グループ経営の第2ステップ

グループの再編成
 1980年(昭和55)前後から始まる〈グループ化〉の特徴は、グローバルな企業戦略を意識した活発な海外進出である。国内では既存のグループ各社の実態を見直して、整理・統合を進めた。そのうえでダイニックの新しい市場戦略と連動させるかたちで、新しいグループ会社の設立を具体的に進めた。
 1982年(昭和57)から始まる中期経営計画では経営体質の抜本的な改善を掲げた。経営の効率化、借入金削減などによって減量経営を推進し、赤字体質から脱して、3年後に増資ができる強固な企業体質をつくりあげることを基本方針とした。合理化の対象はダイニックだけではなく、グループ全体を視野に入れて、収益力の強化を図った。
 グループの全企業をチェックの対象にし、赤字会社の解消、黒字体質の実現を目標にして、統廃合を含む強力な改善策を検討することになったのである。その結果、1981年(昭和56)から1983年(昭和58)にかけて、グループ会社7社を統合あるいは解散した。
 ニック工業(1969年設立)は1982年(昭和57)10月、ニックパワーズ(1975年設立)は1983年(昭和58)5月、フレスタインテリア(1975年設立)は1983年(昭和58)8月、それぞれ企業としての使命を終えた。いずれも長期的に見て、飛躍的な体質改善がのぞめないという判断を下したのである。
 海外ではフェルトロック社を1980年(昭和55)に清算した。同社は綿素材によるディスポーザブル不織布を生産し、ワイピング業界への参入をめざしたが、生産技術面に当初から問題をかかえ、販売面でもアメリカ市場における競合関係の実態を把握できなかった。
 ナカヤ(1974年グループ参加)は、1982年(昭和57)7月、ニックに吸収合併し、ニック保険サービス(1975年設立)は、1981年(昭和56)5月設立のニック不動産に吸収した。福岡クロス工業(1953年設立)は、1982年(昭和57)グループを離れることになった。ダイニックとの資本関係は解消したが、業務面では親密な関係を保ちつつ経営していくことになった。


世界市場を視野に

 1985年(昭和60)当時、ダイニックを含むグループ一8社の売上高は約550億円(年間)だっが、当面の目標を1,000億円において、1987年(昭和62)から、海外の生産拠点づくりを意識的に進めてきた。
 海外生産基地の増強のため1988年(昭和63)のダイニックUSAを設立、次いで1989年(平成元年)にタイ・ステーフレックスを設立した。これによりダイニックグループの海外工場は台湾、シンガポールを含めて4工場となった。さらにイギリス、アメリカへの工場進出を具体化していった。これら新しい生産基地は、いずれも国内・海外をひとつの市場と見る世界戦略にもとづいて設けたものである。キイ・テクノロジーは国内で強化しながら、国際分業化を図るというのが基本的な姿勢であった。
 市場というものを地球規模でながめ、グローバルな市場戦略にもとづいて海外進出を具体的に検討した。高度情報化社会の進展、あるいはボーダレス時代の到来によって、もはや市場というものを〈国内〉〈海外〉という枠組みで考えることができなくなった。日本企業の海外進出が活発になり、それにともなって素材供給メーカーであるダイニックも生産拠点を海外に設定する必要性が生じてきたのである。


