外注・委託加工のかたちで台湾へ進出し、クロスの需要が高まると予測したからであった。おりしも台湾がアジア経済のなかで重要な位置を占めるようになり、台湾政府は農業国から工業国への脱皮をめざして外国資本の導入を推進していた。
 台湾科楽史の工場建設地を台北郊外土城に決め、工場用地として3,300平方メートルを購入した。1967年(昭和42)9月、建設工事に着工、機械の据え付け、電気設備その他の付帯工事を含めて1968年(昭和43)4月18日に竣工している。工場(第1工場)本体の規模は約660平方メートル、事務所は198平方メートル、そのほかボイラー室、危険物倉庫、守衛所を付設した。
 操業を開始した台湾科楽史は手帳、綴込表紙、バインダー、アルバム、帳簿などの紙工品、一般書籍、教科書、辞典、全集などのクロスを生産し、月産4万平方メートルを当初の目標とした。
 立ち上がり直後は苦難がつづいたが、創業2年目を過ぎるころから黒字に転じ、1972年(昭和47)2月期から株式配当を行っている。同社の基礎づくりが完了した段階で天岡淳(福岡クロス工業社長)が薫事長を引き継ぎ、生産規模の拡大とともに工場も増設していった。1971年(昭和46)6月には第2工場、1976年(昭和51)には第3工場が完成した。3工場体制となった同社の工場敷地は約6,600平方メートル、工場の建物は3工場合わせて1,980平方メートルであった。1978年(昭和53)10月には塗装機の新設とともに、塗装設備を第3工場に移設・集約することになった。これによって塗装(第3工場)、型押し・印刷(第2工場)、仕上げ・保管(第1工場)という生産システムが完成した。塗装機3台、型押機4台が、当時の設備体制であった。
 操業開始から10年目に当たる1978年(昭和53)には、レザークロス、レザーペーパーを中心に、絆創膏、粘着テープ用NAクロス、商標布、造花クロスなどを主な製品としていた。従業員は40人、年商は6,300万元(円換算約3億8,000円)であった。

*** もどる *** 次章へ ***


*** 目次へ *** トップぺージへ ***