市場開発と営業強化

市場単位の営業組織
 1969年(昭和44)から営業体制を製品中心の体制から担当市場単位の体制に編成していった。クロス販売部、産業資材販売部、衣料資材販売部、合成皮革販売部というように、各工場の製品を市場ごとに横断的に担当するようになった。まだまだ市場別の営業組織とはいえなかったが、これをきっかけにして営業部門を少しずつマーケットを意識した体制に編成していった。
 1975年(昭和50)9月の組織表によると、営業本部は7つの販売部で構成されている。クロス、産業資材、衣料資材という既存の販売部のほかに、インテリア、生活用品、車輛資材、国際部の4販売部が加わっている。
 1977年(昭和52)11月にはビジネス用途販売部、1978年(昭和53)11月には加工商品部を加えた。
 いずれも既存の販売部から分離して、販売部に昇格させたのであった。販売部を細分化して、個々の市場に狙いを絞っていったのであるが、それはマーケティング機能を強化して、販売の活性化を図ろうという試みであった。市場別に編成した各販売部は、1975年(昭和50)から、個別の展示会を開催するなど独自の展開で需要喚起をめざした。各販売部は、それぞれの営業活動を通じて、いわばヨコに向かって市場をひろげていったのである。
 一方、エリアマーケティングを強力に推進する狙いから、地域開発も急速に進めていった。1978年(昭和53)には、札幌、仙台、名古屋、広島、福岡の5営業所を開設した。これはいわば地域市場をターゲットにしたタテの展開であった。販売部と地方営業所を中心にしたタテ・ヨコの営業展開、それがこの時代の市場開発とマーケット戦略の特徴だった。


インテリア部門に進出

 インテリア関連商品は、戦前から製造・販売していたが、その代表的な製品はブラインドクロスであった。とくに戦前は輸出貿易の主力商品として、世界各国に販売していた。
 インテリア市場を意識して、本格的な参入をめざしたのは、ニードルパンチカーペットの生産技術を開発しからである。ニードルパンチカーペットの商品群を整備した1969年(昭和44)11月、産業資材販売部の下に住宅資材販売課を設けた。これがインテリア部門の出発点であった。当時、1970年代の成長産業として、情報産業、レジャー産業、省力化産業とならんで住宅産業が注目されていた。このような背景、さらにはマーケット・インをめざす経営方針にもとづいて、住宅資材課を新設したのである。
 発足当初の住宅資材販売課の担当製品は、床材、壁装材、天井材で、ニードルパンチカーペットと壁紙の製品群が主力であった。とくに市場規模250億円にまで成長した壁装材の開発に力を注いだ。
 1972年(昭和47)には、インテリア関連商品は、日本クロスの3本柱のひとつにまで成長していた。1972年(昭和47)5月、住宅資材販売課は産業資材販売部から分離独立し、住宅資材販売部に昇格した。住宅資材販売部の当面の目標は、全社の売上高の25%を達成することであった。


車輛資材に進出

 車輛資材販売部は、1975年(昭和50)、産業資材販売部から分離独立して、自動車内装材市場の販売担当部としてスタートした。
 ダイニックが自動車内装材に本格的に参入するきっかけとなったのは、東洋工業との結びつきであった。同社がトラック、軽自動車中心から本格的な乗用車の生産に乗りだしたのは1960年(昭和35)であった。開発第1号は1000tクラスのファミリアだったが、その内装にダイニックのビニールレザーが使用されたのであった。これをきっかけにして、ビニールレザーの製品群を中心とする天井用内装材の開発を進めることになった。
 車輛資材販売部が発足したころの主力商品はビニールレザーであった。しかし、本格的にこの業界に参入するにはビニール製品だけでは限界があった。とくにヨーロッパの乗用車はフロアにニードルパンチカーペットを使用し始めていた。やがて日本の乗用車も同じ経緯をたどると予測されていた。さらにはオイルショック後の車輛軽量化という課題にこたえる素材としてニードルパンチ搭載の乗用車(トヨタのカローラー)が日本にも登場してくるのである。
 車輛資材販売部の業務は、乗用車用のニードルパンチカーペットを開発することから始まった。ニードルパンチカーペットは、1968年(昭和43)にインテリア素材として開発したものだが、そのまま車輛内装材として使用できるわけではなかった。柄物デザインの織物に近いタイプ、ファンシーパンチといわれるニードルパンチカーペットが求められていた。
 ファンシーパンチは既存の設備では生産できないため、1976年(昭和51)7月、深谷工場にファンシーパンチ製造機を導入した。翌年の12月に東洋工業の乗用車にダイニックのファンシーパンチが初めて採用されたが、当初は生産台数の少ない車種にのみ使用されていた。1978年(昭和53)からは量産車種にも採用されるようになり、さらに東洋工業だけでなく5社の8車種に採用されて、車輛用カーペットの生産は飛躍的に伸びた。
 ファンシーパンチの開発によって、車輛資材への進出が本格化した。納入先も東洋工業1社から8社となり、1978年(昭和53)の売上高は1975年(昭和50)の約8倍にふくれ上がった。この年には約30万メートルの車輛用カーペットを市場に供給、きわめて短期間のうちに業界で主要な地位を占めるまでになった。


