ダイニックグループの新世紀」

グループ経営元年
 創立80周年にあたる1999年(平成11)の年頭に、社長の坂部三司はこの記念の年を「グループ経営元年」と位置づけることを宣した。グループ報「おれんじ」bP88の巻頭メッセージと8月18日付のメッセージ「創立記念日を迎えるにあたって」のなかで、「グループ経営」の新しい方向について、次のように述べている。

 グループ経営元年……。今年をそのように位置づけ、海外を含めたグループの総合力というものを究めてゆく。すべてをグループ全体を視野において判断する。つまりグループ・トータルでみた得失や効率というものをモノサシにして、経営全般を考えてゆくということである。したがって今後は〈人〉〈モノ〉〈金〉の交流も、グループを対象にして展開されてゆくことになる。(「おれんじ」188)

 現状のままでは企業としての未来はない。グループ全体を視野におさめて企業効率を追求する必要がある。さらに2000年3月期より連結決算が世の中心になるという背景もあって、今期から「ダイニック・グループ方針」を明示します。
 創立80周年という記念すべき今年を「ダイニック・グループ改革元年」「グループ経営元年」と位置づけて、いま私たちは新しくスタートします。グループ生産体制の再編、関連会社の統廃合などを中心とした一連の経営合理化策については、みなさんもすでにご承知の通りですが、2年間での完遂をめざします。
 グループ全体をつねに視野におさめて、運営そのものの簡素化、単純化をめざし、総力を発揮できるような体制づくりを考える。それが今後の経営スタンスになります。新しいスタートにあたって、ダイニック・グループを構成するみなさん一人ひとりが、緊張感を等しくもっていただきたい。グループ内であれば、いずれの社に在籍しようとも、立場というものは何ら変わるところがありません。みなさん一人ひとりが、いまあらためてダイニックグループ株式会社に再就職したのだ……という認識に立っていただきたい。グループの新しい力はそこから生まれてきます。(「創立記念日を迎えるにあたって」)

「グループ経営元年」という発想は、同年3月に公表した「経営合理化策」と連動したもので、グループ全体を視野にいれて、最も効率の良い経営をめざそうとする考えにもとづいている。
 おりから2000年3月期から連結決算が主流になるというという背景から、グループ中心の経営という視点が不可欠になる。海外、国内を問わずグループの総力を結集して効率的な経営をめざす。「ヒト」「モノ」「カネ」の経営資源も「グループ全体」を尺度にして投入しようとするもので、ダイニックにとっては大きな「経営変革」であった。
 グループの拡充・再編は1992年(平成4)の後半から活発に実行されている。世界戦略にもとづいて中国やアメリカで大規模な設備投資を行う一方、国内の業績不振のグループ会社の統廃合に着手した。1994年(平成6)秋から1999年(平成11)にかけて、国内13社、海外2社のグループ会社が姿を消した。


昆山司達福紡織のスタート

 海外の生産拠点づくりはコンピュータリボンと接着芯地を中心に展開してきたが、この期には1993年(平成5)に中国・昆山に設立した昆山司達福紡織有限公司が本格的にスタートしている。アメリカではオレゴンのダイニックUSA社の新工場の建設、設備を増強して増産体制を確立した。
 1993年(平成5)5月に設立した昆山司達福紡織有限公司は、接着芯地「ステーフレックス」のシンガポール、タイに次ぐ3つ目の海外生産拠点である。同年8月に上海に事務所を開設、ただちに上海の西60キロの昆山市で工場建設に着手した。工場の敷地面積は3万3,000平方メートル、建物は4,900平方メートルであった。
 1994年(平成6)8月に工場の棟上式を行い、同年12月にほぼ完成した。建設と並行して機械設備の搬入を進め、1995年(平成7)3月に完了した。設備の据え付けが完了した4月11日にスイッチオンを行い、6月から本格的に生産を開始した。工場の生産能力は月産40万メートル、最終的には月産100万メートルを目標とした。従業員は65人であった。
 対外的な開業式は1995年(平成7)9月、昆山と上海で行った。昆山では朱副昆山市長をはじめ各省庁の関係者、建設工事関係者、近隣の日系企業の招待者など来賓80人を招待して、オープンセレモニーを開催、上海では銀行、商社、アパレルメーカーなど顧客あわせて240人を招き、盛大な披露パーティを催した。
 1996年(平成8)からは設備を増強し、同年秋に滋賀工場の「SC―7号機」を移設した。同設備の導入によって、加工糸をはじめ各種織物の起毛・漂白から塗布まで、一貫生産が可能となった。
 営業活動は上海事務所を中心に、現地の副素材問屋、国営企業、日系アパレル企業を対象としてステーフレックスの販売を開始した。上海につづいて1997年(平成9)には北京に事務所を設置して販売ルートの確立をめざし、翌1998年(平成10)には、天津、温州、寧波、大連、無錫に事務所を設置した。各営業拠点に製品を常備し、即納体制を整えるなど、営業所の機能を充実させ、拡販に全力をあげている。


