4工場の拡充と再編

深刻な課題をかかえる3工場
 深谷工場の新設(1964年)によって、京都西工場、京都東工場、東京工場を含めて4工場体制となったが、1970年(昭和45)前後から、京都西工場、京都東工場、深谷工場に深刻な問題が浮上していきた。
 最も古い歴史をもつ京都西工場は建物と設備の一部が老朽化する一方、工場内の、過密化も進んでいた。新設備を導入したくとも、増築はほとんど不可能という状態だった。京都東工場は染色加工の専門工場だったが、装置産業化する染色工業の環境変化に取り残され、業績低迷がつづいていた。設備の老朽化も進み、全面更新を含む根本的な対策が必要となっていた。
 深谷工場はビニールと人工皮革の製造工場であったが、京都工場とは逆に広大な敷地をもっていたところから、設備の充実が課題となっていた。既存のビニールの第1工場、人工皮革アイカスの第2工場に加えて、第3工場を新設することになった。第3工場は、住宅資材分野の主力商品、ニードルパンチカーペットの製造工場であった。同工場は1969年(昭和44)秋に着工、翌年2月に完工している。建物は800平方メートルで、広幅カーペットの製造設備を設置した。その後、深谷工場はステーフレックス、不織布設備の増設にともなって、業績も向上してゆくのだが採算性に問題があった。
 各工場のかかえる個々の事情に加えて、1970年(昭和45)前後からは公害問題もからんで、工場をめぐる問題はいっそう複雑になっていった。
 メーカーにとって、工場はいわば心臓部である。4工場をどのように活用、運営してゆくべきか、その対策を講じなければならなかった。京都西工場と深谷工場の設備移転調整問題、京都東工場の縮小問題、公害対策問題などが、重大な経営問題として浮かび上がってきたのである。


京都・深谷の設備移転問題

 京都西工場と京都東工場の一本化問題、さらには京都・深谷両工場間の設備移転が具体化したのは1968年(昭和43)からだった。当時、京都東・西工場の業績が低迷、両工場の合理化が課題になっていた。能率化を図るためには、工場建物の建設と新設備の導入を進めなければならなかったが、京都の東・西工場とも過密化が進んでいた。そこで一部を深谷工場に移転、さらに京都東・西の両工場を統合して再編成しようという計画がもち上がったのである。
 同年10月、接着芯地ステーフレックスの新設備(ソリドット)を深谷工場に設置し、京都工場に設置していたステーフレックス製造機を深谷に移設することになった。1969年(昭和44)9月、新しいビニールカレンダーを深谷に設置したのも、この構想にもとづいていた。
 KF計画と呼ばれた京都から深谷への設備移転プランは、当初はあくまで社内事情によるものであったが、1970年(昭和45)前後から公害問題という外圧が加わって、全工場を含む経営問題に発展していった。
 第1ステップとして、京都工場の製造2課(ビニール)と製造3課(不織布)の移転を決定した。両部門は1975年(昭和45)末までに深谷工場に全面移転する計画であったが、おりもおり京都工場がにわかにフル稼動状態となり、とりあえず延期することになった。だがKF計画は長期計画の重要なテーマとして生きつづけた。
 京都工場の生産設備を順次に深谷に移転、東京工場と深谷工場を量産工場として位置づける。中央開発研究所をもつ京都工場は製品開発工場として再編成する。中央開発研究所や各工場で生産された新製品は、まず京都工場のラインでテスト生産、量産の必要が生じたとき東京工場と深谷工場に移管するというのが、長期計画にもりこまれた将来プランであった。京都工場についてはさらに公害問題もからんで、2次製品の工場に転換するという計画もあった。
 さまざまな検討を経て、3工場の再編成問題は、1972年(昭和47)に決着がついた。京都工場は無公害工場とする。東京工場は紙クロスを中心に、高付加価値商品へ転換を図る。深谷工場は合理化を図り、低価格・大量生産型の工場にするというものだった。深谷工場にいったん移設されたステーフレックス設備を、1972年(昭和47)になって再び京都工場にもどしたのも、京都工場を無公害工場にするという構想にもとづいていた。