ビジネス用途部門の強化

 1977年(昭和52)11月の組織改正で、クロス販売部に所属していたパスブック販売担当とインクリボン販売担当を分離し、ビジネス用途販売部を設置した。銀行通帳用クロスとコンピュータ用のインクリボンが、その担当商品であった。
 インクリボンはタイプライター用の印字記録素材から発展したものである。ダイニックがコンピュータ用リボンの業界に参入したのは、1976年(昭和42)からだった。当初、日本電気や富士通のラインプリンタ用リボンを狙ったが、品質上の問題が解決できず挫折を繰り返していた。1968年(昭和43)、日本電信電話公社(現NTT)のテストに合格、本格的な進出の足がかりをつかんだ。ラインプリンタ用リボンについては、機器メーカーの純正部品とする販売方式をとらず、アフターマーケットへの展開をめざした。メモレックスとタイアップして、同ルートによるダイニック・ブランド製品の販売に向かったのである。
 端末プリンタ用リボンの製造は、1970年(昭和45)から始まっている。専用の通信回線が未発達だった当時、その役割を果たしていたのは高速テレックスだった。テレックス用リボンへの取り組みは、タイプライター用リボンを通じて戦前から取引関係があった黒沢通信をパートナーにして始まった。新製品が完成したころ、黒沢通信は富士通に吸収合併され、同社の南多摩工場になる。このようにしてダイニックの端末機用リボンは、富士通の機器に採用されることになったのである。
 端末機用リボンの需要拡大をもたらしたのは、ひとえに金融界のシステム化によるものであった。金融業界の第一次オンライン化が具体的になったのは、1971年(昭和46)年からだった。富士通は都市銀行を対象にして金融端末機器の開発に乗りだし、システムを完成させた。それまでの銀行の端末システムといえば、IBMとNCRの2社が独占していたが、このころから日本の機器メーカーもシステムの販売に乗りだすのである。その牽引車となったのが富士通だった。同社のシステムは都市銀行の約半分に採用されたのである。
 ダイニックはただちに富士通の端末機システムに対応するインクリボンの開発に取り組んだ。1972年(昭和47)ごろに完成した通帳用インクリボンにより、この分野に確かな地盤を築いた。さらに、1977年(昭和52)からコンピュータ関連市場への本格的参入をめざして、販売体制をより強化した。
 パスブックは主に預金通帳などの装幀に使用される印刷用クロスである。ダイニックでは1976年(昭和51)から本格的な取り組みを始め、1977年(昭和52)に新設したビジネス用途販売部の中心テーマになった。
 1975年(昭和50)、郵政省は1983年(昭和58)を目標に第2次オンライン化を発表、都市銀行もそれに追従する構えを見せたところから、磁気通帳用クロスの開発が急務となった。出版用の印刷クロスとは異なる新しいクロスが必要となったのである。いわばパスブックの新しいマーケットが形成されようとしていたのである。しかし印刷を主眼にして出発したダイニックは、それが足かせとなって磁気通帳クロスへのアプローチが遅れ、同業他社に先を越されるはめになった。
 1976年(昭和51)から本格的に磁気通帳用クロスの開発に取り組み、同時に営業部門の強化を図った。インクリボンの販売部門とドッキングしたかたちで、ビジネス用途販売部を設置し、新製品の開発と市場開発を同時に進めた。京都工場が滋賀工場に移転した後、新しいパスブックの商品群を開発、スタートは遅れたが1979年(昭和54)ごろには、市場占有率は50パーセントを超え、業界トップの地位を確保した。


エリアマーケティングの強化

 地域市場の開発も活発に展開し、この期に福岡、札幌、名古屋、仙台、広島に新しい営業所を設置した。
 札幌営業所は1974年(昭和49)7月、札幌市中央区北五条西9丁目に開設した。クロス、インテリア、衣料芯地を中心とする市場開拓が狙いであった。開設時のスタッフは奥富武美所長ほか4人であった。
 名古屋営業所は1975年(昭和50)5月1日、名古屋市中区丸の内3-53-33山富ビルに開設した。中部・東海地区は大阪支社の担当市場だったが、スケールアップには販売拠点が不可欠であり、顧客サービスを含む営業活動の強化のために開設することとなったのである。市場の特性から衣料資材・クロスの販売が中心だった。
 1972年(昭和47)11月に開設した福岡出張所は、営業本部の売上増大戦略の一環として最初に開設した地域開発の拠点であった。山口県以西の市場を対象に全商品の販売を担当する営業活動の拠点と位置づけ、クロスと住宅資材を重点商品とした。
 スタート当初の福岡出張所は、関連会社の福岡クロス工業(福岡市博多区比恵町9―24)内に事務所をおいていた。2年後の1974年(昭和49)、営業所に昇格させ、人員も増員して機能強化を図った。
 仙台営業所は1975年(昭和50)9月に開設した。事務所を仙台市本町11-18第1日本オフィスビルにおき、インテリア、生活用品、衣料資材を中心に営業活動を開始した。
 広島営業所は中国・四国市場の拠点として開設した。1978年(昭和53)11月に開設が明らかにされ、翌年2月に開所した。事務所の所在地は、広島市基町12であった。壁装材、床材などインテリア関連商品を中心に、新規の顧客、新市場の開拓をめざした。
 地方営業所の設置はエリアマーケティングの一環として進められた。オイルショック後の減量経営の時代であったにもかかわらず、あえて地方営業所を新設したのは時代に逆行するようであったが、いずれもインテリア関連商品の販売の中核となり、販路拡張に大きな役割を果たした。インテリア関連商品の販売には、流通機能を含めて販売拠点をもち、地域に密着したきめ細かい営業活動が必要だったのである。

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