サプライメーカーとして伸びる――ダイニックUSA社ほか

 ダイニックUSA社(DYNIC USA CORP.)は、創立8年目にあたる1996年(平成8)9月、工場周辺の土地約1万坪を購入して新工場の建設に着手した。新しい工場の規模は約1,800坪で、従来のファブリックリボンの生産に加えて、熱転写フィルム、OHPフィルムの生産に進出するための布石であった。建屋は1997(平成9)春に完成、ただちにTTR(サーマルリボン)コーティングマシン、周辺設備を新設して、同年6月から本格稼動にはいった。同社の生産品目はファブリックリボン、バーコード用TTR、衣料用ケアラベル(シータス)などで、北米だけでなく南米でも積極的な営業活動を展開している。1998年(平成10)度の売上高は1,400万ドル、従業員は75人である。
 パラナ・サプライズ社(PARANA SUPPLIES CORP.)は、OEMの純正インクリボンで順調に業績を伸ばしている。1998年(平成10)度の売上高は1,965万ドル、従業員は188人である。カセット組み立て生産のファブリックリボン、インクジェットリファイル、トナー、カートリッジに加え、1996年(平成8)からは、サーマルリボンの販売も行っている。南米への販売を強化するなど市場開拓を進める一方、同年九月から「インクジェットカートリッジ」の成型事業を開始した。成型機3台でスタートしたが、1997年(平成9)4月に2台を増設した。同年秋にはレジスター用の「ERCリボンカセット」の生産を開始するなど、サプライメーカーとして業容の拡大をめざしている。
 コンピュータリボンのヨーロッパの生産拠点であるダイニックUK社(DYNIC (U.K)LTD)は、ヨーロッパ全域にサーマルリボンとケアラベル、ドットプリンターリボンを販売している。98年(平成10)度の売上高は約500万ポンド、従業員数は50人である。同社は顧客サービスと品質管理に力を注いできたが、1998年(平成10)1月には「ISO9002」(製造、据え付け、付帯サービスにおける品質保証)の認証を取得、品質、サービスともに高いレベルにあることが公的に証明された。


生産拡大へ――大連大尼克辦、台湾科楽史工業

 中国大陸のインクリボンの生産拠点である大連大尼克辦公設備有限公司は、ドットプリンター用のインクリボンカセットの組み立てからスタートして、サーマルリボンに進出、1995年(平成7)には第2工場を建設して、リボン塗装機と成型機を導入、ファブリックリボンカセットの一貫生産体制をつくりあげた。ファブリックリボンの生産設備は東京工場の深谷移転の際、大連尼克?に移設されたものである。
国内で行っていたファブリックリボンの生産は現在、すべて大連大尼克辦に移管されている。いわゆる生産の国際分業化はファブリックリボンが先頭を切るかたちで始まった。
 1997年(平成9)には、第3工場を建設して文具関連商品の生産に乗りだし、リボン中心から生産品目の拡大を図った。1999年(平成11)4月には、ダイニックUK社につづいて、関連会社としては2番目の「ISO9002」の認証を取得するなど、品質・サービス面で確かな地位を築きつつある。
 1998年(平成10)度の売上高は11億6,000万円、従業員数は250人である。現在のところ日本への輸出が90%を占めており、中国国内での販売強化が課題になっている。
 最近の台湾科楽史工業股份有限公司はブッククロス、商標布、印刷用クロスなどを生産し、台湾だけでなくアジア全域、欧米各国へも活発に輸出している。1998年(平成10)度の売上高は2億7,000万元、従業員数は57人である。最近は輸出比率が高く、売上高ベースで80%に達している。
 アジア市場では1998年(平成10)から軽コーティング製品が急速な伸びを示し、第3の柱として育ってきた。とくにインクジェット用素材が好調である。ビニールペーパーも生産量が倍増、印刷機の新設やコーターの改造など設備の増強を図っている。


