東京工場の集約移転と埼玉工場の誕生」

工場集約で新鋭化を図る
 創立75年を経たダイニックが80周年に向けてスタートをきった1995年(平成7)1月17日、東京工場の深谷への集約移転計画が発表された。深谷工場を大幅に拡充して東京工場を全面移転するという計画であった。
 埼玉県狭山市の東京工場は1960年(昭和35)に建設され、紙クロス、コンピュータリボン、印刷用フィルム(FFC)を生産してきた。紙クロス工場として出発した同工場の生産品目は紙クロスが中心で、10年前までは全生産額の70%を占めていた。ところが近年はインクリボン、印刷用フィルムが急増、紙クロスと肩をならべるまでに成長してきた。インクリボン、印刷フィルムの設備増強が急務になったが、東京工場は敷地がせまくて、設備の更新や増設ができない。さらには建物の老朽化も進んでいた。生産拡大のためには工場全体の再開発が必要だったが、工場立地法の関係で増強や再配置はほとんど不可能な状況であった。
 東京工場は収益性の高い工場だったが、改善もままならず、現状のままではやがて競争力も低下して収益性が悪化する。新製品の開発、生産量のアップ、生産性の向上を図るには設備の新設、増設、ラインの合理化が不可欠であった。そこでスペースに余裕のある深谷工場に移転して「近代化・新鋭化」をめざすことになったのである。
 東京工場の移転については1994年(平成6)にまる1年かけて議論を尽くした。いくつかの移転案が浮上したが、最終的に東京工場の機能を全面的に深谷工場へ移転するのが最も効率的で実現性が高いという判断にもとづいて、1994年(平成6)12月の常務会で決定をみた。
 深谷工場に新しく延べ面積にして1万9,000平方メートルの工場を増設して、総延べの面積5万5,000平方メートルの工場施設とする。総工費40億円をかけて生産設備も一新、生産能力を30%、生産性を50%をアップさせるというのが移転計画のあらましであった。
 東京工場の集約移転も体質改善策の一環であったが、工場の縮小ではなくて、経営効率の向上を目的とした「新鋭化」がねらいであった。「おれんじ」No.173号の誌上メッセージで坂部三次郎と坂部三司は次のようにのべている。

 年初に発表した〈深谷工場の増設、東京工場の全面移転・集約〉も中期計画にもとづいている。単なる移転ではなく、新鋭設備による合理的な生産方式を追求する。質量ともに生産性をあげるところにねらいがあるから、移転にともなう人員増加は念頭にない。現有の人員でやりきる。したがって全員こぞって新しい工場に移り、会社を〈良くする〉ために力を発揮していただきたい。(中略)東京工場の移転・集約の背景には、国際分業化を念頭におき、当社の生産体制すべての改編をふくむ遠大な構想もある。それゆえに全社一丸となって成功させなければならないのである。(坂部三司「あるべき姿に向かって、スタートダッシュ」)

 私にとって1月17日は実に感慨深い一日であった。奇しくも阪神大震災がおこったその日、私は社長ともども東京工場へおもむき、深谷工場への集約移転を発表した。東京工場は私が工場長時代に建設した。当時、病床にあった創業者の父に模型を持参して説明したのを、今も鮮明に憶えている。同工場は昭和35年に竣工したが、父は実物を眼にすることなく他界している。遺骨の一部を建設現場に埋めたという経緯もあって、私にとっては最も愛着のある工場なのである。だが、私は過去の感傷にとらわれることなく社長の決断に賛成した。こんどの移転は工場の縮小を意味するものではない。生産を拡大するための工場集約である。ダイニックの発展には不可欠だと思うに至ったからである。(坂部三次郎「若さでみなぎる力で、緒戦に勝利をおさめる!」)


東西2工場制へ

 ダイニックは国内3工場のほか、国内グループ会社、海外グループ会社、国内外注企業と数多くの生産拠点をもって生産活動を展開している。しかしバブルの崩壊、デフレ時代の到来とともに商品の価値観が変化してきた。この変化に対応する一方、さらに製造コストの大幅な低減、物流の合理化、品質保証、PL問題など、個別の商品ごとの課題に応えるかたちで生産活動を見直さなければならなくなってきた。
 メーカーとしての将来的見地から、ひろい視野で生産活動をとらまえ、市場の実態と商品の関係をよく見きわめ、たとえば個々の製品ごとに「どこで造れば、最も効率的か」という問題をつきつめる。そういうプロセスを経て中期的な展望に立って生産拠点の再整備を計画的に進めることになったのである。
 中期計画のなかで「生産拠点の再整備」は3段階に分けて規定されている。第1次は国内2工場制の実施。第2次は国内生産品の海外移転と海外グループ会社の戦略的展開。第3次は国内工場の再整備と空洞化への対応、さらには国内グループ全体の生産体制の見直し、であった。
 東京工場の集約・移転は第1ステップに位置づけられていた。関西(滋賀)・関東(埼玉)の2工場制に決定したのは、海外を含めたグループの中・長期的な構想からみて、滋賀、埼玉の両工場で対応できると判断したからであった。
 滋賀と埼玉の両工場ならば、将来の拡張も見込めるうえ、経営資源(土地・建物・人)も最大限に活用できる。生産の合理化はもとより、情報の集約、技術力の集中・強化によって、新製品の開発にも大きな効果が見込める。東西2工場制の狙いはそこにあった。


