京都工場の滋賀移転

社運をかけた一大プロジェクト
 滋賀県多賀町の旧住友セメント工場跡に滋賀工場を建設、京都工場を全面移転するという、ダイニックにとって創業以来2度目の社運をかけた一大プロジェクトは、1976年(昭和51)9月30日にスタートした。その日、多賀神社の貴賓室で社長の坂部三次郎と多賀町長が公害防止協定に調印、滋賀工場の建設が決まったのである。
 滋賀工場の建設と京都工場の全面移転は、1978年(昭和53)秋まで2年計画で推進することになった。京都工場は1928年(昭和3)に建設されているから、ちょうど、50年で使命を終えることになったのである。坂部三次郎は次のように決意のほどを述べている。

 京都工場からの移転は尚二年間かかるので、完全移転の完了は昭和五三年になろう。昭和三年に当社発祥の地、一条油小路から移転して来て丁度五〇年でその使命を全うすることになる。この五〇年間当社の発展の基礎を築き、東京工場、深谷工場を作り上げた功績は非常に大きい。京都工場にとって、東京工場、深谷工場はいわば大切な子供である。子供達はそれぞれ新鋭機械を設備し、立派に育っているが、親工場である京都工場は全く市街地内の工場になり、近隣の民家や行政当局から公害発生工場として白い目で見られながら細々と生きて行く町工場になってしまった。しかも近畿圏整備法、工場等制限法等による締付けは今後ますます厳しくなるであろう。また六大都市のみに新しく設定された事業所税も大きな負担である。このような難しい条件のもとに京都工場が置かれていることを充分理解し、勇気を持って京都工場の滋賀移転を実現させてゆきたいと思う。(『ダイニック社内報』96)

 滋賀移転は、単に設備の移転ではなく、京都工場の閉鎖と滋賀工場の新設を意味するスクラップ・アンド・ビルドであった。直接のきっかけは京都工場周辺の公害問題にあったが、真の狙いは主力工場である京都工場の生産システムそのものの抜本的改革であった。そのために、オイルショック後の不況のさなか、しかも赤字経営にあえいでいるときに、あえて断行したのである。それだけに経営トップのなみなみならぬ強い決意によって進められたプロジェクトであった。
 京都工場はダイニックのメイン工場だっただけに、移転の決定は社内に大きな波紋をもたらし、一時的であったにせよ、工場の従業員が動揺したのも事実だった。


工場規制と公害問題

 京都工場の閉鎖と滋賀工場の新設の背景には、都市計画や地域開発がらみの法規制と公害問題があった。
 さまざまな法規制により、京都が工場立地としての適性を失いつつあったことが移転を決意した理由のひとつであったが、直接のきっかけは工場の新増設に制限を加える「工場制限法」(1964年施行)にあった。京都市全域が同法の適用を受けることになったのである。さらに「工場再配置法」(1972年)によって、京都市全域が移転促進地域に指定された。KF計画(京都工場の設備を深谷工場に移転する計画)が具体化したのは、このころのことである。
 当時、京都工場は「工場等制限区域の特例」として「工場制限法」の適用を猶予されていたが、1974年(昭和49)6月に期限切れを迎えることになっていた。さらに「工場立地法」と「建築基準法」によって、ますます制限が強化された。既存建物の増改築は現実的に不可能となってしまったのである。
「工場立地法」によると京都西工場は、生産施設面積を修正しようとすると、増設はおろか1,230.5平方メートルも面積を削減しなければならず、東工場も651平方メートル削減しなければならなかった。さらに生産施設を更新するときは、既存の施設面積を削減しなければならなかった。「建築基準法」から見ても、西工場はすでに規定の建蔽率をオーバーしており、増築はまったく不可能だったのである。
 京都工場の赤字体質を解消するには、作業効率を高めて生産性の向上を図らなければならない。そのためには、建物の増改築、新設備の導入、レイアウトの改善が不可欠だったが、それらがすべて不可能になってしまったのである。
 公害問題も1975年(昭和50)前後から具体化し始めた。京都は大規模な重化学工業の工場が少なく、公害問題も他の工業都市ほど深刻ではなかったが、工場排水、煤煙、振動、騒音などによるトラブルが発生、事業主に改善を求める声が高まっていた。ダイニックの京都工場があった右京区は、伏見区に次いで公害発生件数が多く、その大半が悪臭と騒音の問題だった。
 当局の規制と監視強化、さらには住民運動が高まるなかで、周辺の住宅化が進んでいた京都工場の悪臭、騒音、工場排水が問題になった。夜間操業はほとんど不可能になった。民家に近い生産設備(ボイラーを含めて)を大幅に改善し、縮小した。1975年(昭和50)には、水の規制が一段ときびしくなった。さらに1976年(昭和51)、1977年(昭和52)と規制が一段と強化されることになっていた。公害防止設備の大幅な増設は生産設備の縮小を意味していた。さらにマンションの入居者をはじめとする住民から振動に対する苦情が寄せられ、工場周辺の地域環境は日ごとに悪化していった。