〈川下〉の強化―狭山ニック、京都ビジネスサプライ、狭山成型

 狭山ニック、京都ビジネスサプライ、狭山成型の設立は、いずれもダイニックの素材と密接な関係をもたせながら、その〈加工〉〈販売〉をめざすという試みであった。
 狭山ニック株式会社は、1984年(昭和59)10月、狭山市上奥富のダイニック東京工場内に設立、資本金500万円、会長坂部三次郎、社長佐藤暢秀、従業員7人で出発した。
 設立と同時にダイレクト製版機、単色印刷機、小ギロチンなどを設置、まずダイニックグループ各社の事務用品、帳票、伝票類、ラベル、パンフレット、各種案内などの印刷を始めた。1987年(昭和62)にはオフセット印刷機、1988年(昭和63)にはオフセット多色印刷機を導入して設備を強化、クロスの2次加工を始めた。
 京都ビジネスサプライ株式会社は、インクリボンをはじめとするビジネス用品の製造・販売会社である。1985年(昭和60)11月、京都のダイニックビル内(京都市右京区西京極大門町)に設立した。資本金は1,000万円、会長は坂部三次郎、代表取締役は久納浩三であった。
 同社の設立目的は、ダイニックの情報関連部門の強化である。ワープロ、パソコンなど情報機器のインクリボン、あるいはダイニックのコンピュータ・リボンのカセット装填など一連のビジネス用品の加工を業務とした。1986年(昭和61)にはインクリボンの塗装機、1987年(昭和62)にはラインプリンタ仕上機と年を追って設備の強化を図り、1988年(昭和63)には高性能新型塗装機を設置、生産能力を3倍に拡大した。
 1986年(昭和61)12月に設立した狭山成型株式会社は、自動車用の成型天井材の加工・販売会社で、かねてよりダイニックと密接な関係にあった広島の三和工業をパートナーにした合弁事業で、ダイニック東京工場内(狭山市上奥富)で発足した新会社の資本金は1,000万円、社長には佐藤暢秀が就任した。2年後の1988年(昭和63)6月にダイニックが全株式を取得、100%出資のグループ会社とした。


新しい業種ヘ――ダイニック・ファクトリーサービスほか

 多賀緑化開発株式会社は、ダイニック滋賀工場の広大な敷地の有効開発、管理を目的に設立した。1983年(昭和58)8月、旧住友セメント工場の採石跡にゴルフ練習場とショートコース(9ホール)を造成し、同年10月に新会社として発足した。設立資本金は350万円、社長には坂部勝三(桂工業・社長)が就任した。同社はもともと桂工業で模索していた造園・造林、山林経営などのプランニングから発展したものである。ゴルフコース(ショートコース・9ホール)、打放し練習場(15打席)の経営のほか、飲食喫茶、ゴルフ用品の販売、造園・造林などが主な業務であった。自然環境の保全と利用の両面から事業展開を図るというのが、多賀緑化開発の経営方針であった。
 ダイニック・ファクトリーサービス株式会社(会長坂部三次郎、代表取締役西田嘉一)は、1989年(平成元)6月に設立した。資本金1,000万円、本社は狭山市上奥富の東京工場内においた。事業内容は、ダイニック各工場の工場設備、工場周辺の保安保全、環境整備の請負、ダイニック各工場で発生する軽作業の補助業務の請負、合成樹脂2次加工品の加工・販売などである。
 グループ会社の設立目的はさまざまだが、多賀緑化開発とダイニック・ファクトリーサービスには、高齢者の雇用促進という狙いもあった。
 アポロ興産株式会社は、1981年(昭和56)5月、京都市(右京区西京極大門町26)に設立したニック不動産を発展させたものである。ダイニックとグループ各社が所有する不動産の管理を目的に設立したニック不動産の業務を引き継ぎ、さらに翌1982年(昭和57)には、損害保険、生命保険の代理店業務をニック産業から引き継ぎ、現在の事業内容になった。
 資本金は200万円、会長坂部三次郎、社長岡崎俊夫で出発した。1987年(昭和62)4月、エスケー興産と社名を変更し、6月に実施した増資で新資本金を1億円として新しく出発した。