新工場の建設と移転計画

 東京工場の集約・移転は社運をかけた大プロジェクトであった。1994年(平成6)12月の常務会で決定されると同時に移転推進体制もつくられている。常務会のもとに移転推進会議が設置され、プロジェクトの推進責任者である委員長には専務の細田敏夫、移転推進室長には取締役の石田捨雄が就任している。推進会議のもとに従業員対策委員会、設備移転推進委員会、移転関連機能委員会が設けられ、それぞれの下にいくつかの分科会が設けられた。
 とくに留意しなくてはならなかったのは、狭山から深谷に移る従業員の問題だった。東京工場の従業員はもともと地元の住民が多かった。およそ3分の2は狭山市に住んでおり、残りの3分の1も川越、所沢、飯能などに自宅をもっていた。地元で生まれ育った社員がほとんどで、狭山から深谷への通勤問題を先ず解決しなければならなかった。
 会社の方針として掲げたのは「全員こぞっての移転……」だったが、対外発表と同時に、社長の坂部三司はそれにふれて東京工場の従業員の家族に対して、次のようなメッセージを発している。

 この移転は従業員の皆さん方の生活基盤に関する重大な決定になります。皆さん方のご意見を十分に採り入れ、全員が移転できるような方法を採りたいと思います。
 これまで当社はつねに社業の発展と従業員の生活向上を結びつけ、これを基本方針として実現に努力してまいりました。しかしバブル崩壊後の景気低迷の影響から、当社は完全には脱却できておりません。今も体質改善を実施している最中であり、今回の決定もその一つであります。このような抜本的な解決策を実行してこそ、将来にわたる従業員の皆さん方の雇用の継続と生活の向上をはかれるものと確信しております。(中略)今回の移転を実施するにあたっては、従業員の皆さんにはそれぞれご事情があろうと存じますが、東京工場の現状と将来計画をご理解いただき、今後ともご協力、ご援助賜りますように切にお願い申し上げます。(「従業員のご家族の皆さんへ」)

 工場移転に関する労使間の基本協定は1995年(平成7)2月17日に締結され、ただちに移転条件に関する協議が始まった。住宅、通勤問題、福利厚生……など、移転対策労使委員会のなかで、それぞれの課題ごとに時間をかけて対策を練り、東京工場から移転する全員が新しい工場で仕事ができるように万全の準備体制能勢を整えた。
 深谷工場の敷地に新しく建設される工場棟は2棟で、第2工場と第5工場として位置づけられた。建設面積は第2工場が6,700平方メートル、第5工場が7,900平方メートルである。第2工場はインクリボンと印刷フィルム(FFC)の製造工場、第5工場は紙クロスの製造工場で、最新鋭の工場にふさわしい作業環境をもたせるよう設計された。基本設計が完了した1995年(平成7)3月、工場棟の建設を鹿島建設と五洋建設に依頼、5月中旬に着工することになった。
 第5工場の建屋建設は1995年(平成7)6月に着工、完成予定は12月末であった。翌1996年(平成8)1月から3月まで2カ月をかけて新設機5台を据え付け、4月から操業を開始する。東京工場から移設する機械は4月から搬入を始め、8月末までに据え付けを完了する。そして9月から全面稼動に入ることをもくろんでいた。
 第2工場は1995年(平成7)8月に着工、建屋の完成予定は1996年(平成8)3月であった。そして翌4月から新設機の据え付けを開始する。東京工場では4月から7月まで備蓄生産を集中的に行い、8月、9月の2カ月で機械設備の移設を行うというのが移転計画で明らかにされたスケジュールだった。