滋賀県多賀町に決定

 移転先の検討は1975年(昭和50)から始まっている。候補地の調査範囲は、京都府下一円から、大阪、兵庫、滋賀県の工場適地、工場団地にまでおよんだ。当初、候補地として浮上したのは、兵庫県下の赤穂・福崎、京都府下の長田野、滋賀県下の甲賀・草津など14の地域であった。住友セメントの閉鎖工場跡が有力候補になったのは同年9月ごろだった。地域振興整備公団から、七尾・多賀の両工場、赤穂北部・南部の工場団地の閉鎖工場跡地を紹介され、これらも含めて、立地・規模・電気・給水設備などをポイントにして比較検討し、最終的に住友セメント多賀工場の跡地を候補地として選んだ。受電所、浄水道、給水道が完備していたことが決め手になった。
 新しい工場予定地と決まった住友セメント多賀工場の跡地(滋賀県犬上郡多賀町大字多賀270)は総面積37万平方メートル、広大な敷地には山林も含まれていた。鈴鹿国定公園と琵琶湖国定公園にかこまれた自然豊かな地であった。湖東に位置する多賀町は名神高速道路の彦根インターチェンジに近く、国道8号、306号、307号線に接していた。この道路網を利用して主要な顧客がいる東京、名古屋、京都、大阪の周辺都市と結ぶことができ、運輸・交通面からも立地条件にすぐれていた。
 滋賀工場建設と京都工場移転の構想は、1976年(昭和51)3月末から4月初めにかけて社内外に明らかにされた。
 3月31日に課長会で趣旨発表、4月1日に労働組合中央3役に説明、同日、管理者研修会で社長自ら状況説明を行った後、4月2日の朝礼で京都工場の全従業員に社長から公式に発表したのである。さらに同日、記者会見を行い、社外にも移転構想を明らかにした。


新工場の建設計画

 滋賀工場建設は京都工場の移転だけでなく、京都地区にあるダイニック事業所と一部グループ会社の移転も含んでいた。京都工場、中央開発研究所、桂工業、ニックパワーズ、ニックフレート京都支社も、新工場完成を待って滋賀工場に集約することになった。
 滋賀工場の建設は第1期工事、第2期工事に分けて行い、第1期工事は京都工場および関連部門の移転、第2期工事は工場の整備、拡張に充てることになった。
 第1期の工費は土地購入費(付帯設備を含む)のほか、工場建物建築費、機械設備費、ユーティリティー(電力・蒸気・給水・ガス)、公害設備、厚生施設の設置費を含めて約40億円、第2期は工場建設費、機械設備費、厚生・施設・工場整備費などで想定工費は約50億円であった。第1期工事の所要資金は工場移転後の土地売却費を充当、第2期工事の資金計画は業績の裏づけと可能性にもとづいて設備投資計画を策定することになった。
 滋賀工場建設準備委員会は、京都工場移転の構想が発表されると同時に発足した。その構成は次のとおりであった。
 委員長 伊藤博介(専務)、副委員長 河村泰(専務)、委員 服部欣二(常務) 石丸昇(常務) 坂部勝三(桂工業社長) 市川満哉(ニックフレート社長) 尾崎貴一(ニックパワーズ社長) 鎌北明(深谷工場長)
 同委員会は工場移転の審議決定機関として、基本方針の立案、企画から計画の具体的推進までを担当した。
 滋賀工場のコンセプトは最新鋭工場とすることであった。生産設備の自動化、工場のレイアウトの改革、エネルギーの有効利用などを中心に、京都工場がもっていた体質を根本的に改善すること。工場とは別個になっていた中央開発研究所、仕上げ・加工部門、運輸部門を集約し、開発から出荷にいたるまでの全生産の一貫システムをつくりあげること。さらに公害対策に力を注ぎ、あらゆる法的規制を完全にクリアした無公害工場とすることをめざした。