事業の拡大に向かう――ニック産業

 ニック産業は1994年(平成6)の上場時に中期計画を策定し、「売上高250億円、15店舗」の実現を中期目標にかかげた。これを受けて1995年(平成7)から積極的な多店舗戦略を実行に移した。同年12月に「長岡店」、翌1996年(平成8)4月に「田辺店」、8月には「洛西店」と相次いで出店した。新店舗はいずれも売場面積1,500平方メートル、常備する商品数は5万点というのが店舗設営の目安であった。全商品の40%を電器工具や塗料、日曜大工用品とするのが標準的な構成で、1店当たりの初年度の売上げ目標を15億円とした。
 1997年(平成9)4月にオープンした山科の西野山店は、地元の食品スーパーとの併合店舗である。併合店形式の出店は初めての試みだったが、顧客の吸引などで相乗効果が生まれている。同店は京都府にあるニック産業の店舗のなかでは最大の規模を有し、食品スーパーと共有の広い駐車場もある。約9万点の商品を常備する同店の売れ筋は日常雑貨とペット飼料である。
 1995年(平成7)以降に出店した長岡店、田辺店、洛西店、西野山店はいずれも京都市の周辺部に位置している。京都市の中心部は規制がきびしく、広いスペースの用地取得が困難であるため、あえて郊外に狙いをしぼって開設したのだが、1999年(平成11)からは、京都市の中心部や京都府外への進出が始まった。その先頭をきったのが「川端店」である。ニック産業にとっては9号店になる「川端ニックホビーショップ」は、鴨川左岸の染工場跡につくった都市型店舗である。風致地区のため高さに制限があるため、3階建てとして、1階を駐車場、2階と3階を店舗にしている。売場面積は約2,000平方メートルだが、柱がないため店内はゆったりとしている。インテリアと家庭用品を中心に約5万点の商品をそろえている。
 同年7月1日には「2色の浜店」がオープンした。大阪の第1号店である「2色の浜ニックホビーショップ」は、貝塚市にある府下最大のアウトレットモール「コスタモール」内にある。売場面積5,234平方メートルの複合型店舗である。このほか2000年(平成12)には京都の南地区に2店舗、東地区に1店舗の開設する計画で、15店舗という目標に向かって順調に推移している。
 同社発足時の事業であるボーリング部門の全社売上比率は約3%である。事業としては安定期にはいり、設備更新はあるものの償却が完了しているので収益率も良好である。嵯峨ニックスポーツプラザでは、ディスコボーリング・システムやコンピュータ&カードシステムなどの新技術の導入、設備の充実につとめ、国民スポーツとして定着したボーリングの普及をめざしている。