地球規模で市場を見つめる――USA社、タイ・ステーフレックス社

 ダイニック・アメリカ社(DYNIC AMERICA INC.)、ダイニック・USA社(DYNIC USA Corp.)は、ともにダイニックのアメリカ進出の拠点として設立した会社である。ダイニック・アメリカ社はアメリカにおける活動拠点であり、ダイニック・USA社はコンピュータ・リボンの生産会社である。
 ダイニックがコンピュータ・リボンの現地生産に乗りだしたのは、コンピュータ、プリンタ、複写機などの情報関連企業が海外に進出、コンピュータ・リボン市場が国内・海外という枠組みではとらえられなくなったという環境変化によるものである。さらに円高現象も加わって、日本からの輸出では対応できなくなった。こうした背景から、もはや現地生産が不可欠になっていたのである。
 アメリカへの工場進出計画は、ダイニック単独で進めたが、本格的な事業計画を推進する過程で、日本企業との提携を模索していたアメリカのコンピュータ・リボン・メーカーが提携先として浮かびあがってきた。アメリカのトップメーカー、ヌ・コート・インターナショナル社である。同社をパートナーにして、やがて合弁会社設立に至るのだが、提携には双方とも大きなメリットがあった。ダイニックはヌ・コート社の製造・販売に関するノーハウに、ヌ・コート社はダイニックの技術ノーハウに魅力を感じていた。その意味でダイニック・コート社は、たがいの長所を生かして発足した日米合弁事業だったのである。1986年(昭和61)の暮れから同社と協議を重ね、翌年の秋、合弁会社設立の合意に達した。
 アメリカへの工場進出を正式に決定すると同時に、本格的なビジネスの拠点として現地法人を設立した。1987年(昭和62)9月に発足したダイニック・アメリカ社である。
 社長は坂部三次郎、資本金20万ドル、本社はデラウェア州、事務所はオレゴン州ヒルスボローに設置した。
 同社の設立目的は、インクリボンの対米輸出の円滑化を図ることにあり、主要業務は在庫管理、デリバリー、顧客サービス、関連マーケットの情報収集などであった。将来はダイニック全製品を対象とする、対米輸出の拠点にするというもくろみをもっていたが、当面はダイニック・USA社(後出)への設備リース、部品供給を主要業務とした。
 ダイニック・USA社は、1988年(昭和63)11月、オレゴン州ヒルスボローに設立した。ヌ・コート社との合弁事業(出資比率は1対1)として発足、設立資本金は50万ドルであった。
 発足当初の社名は〈ダイニック・コート〉であった。工場の敷地総面積は1,500坪、建物は約600坪であった。同社は、1988年(昭和63)4月、日本からもちこんだリボンのアセンブルで操業を始め、工場の生産体制を確立した5月から本格生産を開始した。スタート当初の生産能力は月産20万個、100万ドルであった。
 ダイニック・コート社は、ダイニックとヌ・コート社が、たがいにメリットを求めて設立したのだが、ほぼ1年後に合弁関係を解消することになった。その原因はヌ・コート社側にあった。ダイニックが最も期待していたヌ・コート社の販売面でのサポートが不十分だったからである。1989年(平成元)春、両社は協議のうえ、それぞれ独立路線を歩むことになった。
 1989年(平成元)4月、ダイニックはダイニック・コート社の全株式を取得、社名も〈ダイニック・USA〉と変更して再出発することになった。
 新会社の資本金は200万ドル、社長(オフィサー)には荻原滋夫が就任、経営陣(デレクター)もすべてダイニックの関係者で構成することになった。
 アメリカにつづく工場進出はタイであった。台湾、シンガポール、アメリカにつづく第四番目の海外生産基地として接着芯地の製造工場を設立した。
 タイ・ステーフレックス社(THAI STAFLEX CO., LTD.) は、1988年(昭和63年)9月1日に設立した。同社はダイニック、三井物産、タイの大手財閥サハ・パタナ・グループ(SPI)3社の合弁による芯地の製造・販売会社である。資本金は4,000万バーツ(円換算約2億円)。出資比率はダイニック45% SPI40%、ミットサイアム(タイ三井物産)11%、三井物産4%である。新会社の社長にはSPIのブンシティ・チョクワタナ代表、副社長には坂部三次郎(ダイニック社長)、マネージング・デレクターには馬場常夫(ダイニック)が就任した。
 芯地の製造工場をタイに設立したのは、東南アジアがますます世界の縫製基地として重要な位置を占めつつあるという背景があったからであった。すでにダイニックは、シンガポールにNCステーフレックス社を設立、欧米のアパレルメーカーが東南アジアで生産している製品に的を絞って芯地事業を展開してきたが、さらにアパレル生産基地として成長がいちじるしいタイに着目、新しい生産拠点の設置を決めたのである。
 タイの巨大企業グループであるサハ・パタナ・グループとは、数年前から密接な関係が始まっていた。同グループはダイニックの各種プラント・製品群に強い関心をよせていた。たがいに連携を模索するなかで、まず芯地の製造・販売について合弁事業を始めることに合意したのである。ダイニックとSPIは1988年(昭和63)7月21日に最終的な合意に達し、新会社は9月1日に正式に発足した。本社をバンコックに設置、工場をバンコックの東北130キロのシラチャ(Sriracha) の工業団地に建設することに決定した。工場建設は順調に進み、翌1989年(平成元)6月7日に設備の設置をすべて完了、ステーフレックスの本格的な生産・販売活動を開始した。