新鋭工場の完成 

 1995年(平成7)5月19日、深谷工場の敷地内で起工式が行われ、新工場棟の建設は本格的にスタートした。6月から始まった第5工場の建設は順調に進み、翌1996年(平成8)1月下旬に建築・消防検査に合格、1月末にはカッター、含浸機、油性塗装機、2月には水性塗装機、4色グラビア印刷機を設置した。
 1995年(平成7)8月からスタートした第2工場の建設もきわめて順調に運び、翌1996年(平成8)1月末には建屋がほぼ完成して、内装と間仕切りなどの作業に移り、あとは機械の移設を待つのみとなった。付帯設備の工事もスケジュールどおりに進んで、特高・変電設備は1995年(平成8)の末に完成、ボイラー、排水設備も1996年(平成8)1月末に完成した。
 新しい2つの工場棟に移転してくる東京工場を含め、工場の総体を「埼玉工場」と呼ぶことに決定、3月6日に火入れ式を行った。
 第5工場は1996年(平成8)3月末に新設機の試運転を完了した。同工場の一部稼動と合わせて4月1日付で「深谷工場」の名称を「埼玉工場」に変更し、組織のうえで一歩先んじて新工場がスタートした。埼玉工場長には移転推進室長の石田捨雄が就任、従業員は約450人(契約社員約150人を含む)であった。
 移転はその後も順調に進み、4月から東京工場から第5工場への設備の移設が始まり、6月に据え付け作業もほぼ完了した。第2工場でも4月からインクリボンの設備移設を始め6月末に完了、印刷フィルム(FFC)も予定どおり8月末から移設作業に入った。そして10月23日には、FFCのメインマシン「AC-1号機」のスイッチオンが行われ、クロス、インクリボン、FFCの順で進められてきた東京工場の設備移転がすべて完了した。
 新しく建設された第2、第5の両工場はクリーンな工場として完成した。第2工場は天井をつけて空調を完備し、クリーンルーム化を実現した。第5工場でも仕上げ工程には天井をつけた。埃や虫の侵入を防止するために、出入口は二重構造にして窓も完全密閉式にした。作業環境ごとに「スポット・クーラー」を設置し、快適な作業環境になった。
 FA(ファクトリー・オートメーション)化、ライン化も売り物のひとつである。工場の床の下に磁気を埋め、これによって無人車が工場内を走り、原料や資材を自動的に搬送する。これまでのようにフォークリフトで搬入、搬出する風景は見られなくなった。さらに塗料工程とメインの生産機がワンセットになって、レイアウトもすっきりした。生産工程には端末機や計測器が設置され、自動化、計測化がいちだんと進んだ。
 省エネ対策にも工夫をこらした。新工場では大型の水管ボイラーに代えて、小型の貫流ボイラー6台を設置した。それによって熱エネルギーが合理的に使用できるようになった。排水処理にも工夫をこらし、生産排水と一般排水を分けて処理できるようになった。従来300トンあった排水が200トンに減少して、資源の節約・経費の削減を実現した。
 クリーン化、FA化によって作業環境は大幅に改善されたが、工場の外観もそれにふさわしく「明るい工場」になった。従来の深谷工場に合わせて工場内のカラーを統一し、屋根はブルー、機械設備はモスグリーン、配管類はブルー、電気系統はブラウン、壁面はベージュ、床は「グリーン」とした。
 工場内の照明も増やし、さらに屋根から自然光を取り入れる「トップライト」方式を採用した。2カ所から太陽光がはいるため工場内はきわめて明るくなった。


埼玉工場の発足

 移転がすべて終了して本格稼動にはいった1996年(平成8)11月1日、埼玉工場の見学会をかねて新築披露式を開催した。午後1時半からの工場見学会には、全国の代理店やユーザーをはじめとする顧客、仕入先を中心に、多数の見学者がつめかけた。当日はあいにく雨だったが、工場と工場の渡り廊下にはターポリンのテントをはって出迎え、装いを新たにした埼玉工場の生産施設と製品展示場に案内した。
 第2工場と第5工場を加えて5つの生産センターをもつ埼玉工場の総敷地面積は10万8,289平方メートル、建築面積5万4,058平方メートルである。第1工場はピニール製品(ビニールペーパー、テント)。第2工湯はインクリボン(ワープロ用、プリンター用)、精密フィルムコーティング素材〈FFC〉〈印刷用フィルム)。第3工場がニードルパンチカーペット。第4工場が不織布製品(車輛天井材、フィルター)。第5工場はフッククロス(油性、水性、教科書)の生産工場になっている。
 工場内には技術開発の中心的な役割を果たす技術センターも完工していて、開発指向の未来型の工場としての体制が整っていた。ダイニックはコーティング、不織布、染色などの固有技術に含浸、ラミネート、ニードルパンチ、エンボス、プリント、抗菌加工など多彩な技術をもっている。たとえば旧深谷工場のラミネート技術と旧東京工場のコーティング技術のドッキングすることによってさまざまな製品を生産することが可能になる。見学会ではそういう未来を志向する工場の姿を披露したのである。
 見学会終了後、午後3時から埼玉グランドホテル深谷で竣工披露パーティを催し、仕入先メーカー、機械メーカー、代理店、顧客、福嶋深谷市長をはじめとする地元の関係者など約600人の来賓を前にして、社長の坂部三司は次のように挨拶した。

 私どもが40数年お世話になった狭山の東京工場を、深谷のこの地に全面的に移転して新鋭工場として生まれ変わりました。深谷には昭和39年から世話になっておりますが、みなさまもご承知にように、深谷は日本経済の生みの親というべき渋沢栄一翁の生地でございます。その渋沢翁が私どもの創業者が勤めていた京都織物の会長をなさっていたというわけで深い縁を感じております。今日、新鋭工場ができましたが、皆さまがたに更なるご愛顧をいただけるよう、完成した器に魂を入れまして、夢のあるダイナミックな工場に育ててゆく所存です。本日ご列席のみなさまがたのご指導、ご支援のほど、よろしくお願いいたします。

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