京都東工場の統合、染工部門の撤収

 日本クロスの染工部門は、1970年代になって大きな転換期を迎える。合繊時代の到来がその引鉄となった。合成繊維の登場と繊維消費の増大が染色工業そのものの体質を変えることになったのである。
 合繊工業はいわば装置産業である。合繊メーカーは、いずれも大規模な設備によって大量生産をめざした。生産形態そのものが天然繊維とはまるでちがっていた。合繊の染色加工には、それに対応できる設備を必要とした。したがって染色加工業は、技術的な裏づけに加えて、設備能力も求められるようになったのである。
 設備の拡大には、大規模な設備投資が必要であったが、リスクも大きかった。流行の変遷によって設備の陳腐化するテンポが速く、さらに季節変動などの要因もあって、過剰投資になるおそれがあった。
 日本クロスの染工部門も、ナイロン、ポリエステルの合繊の出現とともに、設備の更新や増設を行ったが、昭和40年代前半に加工糸織物ブームがやってくると、さらに設備の高度化が必要となった。このような背景から1968年(昭和43)、加工糸織物の専用設備を導入、本格的な体質改善をめざしたのであった。
 委託加工中心の下請工場ではなく、あくまで独立したメーカーを指向する。賃加工といえども新しい染色技術を売り物にする。それが染工部門の一貫した業務方針であったが、装置産業化した染色業界の大勢と相容れないものがあった。設備を増強した当初は、かなりの受注量を獲得したが、しだいに操業度が低下、利益の確保がむずかしくなった。
 染工部の体質改善は1969年(昭和44)ごろから始まった。長年にわたって培ってきた技術力と保有設備をフルに活用して、自社製品を積極的に開発することが緊急テーマとして採りあげられた。賃加工に加えて自社製品の製造・販売も行い、構成比をそれぞれ50%にするというのが骨子であった。
 部門の縮小についても具体的に検討を重ねた。1969年(昭和44)8月、京都東工場の呼称を〈染工場〉と変更したのは、縮小の第1ステップだった。1971年(昭和46)になると、統合問題が浮上してきた。社長の坂部三次郎は、この問題について、『クロス社内報』(1971年10月)で、「現在、委託加工の需要を増大する方向に進めることは不可能、過去の技術蓄積を生かした新しい商品の製造に方向転換しなければならない」と言明している。
 賃加工から自社製品の製造・販売への移行、それは、実質的には染色加工からの撤収であった。1972年(昭和47)8月、当初の予定より半年遅れて、染工部門を大幅に改編した。染工事業部はそれまで染工場と営業部をかかえた独立の事業部であったが、染色加工からの撤収を経営方針として掲げ、京都工場に編入した。さらに1974年(昭和49)8月には、京都工場染工部を製造4課として再編成し、ニックセブンなどの一部の特殊コーティング製品を残して、純粋の染色加工から名実ともに撤退することになった。設備も京都工場に移設し、長年染色工場として稼動してきた東工場はほとんどその機能を停止した。


公害対策に巨額の投資

 1970年(昭和45)前後から、産業公害・環境汚染が社会問題として大きくクローズアップされ、企業に向けられる眼はきびしくなり、法規制も次第に強化されていった。
 京都工場の無公害化に取り組んでいたが、各工場単位に公害防止組織を整備したことにより、工場ごとの独自の取り組みが始まった。地域社会への貢献を企業目標のひとつとし、公害防止問題を緊急課題とした。
 公害防止のための設備上の再検討を、1972年(昭和47)から積極的に進めていった。各工場とも、PCBや有機水銀などの有害物質を使用しているわけではなかったが、汚水処理や騒音、臭気、排煙などが一部で問題になりつつあった。
 工場周辺が急速に住宅密集地となった京都工場では、地域住民との調和を第一に考え、近隣からの苦情をゼロにするため新しい設備を導入していった。1973年(昭和48)に、まずビニール製造機(ホフマンC―1)の脱臭装置、焼却炉の排煙処理装置を敷設し、大気汚染、悪臭問題を解消した。1974年(昭和49)3月には、排水処理装置を設置した。鉛排水に対する京都市の規制を受けて、ほぼ1年がかりで導入した設備で、総工費は約9,000万円であった。
 東京工場ではすでに1969年(昭和44)に排水処理設備を導入していたが、1973年(昭和48)に設備を改善、1974年(昭和49)には汚泥処理装置を設置した。深谷工場でも1973年(昭和48)3月に排水処理装置が完成、本格稼動を開始した。
 一連の公害防止設備に約2億円を投じ、ランニングコストもかなりの額に達した。生産をともなわなず、しかも巨額の投資を必要とする公害防止問題は、経営に大きな影を落とした。


東京・深谷工場の充実化

 京都工場とは対照的に東京・深谷両工場は、この期に積極的に設備拡充を進めている。
 東京工場では、紙クロスの生産高が増加していたが、さらに新市場の開拓と受注の量的拡大をめざして建材市場への進出を図るため、1972年(昭和47)10月、グラビアコーティング機を導入した。
 深谷工場の体制整備も、この期になって急速に進み、不織布専用工場の新設、カーペット工場のスケールアップに相次いで着手した。
 京都工場の製造3課で生産していた不織布(商標名パネロン)は、1970年(昭和45)になって、にわかに需要が増大し始めた。現有設備の3機では受注量をみたすことができなくなり、同年5月から新設備の導入を検討し、量産型の製造機(アイソマイザー)を深谷工場に設置することに決めた。それはKF計画、さらには不織布の専用工場を深谷工場に建設するという将来構想にもとづいていた。
 新設の不織布設備は1971年(昭和46)に完成、ひとまずは深谷工場の第3工場に設置した。懸案の不織布専用工場(第4工場)は、深谷工場第5期工事として1973年(昭和48)4月に着工、同年11月に完成した。新工場棟には第3工場に仮設していた新製造機のほか、新しくもう1シフトの製造機を増設した。さらに京都工場の不織布設備も順次に移転し、文字どおり不織布専用工場としての体裁を整えた。
 カーペット工場の増設も1973年(昭和48)から検討に入った。住宅産業の急成長にともなって住宅資材販売部の主力商品であるニードルパンチカーペットの需要が急速に増大、現有の設備では対応できなくなったためである。生産設備の拡充工事を1974年(昭和49)2月の始めから5月にかけて行い、6月から本格稼動に入った。

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