新分野に伸びる――オフィスメディア、大和紙工

 情報関連商品の販売会社であるオフィスメディアは、1995年(平成7)前後から事業を拡大してきた。同年9月に愛知県幸田町に「メディアフォーム印刷」を設立して、8色カラー印刷輪転機、電子製版システムなどの最新設備を導入、ビジネスフォームの供給体制を強化した。
 デジタル印刷についても1996年(平成8)前後から研究を進め、狭山ニックの解散にともない同社のDTP事業部門を吸収して、同年11月にデジタルメディア販売、サイバーデザインの両グループを発足させ、デジタル印刷の営業活動を開始した。翌1997年(平成9)1月にはサイバーデザイン室を設置して、4台の新マックシステム、最高級のスキャナー、カラーカンプを作製する出力機などを導入、本格的にデジタル印刷事業に乗りだしている。
 同社はビジネスフォームやコンピュータサプライ用品だけでなく、独自の商品も数多く開発している。たとえば、この期に誕生した製品に、「ホロシーラー」「ツリーフリーペーパー」「PUSHシステム」などがある。
 ホロシーラーはもともと英国で開発された偽造防止用の印刷素材である。日本ではオフィスメディアが販売権を獲得、1994年(平成6)9月から発売した。カラー複写機による偽造を防止するためにホログラムを使用した画期的な製品で、小切手、手形、株券、証書をはじめ、官公庁が発行する各種許可証、免許証などに幅広い用途をもっている。
 デジタル・カラー印刷ソフト「PUSHシステム」は、デジタル印刷事業部門が最初に完成させたシステムで、会社案内や製品カタログなどがかんたんにカラー印刷できるというひとつの提案であった。
 ツリーフリーペーパーはパルプを使わない非木材紙、いわゆる環境調和型の印刷素材である。沖縄や台湾、東南アジアで産出される「バガス」(サトウキビの搾りカス)を原材料にした紙である。オフィスメディアでは、このツリーフリーペーパーを使用した帳票や封筒、パンフレットを製作して普及につとめている。
 大和紙工は所沢の本社工場と深谷工場の2工場をもち、かつてはダイニックの東京工場、深谷工場の仕上げ加工の担当部門だったが、現在は食品包装関係の加工が主力で、ダイニック製品の加工比率は数%になっている。最大の業務は缶ビール用パッケージの台紙加工で、そのほか即席麺のカップの蓋なども大きな比重を占めている。
 食品包装材の加工に転身した同社は1998年(平成10)10月から、鮮度保持剤の生産を開始した。大和紙工の開発した鮮度保持剤は生鮮食料品の鮮度を保持する保存剤で、株式会社フレテックが「フレテック」という商標名で、製パンメーカーやハム、ソーセージ、菓子、精肉、鮮魚などの食品を扱う企業に販売している。
 フレテックは安全な保存剤で、使用後は一般可燃ゴミとして焼却できるなど、すぐれた特性をもっている。アメリカの安全基準もクリアして、日本製の食品保存剤として初めて輸出された。大和紙工にとって鮮度保持剤の生産は、主要事業のひとつになりつつある。