経営改革で復調――ニック産業、三豊クロス

 ボーリングを中心とするレジャー・スポーツを主要業務として出発したニック産業は、〈本業にこだわらない〉、しかし、〈本業をおろそかにしない〉という姿勢を一貫して堅持してきた。ホビーショップの展開も、ボーリングの伸長に結びつく、という観点から、店舗や商品構成のコンセプトを立案してきたのである。健康・スポーツ産業としてのボーリング部門とホビーショップ部門を併存させ、家族そろって楽しめる空間づくりをめざしてきた。
 ボーリングは不振の時代がつづいたが、1970年代の後半になると回復の兆しが現れてきた。1979年(昭和54)のアジア大会の正式種目になるなど、ボーリングが健全なスポーツ競技として見直されるようになってきたのである。ピーク時に63センターあった京都のボーリング場が18センターに減少していたせいもあったが、この年を境ににわかに業績上昇に転じたのである。1984年(昭和59)には、コンピュータ・ボーリングを導入するなど、ボーリング場のリフレッシュをめざした。カラービジョンによるコンピュータ・ボーリングを、日本で最初に導入したのもニック産業である。
 ボーリングは1988年(昭和63)の京都国体では、成年の部で正式種目になり、1989年(平成元)の〈はまなす国体―北海道〉では、少年の部でも正式種目になり、学校ボーリングも活発になっていった。現在は国民スポーツとして市民権を獲得、ボーリング部門は安定期に入っている。
 ホビーショップの好調とボーリングの回復で、ニック産業は1980年(昭和55)度に繰越欠損を一掃した。業績の急上昇を背景に、1980年(昭和55)から4年連続して増資を実施して資本金を9,900万円とした。1988年(昭和63)年商は約52億円、内訳はホビーショップ部門が約48億5,000万円、ボーリング部門が約3億5,000万円であった。
 三豊クロスも1980年代後半の経営刷新で新しい伸長期を迎えた。同社は1980年(昭和55)1月期には売上高76億円となり、グループ総売上高の3分の1を占めるまでになった。だが1983年(昭和58)から業績が悪化し、過渡期を迎えることになる。
 経営再建のために1985年(昭和60)、〈売上の増強〉と〈管理の強化〉を内容とする「5カ年計画」を策定し、東西の開発課を設けるなどして新製品による拡大、マーケットの開拓を精力的に進めた。その結果、新製品の売上高は全体の10%を占めるまでになり、活性化は一定の効果をあげた。
 1989年(昭和64年)の売上高構成は、次のとおりである。
 クロス9.2%、衣料25.0%、壁紙35.5%、カーペット18.7%、ニックセブン5.6%、産業資材・ファンシー4.6%、開発商品1.4% 衣料部門、壁装材、カーペット類をはじめとする住宅部門が安定した伸びを示し、さらに同社にとって新規分野であったビジネス用途、ファンシー商品分野が急速に伸び、1990年(平成2)1月期には経常利益は1億円に達した。


