自動化・省力化・ライン化

DPSとライン化
 1985年(昭和60)より積極的に設備増強を図ったが、その狙いは単なる設備の更新だけでななく、ライン化関連、自動化、FA化、新分野への参入にあった。他の産業がこぞって設備投資を控えるなかで、逆に設備増強を図ったのは、ひとえに〈メーカーに徹する〉とする姿勢の表れであった。
「必要なものを、必要なだけ、必要な時に」をモットーとするDPS活動は、全社を対象とする管理・改善の基本理念であったが、工場におけるDPS活動の目標は、生産設備の〈ライン化〉であった。
 ライン化とは製造設備の配置を機種別、工程別から製品別に変更することである。多品種少量化、納期短縮、コストダウンという市場のニーズにこたえるためには、設備シフトの大幅な改善をともなう〈ライン化〉が不可欠であった。
 生産システムの〈ライン化〉を滋賀工場の壁紙から始めたのは、壁紙が最も装置産業的な製品だったからである。
 壁紙は塗装・印刷・エンボスの製造工程、最終仕上工程を経て完成品となる。ところが完成品が出荷倉庫に入るまでには2カ所で作業中断があった。原因はエンボス工程と仕上工程が別個の建物にあるためであった。そのために、仕上工程の作業が渋滞しているにもかかわらず、エンボスを終えた半製品が大量に仕上工程に送られてくるということもあった。
 1987年(昭和62)の春、壁紙ライン化のプロジェクトチームが滋賀工場で発足した。同プロジェクトチームは、DPSのプロセスによって工程を徹底的に分析、生産ライン構成の検討に着手している。
そしてほぼ1年後の1988年(昭和63)4月に設備改良も含めて新しい生産ラインができあがった。 新しい生産ラインでは、製造(第1工場)、検査・仕上げ(第2工場)、製品保管(第3工場)と分散していた工程がすべて第1工場に集約され、モノの流れが一元化されるようになった。各工程の稼動状況を柔軟に調整できるようになり、モノと品質・工程間情報が一つのラインにまとまった。その結果、壁紙の生産量は月間200万平方メートルから270万メートルに増大、在庫量は半減した。


ワン・ライン化をめざす――滋賀工場

 自動化・省力化・省エネルギー対策を狙いとする設備増強を1979年(昭和54)から積極的に進めたが、滋賀工場で注目されるのは、ビニール壁紙の生産設備の規模拡大である。
 19801年(昭和55)5月、滋賀ビニール製造課の新しいビニール塗工機(VC―3)を中心とする生産システムが完成した。発泡機と4色印刷機で構成されるこの製造システムは、壁紙の生産量を月間150万メートルとする体制づくりの一環として導入したのであった。発泡機は同年3月、4色印刷機は5月から稼動を開始した。
 新設のビニール塗工機は、原紙を投入すれば、プリントとコーティングが行われ、さまざまな外観の発泡製品となる。しかも50メートルに巻き取り、カットして出てくるというワン・ラインの設備であった。同システムによって、多色化、高発泡化という多品種展開ができるようになった。
 壁紙の設備増強はその後も積極的に進め、1985年(昭和60)には、月産300万メートル体制の確立をめざして、まず同年5月に新しい型出機を導入した。1986年(昭和61)11月には、2色刷りグラビア印刷機を新設し、高発泡・多色刷印刷技術のレベルアップを図った。さらに1987年(昭和62)には、ロータリー5色機を新設した。同機は各種制御装置をそなえた最新鋭機で、高品質のモノづくりと納期の短縮、増産体制の整備という課題にこたえる設備であった。1988年(昭和63)1月には、既設設備を一連化する改造(VR-1機とVC-2機)を行い、さらに四月には独自開発の新しいコーティング・マシン(VC-6機)を導入した。同設備はライン化思考をもりこんだ新鋭機と最新の型出機で構成されていた。ダイニックが長年蓄積してきた型出し技術をもって設計したもので、高速で高温・高精度の型出しができるところに大きな特徴があった。設備の高度化とともに壁紙生産システムそのものの見直しを行い、1988年(昭和63)4月に壁紙のライン化は完了した。それまで製造、検査、仕上げ、製品保管と分散していた工程は、すべて同一工場に集約され、モノの流れが一元化されることになったのである。このライン化によって、品質・工程情報のフィードバックが強化され、コスト削除にも大きな効果をもたらした。
 1985年(昭和60)には月産300万メートル体制を確立した。1986年(昭和61)11月には、2色刷りのグラビア印刷機を新設し、1987年(昭和62)7月には、ロータリー5色機(VR-2)を導入した。
 1988年(昭和63)3月には、既存設備を一連化する改造(VR-1機とVC-2機の一連化)を行い、ロータリータイプ壁紙の量産、コストダウン、納期短縮の問題を解決した。
 1981年(昭和56年)9月、ステーフレックス製造課に「アキュープリント・コーティング・システム」を導入した。同システムは、ヨーロッパで開発された接着芯地の新しい生産方式である。エレクトロニクス時代に登場したこの新しい接着芯地の製造システムは、すべてコンピュータ制御によってドット・コーティングするところに大きな特徴があった。もともとはイギリスのステーフレックス社のアイディアであったが、本格的な生産技術にまで発展させたのは、ダイニックの技術スタッフである。「アキュープリント・コーティング・システム」の開発によって、滋賀工場は後に第七回静電気学会全国大会で「進歩賞」を受けた。
 クロス事業部では、コーティングの自動化をめざして設備の増強を進めた。1987年(昭和62)11月、新システムの塗料製造装置が完成した。パスブック専用の塗料製造装置、全自動化を実現した新装置は、ダイニック独自の省力化システムであった。1988年(昭和63)6月には、最新鋭のグラビアコーターが完成した。同設備は高精度の表面処理コーティング機、印刷用の新素材開発に大きな役割を果たした。
 DC事業部、芯地事業部も、1987年(昭和62)からDPSに対応した設備強化を図った。DC事業部は同年7月、TC-1号機(織物・不織布のコーティングマシン)を大幅に改造、広幅化、塗装精度の向上、スピードアップを図った。1988年(昭和63)11月には、小型ビーム染色機を装備した。これは少量生産、自動化、省力化、省エネルギーに応える設備であった。
芯地事業部は1987年(昭和62)5月、SC-2号機を改造、多品種少量生産とスピードアップの体制を整えた。