建設と移転を同時に進行

 第1期の建設工事(第1工場、第2工場の建設)は1976年(昭和51)12月から始まった。ところが1976年(昭和51)末から1977年(昭和52)初めにかけて38年ぶりの豪雪に見舞われ、セメントが固まらず、造成計画は大幅に遅れてしまった。3月末になってようやく土木工事が完了、工場棟の建設と排水処理施設の建設に移った。第1工場の基礎工事は4月29日、第2工場は5月6日から始まった。6月初旬から鉄骨組み立て工事を開始、7月末に屋根ができあがった。
 京都工場から滋賀工場への機械設備の移転は、第1期工事の建物がなかば完成した1977年(昭和52)8月に始まり、まずステーフレックスの設備を運びこんだ。
 設備移転を進めつつ建設を続行し、9月22日、通産省の審査に合格、同月25日にボイラーの火入れ式を行った。10月には特殊コーティング、ビニールクロス、壁紙、12月からはクロス(連結機2セット)と移設は急ピッチで進んだ。
 設備の移設は順調だったが、生産活動が軌道に乗るまでには時間的な経過も必要であった。同じ機械でも移転によって微妙なくるいが生じ、思わぬトラブルが発生した。新設・改造をともなう機械は起ち上げがむずかしかった。とくにクロスやビニールなどは歩留りが悪く、改善に時間がかかった。最も留意したのは顧客の信頼確保であった。どのような悪条件であっても、顧客に迷惑をかけないように全力をつくした。たとえば第1工程は京都工場、第2工程は滋賀工場、第3工程は再び京都工場にもどして加工、製品を仕上げるという方法も採った。
 第1期工事は1978年(昭和53)10月に完成、第2期工事(桂工業の作業所、ニックフレートの倉庫・作業所の建設)は同年12月12日に着工、1979年(昭和54)7月に完了した。


最新鋭の開発工場

 滋賀工場の竣工披露は、工場の枠組みが完成した1978年(昭和53)5月11日に行い、関係者多数を招待して、新工場を披露するとともにパーティを催した。
 ダイニックの主力工場として完成した滋賀工場は、生産の合理化、生産能力のアップ、無公害、省資源という時代の要請にこたえる最新鋭の工場であった。
 生産設備の大幅な拡充・改善は、生産能力の増強、品質の向上をもたらした。工場の機械レイアウトも合理的に設計、さらに原料から製造、検査、出荷まで一貫したラインを設定した。製品の集中管理によって、物流も大幅に改善することができた。
 当時の社会状況を反映して、公害対策と省資源に細心の注意をはらい、排水処理設備、廃ガス燃焼装置、焼却炉にいたるまで最新の設備を導入した。さらに当時、エネルギー危機が叫ばれていたこともあって、洗滌水や冷却水のリサイクル利用、廃ガス燃焼カロリーの再利用などの装置も付設した。いわば、環境保全、省エネルギのモデル工場としてスタートしたのである。
 滋賀工場移転後の京都工場跡地の処遇は、移転も含めて1975年(昭和50)2月ごろから検討していた。当初は大手のデベロッパーによる開発プランもあがったが、最終的には住宅公団と京都市(教育委員会)に売却することになった。
 50年の歴史の幕を閉じた京都工場の解体は、移転設備の撤去が完了した1978年(昭和53)11月から始まり、翌年2月に完了した。京都市に売却した西工場跡には、1980年(昭和55)4月、中学校が新設され、開校した。東工場とクロス会館跡には住宅公団のビルが建設された。

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