業容の多様化に向かう――ハロニックほか

 ハロニックは1986年(昭和61)、3度目の倍額増資によって新資本金を4,800万円としたが、このころから積極的に業容の多様化と進め、綿ベースのハロダイトの商品群だけでなく、毛芯、麻芯、接着芯地などの商品ラインの拡充に乗りだしている。まずはヨーロッパの芯地に着眼、1988年(昭和63)9月にはベルテロ社(イタリア)、11月にはクイレ社(オランダ)、12月にはシュタインマン社(スイス)と販売提携を結び、毛芯の輸入販売を開始した。さらに1989年(平成元)5月からSWG社(西ドイツ)の緯糸挿入接着芯地、Wポイント接着芯地の輸入販売を開始した。1990年(平成2)からは、アイルランドのメーカーから輸入した麻芯の販売も行っている。タイ・ステーフレックス社と加工契約を結び、これらヨーロッパ製芯地による〈造り毛芯〉の販売も始めた。
 そのほかのビジネスラインとしては、ワイシャツ地、ブラウス地、クロスファスナーなどの展開がある。たとえば1989年(平成元)3月には、シュトッツ社、ハビス社(スイス)と提携、高級ワイシャツ地、ブラウス地の輸入販売に乗りだしている。一連の多様化によってハロニックの売上高(1989年)は、月商9,000万円に達した。
 大和紙工と桂工業はともに総合コンバーター(包装、スリッター、トリミング)としての道を歩んできたが、この期には周辺事業の充実化を図った。
 大和紙工は、1981年(昭和56)7月の増資、新資本金を6,000万円とした。東京・深谷両工場の製品の加工、断裁、包装でスタートしたが、エンボス、型抜きなどにも進出して、ダイニック以外の受注の獲得につとめてきた。同社が培ってきた技術力が市場から評価され、1980年代には受注の大半をダイニックとは関係のない独自に獲得した顧客が占めるようになった。ユーザーの多角化によって、東京・深谷の両工場が仕上げの内製化に路線を変更しても、大きな影響を受けることなく、独自の路線に軟着陸することができた。
 桂工業も1980年(昭和55)7月の半額増資で新資本金を3,000万円とした。このころから合理化・省力化をめざして、周辺事業の拡大に向かっている。たとえばエンボス、スリット加工などで現有技術を育成、外部からの受注の増大をめざした。また建材装飾用アルミ箔、医療用フィルム、蒸着フィルム金箔紙の加工などで新しい分野に進出した。
 パネロンフラワーを核としたホビー商品の展開で好業績をあげてきたニックは、同商品のライフサイクルの終焉とともに採算性が悪化し始めた。1980年代前半に大きな転機を迎え、同系列のグループ会社であるナカヤと合併して新しく出発することになった。
 株式会社ナカヤは、もともと手芸材料、毛糸類の小売店として1966年(昭和41)に設立され、1973年(昭和48)からニックのパネロンフラワーの代理店となっていた。当時の企業規模は資本金1,000万円、年商4億円、従業員50人、店舗数は15であった。1974年(昭和49)7月、ダイニックとニックはナカヤと資金面で提携、資本金を3,000万円として新会社を発足させた。ダイニックグループの1社となったナカヤは、さらに同年11月、倍額増資を実施して、資本金を6,000万円とし、ニックと業務提携をさらに密にすることになった。大型ホビーセンターを設けるなどホビー業界に独自の展開を試みたが、ニックと時を同じくして1980年代初めから業績が低迷し始めた。
 このため1982年(昭和57)7月、ニックとナカヤは合併して、新しく出発することになった。両社の合併は、ホビー分野のメーカー(ニック)と小売(ナカヤ)の垂直統合であった。新生ニックは会長坂部三次郎、社長中津淳一でスタートした。毛糸、和洋裁用品、生地などの手芸用品、ファンシー商品、ホビー商品などを主力に、首都圏のデパート、スーパーにホビーショップ30店舗を展開、1989年(平成元)ごろには年商約16億円となった。


拡大の第2ステップへ――台湾科楽史工業、NCステーフレックス社

 台湾科楽史工業股份有限公司はアジア地区の生産拠点として着実に成長、1981年(昭和56)8月に増資して資本金を2,800万元とした。新分野への進出も活発で、1981年(昭和56)からはビニールクロス、1985年(昭和60)からはニックセブンの生産を開始した。創立20周年の前年にあたる1987年(昭和62)には、長年の悲願であった月商1,000万元を突破、さらに規模拡大をめざして、同年12月に第4工場を増設した。
 創立20年を経た台湾科楽史工業の年商は約1億7,700万元(円換算約10億円)に達した。生産品の構成は、布クロス(23%)、紙クロス(20%)、ビニールクロス(18%)、粘着テープ(16%)商標布(19%)、その他(4%)であった。
 NCステーフレックスは創業7年目にあたる1980年(昭和55)から第2ステップに入り、ドライドット・コーティング・マシンを導入するなど設備の増設によって新製品を開発、新しい市場開拓に乗りだしている。同社の販売地域はシンガポールのほか、香港、タイ、マレーシア、スリランカ、オーストラリア、韓国、台湾(ダイニックの仲介による)だったが、インドネシア、インド、パキスタン、バングラディッシュ、フィリピンにも販売代理店を設置するなどして、販売の強化を図った。同社は1986年(昭和61)から業績が大幅に向上、1989年(平成元)の売上高は約1,300万シンガポール・ドルに達し、台湾科楽史工業とならぶダイニックの重要な海外生産工場となった。

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