国内13社、海外2社を整理

 創立80周年の1999年(平成11)は「グループ元年」として、21世紀に向かって強固な企業体質づくりに着手した。国内だけでなく海外も含めたグループの総合力を極め、グループ全体を視野に入れた経営が始まった。グループを含めた規模でドラスティックな企業の再構築も始まったが、そのなかにはグループ会社の整理統合も含まれ、1999年(平成11)には5社のグループ会社が解散となった。もっともグループ会社の整理、統合はすでに1994年(平成6)から始まっていたが、財務会計の連結中心へのシフトチェンジという流れのなかで、奇しくも1999年がピークを迎えたのである。1994年(平成6)後半から1999年(平成11)までに整理・統合したグループ会社は国内13社、海外2社である。
 ニックは手芸材料販売を主体に一時は30店まで店舗を拡大したが、その後消費者の手芸離れが深刻で売上げが低下、利益面でも苦しいい局面が続いていた。手芸関連材料の将来性は薄いとの判断から、1994年(平成6)12月、事業から撤収することし、首都圏のスーパーなどに出店していたテナント約15店を1995年(平成7)3月までにすべて撤退した。
 リゲルジャパンは高級ゴルフバッグの製造・販売会社として発足したが、1994年(平成6)11月に解散した。スタートしたころはバブル景気の絶頂期で、同社の製造する高級品指向のゴルフバッグの売れ行きは好調だったが、バブルの崩壊とともに急速に業績が悪化して、わずか四年で撤退することになった。市場動向を読みちがえたケースである。
 ステラニックの撤退も市場動向との乖離が原因であった。同社はFFC(印刷フィルム)の加工による用途展開を狙って設立したが、フィルム化のテンポは思いのほか遅く、加工品の用途にも限界があることが判明して、1994年(平成6)11月に解散した。
 京都ビジネスサプライは、インクリボンのアフターマーケットを対象とするサプライ事業を主目的にスタートしたが、販売力がともなわず、1998年(平成10)5月に解散したが、業務そのものはニックフレート東大阪営業所にある加工部に引き継がれた。
 多賀緑化はミニ・ゴルフ場の経営にあたっていたが、それはもともと滋賀工場の緑化維持という発想から生まれた事業だった。創立後の数年は順調だったが、ゴルフブームが去るとにわかに経営が悪化、1996年(平成8)11月に解散することなった。
 事業の将来性からみて、整理・統合に踏み切ったのはニック工芸、ダイニック・フラワーアンドグリーン、ニックビジネスサプライ、ニック環境サービスの4社である。
 1997年(平成9)4月に解散したニック工芸は、ダイニックの合成皮革・人工皮革を使用して鞄・袋物への製品展開を図ってきた。同社の商品はいずれもファンション性が高く、企業として伸ばすには相応の資金的、人的な投資を必要としていた。だが、事業そのものの将来性から判断して撤収することに決まった。
 花卉・観葉植物の生産・販売を行ってきたダイニック・フラワーアンドグリーンは、バブル崩壊後、転機を迎えた。事業を継続するには相当のスケールアップが必要であったが、グループ内にはそれに適合する人材がいなかった。やはり将来的な見地から、1999年(平成11)7月に解散を決定、同社の業務をダイニック・ファクトリーサービスのグリーン事業部に統合した。
 ニック環境サービスの譲渡も将来性の見地から判断した結果ある。環境測定の業界地図は色づけが明確になり、競合会社はいずれも同社の10倍以上の規模に達していた。規模が採算性を大きく左右する現状から、1999年(平成11)9月、GS環境サービスに株式を譲渡して、新しく可能性を探ることになった。
 ニックビジネスサプライは企業の性格や事業の規模から判断して存続させることは困難であるとして、経営者の死去とともに、一部の業務を大和紙工に移管して、1999年(平成11)7月、解散した。
 狭山成型と狭山ニックは1999年(平成11)3月と11月にそれぞれ解散した。いずれも一定の役割を終えたことによる事業の撤収である。
 狭山成型は車の天井材の成型工場である。ダイニックが不織布による車の天井材を展開するうえで重要な役割を果たしてきたが、成型加工はもはや事業としてのメリットはないと判断して、素材の販売に徹する途を選んだのである。
 狭山ニックはグループも含めて使用している伝票類、見本帳などを内作する目的で設立された印刷工場で、社内規格の統一などについて一定の役割を果たしてきたが、事業としての独立性が見いだせなかった。業務の一部をオフィス・メディアへ、設備を大和紙工に移管して解散した。
 桂工業とハロニックはともに1999年(平成11)7月に解散、業務のすべてをダイニックに吸収、統合によるメリットを活かすことになった。
 桂工業は滋賀工場内にあったうえに、業務自体も滋賀工場と一体化していた。統合して、経営効率の向上を図ったほうが得策であると判断しての解散であった。芯地の製造・販売を展開しているハロニックも、ダイニックの芯地部隊と一体化して、総合的に展開したほうが効率的だという判断から、積極的に統合に踏みきったのである。
 海外では台湾の銘州興業股份有限公司と香港のグリッター・ストロング社がグループを離れた。商標布のメーカーである銘州興業は1989年(平成元年)10月にグループに参加、翌1990年(平成2)2月に新会社を発足させたが、事業展開の手法や考え方に根本的な齟齬があり、1995年(平成7)9月、同社と同社の販売会社であるグリッター・ストロング社(GLITTER STORONG LTD.)とともに株式を譲渡するかたちで合弁を解消した。

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