設備の新設・拡充で活性化――東京工場

 東京工場の合理化計画は1982年(昭和57年)から具体化した。同工場のクロス製造機は、いずれも設置してから23〜24年経過していたが、根本的な改造を加えないままであった。
 合理化計画は、老朽化した機械・設備を廃棄あるいは除却して、メインの機械に生産を集中することであった。すなわち、製造機を新設し、自動化・計測化のレベルアップ、仕上部門のライン内への集約を図って、生産性の向上を実現することであった。
 第1ステップは、1982年(昭和57)10月に始まった。老朽化した機械の撤去と新しい設備導入は、翌1983年(昭和58)3月に完了し、次いで主力マシンの計測化・自動化、仕上げの内製化を内容とする第2ステップへと向かった。
 1984年(昭和59)1月には、滋賀・深谷両工場につづいて、CCM(コンピューター・カラーマッチング)システムを導入した。同システムは、多種多様な色彩のクロスを扱う東京工場にはなくてはならないものだった。とくに生産管理面で、大きな役割を担うものであった。
 新規の設備投資も活発に行った。代表的なものをあげれば、FFC(ファイン・フィルム・コーティング)製造設備の導入である。
 FFC製造設備は1986年(昭和61)12月に完成した。同製造設備は、全体がクリーンルームのなかにあるという画期的な設備であった。同設備の完成により本格的に精密フィルム市場に参入することができた。
 フィルムコーティングへの取り組みは、1982年(昭和57)から始まっている。この年、研究開発用のクリーンルームと実験プラントを設置、技術開発を開始した。およそ4年にわたって開発、テストマーケティングを進め、1987年(昭和62)8月に事業化を決定した。狭山事業本部(東京工場)にFFC事業部を新設、量産化をめざして本格的な製造ラインを設けたのである。
 インクリボン事業部でも、新規の設備拡充を行い、1987年(昭和62)6月、熱転写フィルムリボンの製造設備を導入した。熱転写フィルムリボンは、パーソナル・ワープロなどを中心にして幅広い重要が期待できる商品と予測されていた。同設備の導入によって、従来のファブリックリボンに加えて、熱転写フィルムリボンもあわせもつことになった。


不織布設備を増強――深谷工場

 この期の深谷工場は、不織布の設備を中心に、新設備の導入が相次いだ。とくに活発に設備導入を行ったのは、カーペット製造課であった。生産能力のアップをめざして、設備の高度化を図ることが主な狙いであった。
 1984年(昭和59)10月、ニードルパンチの新しい製造設備を新設した。カーペットなど床材を製造してきたニードルパンチ機は、太デニール繊維を対象とする設備だったが、新しく導入した設備は、中デニール・ニードルパンチ機であった。同設備によって、車輛用、土木用、合成皮革ベースなど、きわめて広範囲の用途展開が可能になった。
 1985年(昭和60)ごろになると、インテリアに加えて車輛市場の需要が増大したため、設備の拡充に向かうことになる。同年2月、新しいニードルパンチ機を設置した。総工費四億円をかけた設備増強によって、生産能力は月間60万メートルから80万メートルに拡大した。翌1986年(昭和61)9月にはニードルパンチライン(PF-4号機)を導入している。同設備の特色は、従来のホッパー計量方式をFBK容量方式に変更するとともに、高速ローラーカード、クロスラッパーなど最新鋭の設備を導入したことなどであった。いわばベースとなる不織布生産の高速化が狙いであった。11月には、バッグサイジング機(WD-3)を導入したが、同設備は65万メートルの生産能力をもつことと、自動制御装置によって樹脂付着量の精度がアップしたことなどが特徴であった。乾燥機もテンター・ゾーンがなく、シリンダー乾燥だけであった。従来のWD-2にくらべて機械全長が短くなり、そのため監視作業も容易になるなど効率アップが見込まれた。これら一連の設備の導入によって、ニードルパンチの量産体制を確立したのであった。
 1987年(昭和62)7月には、不織布の熱処理機を新設した。同機は成型不織布の仕上げを行う設備であった。当時、車輛のトランク内装用の成型不織布の需要が急増、この分野へ本格的に参入するために設備強化を図ったのである。同機の設置によって成型不織布の生産体制を整備し、インテリアをはじめ広範な新製品の開発が可能になった。
 1988年(昭和63)9月には中・軽量のニードルパンチライン(PF-5号機)を設置した。同機は自動車用内装材の製造を目的としたものであった。新設備の導入によって、需要が急増しつつあった不織布天井材の生産体制を確立、さらに湿布用基材、中入綿、フィルター類などの製造が可能になった。

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